第四章 第十話「南蛮勢力の逆襲」(前編)
長くなりましたので、分けました。
【帝国の影、燃ゆ】
西暦1587年、マニラ総督府――。
南国の熱気と香辛料の匂いが漂うフィリピン総督府の大広間に、重苦しい沈黙が漂っていた。
南蛮紅で彩られた石造りの部屋。その中央に据えられた円卓を囲むのは、スペイン帝国とポルトガル王国の高官たち。
かつて世界を半分に分けた覇者たちは、今や眼前に広がる東洋の“異変”に、憤怒と狼狽を隠せなかった。
「報告書を読み違えたとは言わせんぞ、ドン・サンチャゴ」
静かに口を開いたのは、スペイン王フェリペ二世の命により東洋に派遣された将軍のひとり――ディエゴ・ロンキージョ(Diego Ronquillo)。かつてのマニラ総督であり、軍務にも通じる老練な男だ。
その言葉に返したのは、リスボンから来訪していたポルトガル側の代表、ドン・パウロ・デ・リマ・ペレイラ(Paulo de Lima Pereira)。本国で対日貿易を主導し、マカオを通じて莫大な利益を得ていた一族の名門である。
「我が王国の情報網は、すでに“異常事態”を伝えていた。日本――あの黒川という地方豪族が台頭してから、明確に流れが変わったのだ」
ロンキージョは鼻を鳴らした。
「台頭だと? 馬鹿な。たかが東洋の辺境の一領主が、いかにしてポルトガルの貿易網を破るというのだ」
「そう言っていたのは十年前の話だ。だが今や、あの“黒川艦隊”は、長崎・琉球・台南、さらにはインド洋にすら影を落としている。しかも――」
ペレイラは卓上の地図を指でなぞる。
「最新の報告では、“蒸気の力”で動く軍船を所有している。かつてイギリスの船員が記した“未来予言の書”に似た設計図を実際に具現化しているのだ」
「……蒸気、だと? 機帆船? スクリュー推進までも……か?」
ロンキージョは唸った。
「どこまで真実なのだ。そのような艦がこの世に……」
「実在する。マカオの商館長ルイス・デ・ソウザが自ら目にした。黒川の技師たちは“圧延された鋼板”で艦体を覆い、我々のガレオン船に通じぬ火器を搭載していたと証言している」
「火器……砲も違うのか」
「彼らは後装式の大砲を使っている。射程は我が艦砲の倍、命中率も恐ろしく高いという」
部屋の空気が変わった。
沈黙の中、誰ともなく呟いた。
「もはや、我々が東洋の主ではない……というのか」
その言葉に、ロンキージョは机を叩いた。
「ならば討つしかあるまい。あの異端の艦隊を撃滅せねば、我らの威信は地に堕ちる!」
ペレイラは頷き、冷静に続けた。
「そこで提案だ。マカオ、マニラ、インド・ゴア、さらにニュー・スペインから援軍を集め、ポルトガルとスペインの“共同艦隊”を編成する。艦隊規模は十隻以上、うち六隻は最新のガレオン船。火薬、精鋭兵、戦闘司祭団を含めて総力戦を挑む」
「総力戦……。場所は?」
「ルソン沖――マニラ湾にて“待ち伏せ”を行う。黒川艦隊が東アジア貿易航路を整備するという情報がある。主力が南下するその瞬間を狙う」
ロンキージョはしばし考え、静かに答えた。
「よかろう。我がフェリペ二世陛下の威光にかけて、あの黒川とやらに“ヨーロッパの鉄槌”を食らわせてやろうではないか」
ペレイラはにやりと笑った。
「忘れるな。我らは世界を分けた王国だ。東洋の夢想家など、我らの誇りに敵うものか」
その瞬間、マニラの夜の海に、重く、深く、戦の気配が満ちた。
【黒川艦隊、出航】
――天正十五年・越前敦賀湾
蒸気のうなりと、鋼の唸りが、地を揺らしていた。
「圧力、安定しています。蒸気圧、第五区まで上昇――臨界直前、良好!」
鋼鉄の心臓部――それは、旗艦・**黒龍**の蒸気機関室。
慣れぬ機構に戸惑いながらも、若き火夫たちは精一杯に火をくべていた。
炉の前で指揮を執るのは、この艦の船匠頭にして、かつて村上海賊の総帥と恐れられた男、村上武吉である。
「蒸気は火の力、だが制御せねば暴れるだけよ。馬よりも、風よりも、気まぐれだからな」
そう言いながら、彼は炉の音を聞く。
まるで炎と語るように、圧力の呼吸を読むのだ。
「……よし。これならいける。艦橋に伝えろ。“龍、目覚めたり”とな」
「はっ!」
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一方、補給船・白鷺の船室では、如月千早がメモ帳とにらめっこしていた。
彼女の傍には賀茂清之助。蒸気炉の整備を終えたばかりの彼は、汗を拭いながら図面に目を通していた。
「真秀様の巻物、今回も無茶ぶりすぎるぞ」
「今回は“機帆船の装甲と遠距離射撃の最適化”……ね、これ、真秀様本人も分かっていないみたい。」
千早は軽く笑った。
「でも、面白いじゃない。私たちしか、これを実現できる人間、いないんだもの」
「ははっ、言ってくれる。……ああ、火を制してこその職人よ」
そのとき、通信管を通じて命令が届いた。
「黒龍より号令! 全艦、出航準備――“鳳凰旗、上がる”!」
千早と清之助は顔を見合わせた。
「いよいよね」
「……ああ。鉄と夢の船旅だ」
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艦隊中央に浮かぶ主力艦・鳳凰丸では、指揮を執る九鬼嘉隆が舷側に立っていた。
かつて信長の鉄甲船を統率し、今や“黒川艦隊の智勇”と呼ばれる海将である。
「……出航だと? 黒龍が先に煙を上げるとは。昔の村上殿とは随分と変わったもんだ」
彼の背後から副官が報告する。
「舵、全艦一致。風は北西、微風。敵艦の気配、未確認」
「上出来だ。さあて、我らも負けじと火を吹くぞ。清之助殿の“砲身磨き”の成果、見せてもらうとしようか」
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艦隊は全艦一斉に白煙を上げた。
スクリューが水を掻き、船体が波を裂いていく。
それはもはや、戦国の海の風景ではなかった。
それは未来が、今ここに姿を現した瞬間だった。
敦賀の民は港に集まり、黒煙の船団を見上げた。
「おお……あれが“未来の舟”か……!」
「まるで、鉄の山が動いとる……!」
その中に、真秀の命を受けた密偵――羅門昌次郎の姿もあった。
彼は航海に同乗する外交団の一人として名を連ねている。
「この眼で見るまでは信じられなかったが……これが、“黒川式”か」
彼はマカオへと送られる新たな外交暗号を、袖の中に隠していた。
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艦隊司令室では、旗艦・黒龍にて、村上武吉が旗信号の昇降を確認していた。
「よし、全艦、針路南南西――第一航路、出航せよ」
「機関出力、三分。ダブルスクリュー、起動!」
「鳳凰丸、進路にて随伴確認!」
「疾風より通信――“気象、安定。海路よし”!」
黒川艦隊は、その瞬間、海へと放たれた。
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その夜、艦内の作戦会議室では、真秀直筆の指令文書が如月千早の手によって開封された。
「“我々は、東の果てより世界を知る。交わり、争い、学び、そして制する”。真秀様はそう書いているわ」
賀茂清之助が苦笑する。
「この殿様、いちいち詩人みたいな書き方しやがって……」
「でも……嫌いじゃないわ。こういう“知の矢”の撃ち方」
千早は窓の外、夜の海に広がる黒い波と、白く棚引く煙を見つめた。
その向こうには、南洋の嵐と、火を孕んだ異国の艦隊が待ち構えている。
だが、恐れる必要はなかった。
なぜなら、彼女たちは知っていたのだ。
「この船団こそが、歴史の“未来”そのもの――そして、それを撃ち砕かんとする旧時代の亡霊たちが、待っている」
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艦隊は北上後、琉球を経てマカオ方面に航路を伸ばす。
目的は、新東アジア航路の確立と通商条約再交渉のための示威行動――
だが、その背後に忍び寄るのは、スペイン・ポルトガル連合艦隊の“聖戦”だった。
真秀の命により動くこの艦隊の中には、ただの軍人だけではない。
学者、技師、翻訳官、交易官、外交僧――新時代を形にする者たちが乗っていた。
戦うためではなく、
未来を繋ぐために。
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東の水平線が淡く染まり始めた頃、艦隊は一斉に蒸気を噴き上げた。
スクリューが水をかき、鋼の船体が波を裂く。
それはまさに、時代を越えて現れた“未来”そのものだった。
そしてこの艦隊こそが、後に「極東における艦政の夜明け」と呼ばれる歴史的航海の始まりとなる――。
艦隊が海を進む音が、まるで新たな時代の鼓動のように響いていた。
こうして、日本艦隊の大遠征――「南洋航路作戦」は幕を開けたのである。




