第四章 第五話「炎上する本能寺」
天正十年六月二日、未明――。
京の町並みはまだ静かな闇の中にあり、人々は深い眠りに落ちていた。しかし、その闇の静寂を切り裂くかのように、突如として鐘の音がけたたましく響き渡った。
それはまるで、運命の扉が開かれることを告げるかのような、恐ろしく重い音だった。
黒川真秀は、深夜に届いた急報によりすでに起きていた。その報は衝撃的だった。
「明智光秀、軍勢を率いて本能寺を急襲。織田信長様が危機に――」
真秀の血が一瞬にして冷え固まるような感覚に襲われた。
予想通りである。しかし、それが現実となる瞬間に立ち会うと、彼の身体は動かなくなるほどの衝撃を受けていた。
「殿!」
間宮時継が、真秀のいる書院に飛び込んできた。
「今しがた、我が斥候より報告が届きました。光秀殿の軍勢は本能寺を完全に包囲したと。もはや猶予はありません!」
真秀は立ち上がり、静かに間宮を見据えた。
「光秀殿は、本当に信長様を討つつもりなのだな……」
間宮は固い表情で頷いた。
「ええ。この状況では、すでに戦闘は避けられません。我々はいかが致しますか?」
真秀は即答せず、深い呼吸を何度か繰り返し、決断を下した。
「直ちに我が兵を動かせ。ただし、本能寺へ向かうのではなく、京の要所を押さえ、民の混乱を最小限に留めよ。戦火が町中に広がれば、多くの犠牲者が出る」
「承知いたしました。しかし、信長様のご救援には?」
真秀は静かに首を横に振った。
「もはや……間に合わぬ。光秀殿がこれだけの挙に出た以上、信長様の命運は決したも同然だ。我々に出来ることは、この混乱を拡大させぬことだけ。京の町を平穏に保つことだけだ」
「はっ」
間宮が迅速に指示を出すと、真秀は書院を出て屋敷の庭へと歩み出た。東の空がわずかに白み始める頃だったが、その方向――本能寺の方角には不気味な赤い光が揺れていた。
真秀の心臓は早鐘を打つように激しく鼓動していた。
(信長様、あなたの天下統一の夢が今、炎の中に消えようとしている……)
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同じ頃、本能寺はまさに地獄の様相を呈していた。
本能寺を包囲した明智軍は、容赦なく攻撃を加えていた。無数の火矢が降り注ぎ、建物は瞬く間に炎に包まれ、熱気と怒号と剣戟の音が渦巻いていた。
「敵襲! 旗印は.....明智勢が攻めてきたぞ!」
本能寺内部では森蘭丸をはじめとする織田信長の家臣たちが、鬼神のごとく、混乱の中で必死に応戦していた。だが、圧倒的な兵力差により、彼らは次第に追い詰められていく。
燃え盛る炎の中、奥の間では織田信長自身が、刀を片手に静かに座していた。
「誰かと思えば、光秀であったか……。人生五十年には満たぬが、是非に及ばず……」
彼の瞳には動揺も恐怖もなく、ただ静かな諦念が漂っていた。
やがて明智軍の兵士たちが、本能寺の奥の間にまで迫ってきた。その先頭には明智光秀自身が立っている。
「信長様……」
光秀はその名を小さく呟き、深い哀しみを湛えた目を炎の中へと向けていた。
信長との在りし日の思い出が走馬燈のように浮かぶ。
そして彼自身、この光景が自分の手によるものであることに、激しい罪悪感を感じている。
だが、それでも引き返せぬところまで来てしまったこともまた事実だった。
「殿、信長様はもはや逃げ場がありませんぞ!」
部下の声に、光秀は固い声で告げる。
「うて。ただし、遺骸を辱めることは許さぬ」
部下たちが奥の間へ雪崩れ込む。その瞬間、奥の間からは激しい炎が吹き上がった。
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京の町を遠くから見下ろしていた真秀は、その炎の色を見て、静かに目を閉じた。
(信長様が、逝かれたか……)
彼の横で、間宮が小さく呟いた。
「殿、天下は……再び大きく乱れることになりましょう」
「そうだな……ここからが、本当の地獄だ」
その瞬間、背後から足音が近づき、急使が駆け込んできた。
「殿、秀吉殿が備中より急遽戻り、敵討ちを決行されるとの情報が!」
真秀の表情が凍りつく。史実より早い......中国大返しをするのだな。
「秀吉殿が……動いたか」
「はい。柴田勝家殿もまた安土で兵を動員し、京に向かう準備を整えております」
この動きも史実よりはるかに速い。史実では越後方面で動けなかったはずだ。
「家康殿の様子は」
「分かりません」
真秀は即座に判断を下した。
「我々も急ぎ動かねばならぬ。秀吉殿には経済支援を約束し、早急に同盟を固めよ。一方、柴田殿には我々が敵ではないことを伝え、無用な衝突を避けるのだ」
間宮が迅速に指示を下し始める。
真秀は再び燃え盛る本能寺の方角を見つめ、その炎を心に深く刻みつけた。
(織田家の天下は、これで終わりを告げた。だが、次の天下を作るのは、この乱世を生き抜く我ら自身だ)
夜が明けていく中、京の町は激しい混乱と緊迫感に包まれていた。
本能寺を包む炎は明け方まで燃え続け、信長の死は天下に衝撃を与え、日本は再び戦乱の渦中へと引き戻されることとなった。
黒川真秀は、燃え盛る炎を見つめながら、自らの中に新たな覚悟が芽生えるのを感じていた。
(この炎は、終わりであると同時に、新たな時代の始まりでもある。ならば私は、この混乱を収束させるためにこそ動く……)
その胸の内に決然たる覚悟を秘め、彼は新たな時代の幕開けとなる激動の波に立ち向かう決意を固めていた。
信忠も、救援むなしく既に切腹していました。結局織田方で生き残った人物は史実通りです。




