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第四章 第四話「決断の夜」

天正十年六月一日、京の夜は深かった。

昼間は夏を予感させる蒸し暑さが満ちていたが、夜半ともなると、町を覆う静寂の中に涼やかな風が吹き始めていた。

しかし、その静寂は一見しただけのもので、夜陰の京の町はまるで水面下に激しい潮流が渦巻いているように、静かに、しかし確実に不穏な空気に満ちていた。

黒川真秀は、自邸の縁側に座し、月のない暗い空を仰いでいた。庭に敷かれた白砂は闇の中でうっすらとその輪郭を浮かべ、奥の庭木の枝葉は微かな夜風に揺れている。

そこに、間宮時継が静かに現れた。

「殿、明智光秀殿がお越しになりました」

真秀は、静かに目を閉じた。

「案内せよ」

間宮が頷き、下がると、やがて足音と共に明智光秀がゆっくりと姿を見せた。その表情は以前にも増して蒼白で、疲れ切った目には深い憂いが漂っていた。

「夜分に失礼いたす、黒川殿」

「いえ、お構いなく。……お座りください」

二人は庭を挟んで向かい合い、しばらくの沈黙が流れた。

やがて、意を決したように光秀が口を開く。

「黒川殿……信長様はあす、本能寺にて一泊される予定です」

真秀は僅かに眉をひそめ、光秀の顔を見据えた。

「それは承知しておりますが……まさか光秀殿、そのことに何か意味があるのですか?」

光秀は重く息を吐き出した。

「実は私に、毛利攻めに出陣する秀吉殿の援護に回れと命が下りました。しかしその内容が……明らかに私を遠ざけようとする意図が感じられるのです」

真秀は黙ってその言葉を聞いていた。

「黒川殿、私はもはや信長様の意図が理解できぬ。いや、正直に言えば恐れているのです。このままでは我々は一人ずつ、信長様に粛清されてしまうのではないかと」

真秀は慎重に問い返した。

「まさか、光秀殿……信長様に刃を向けるおつもりですか?」

その問いに、光秀は即答せず、ただうつむいて拳を強く握り締めた。

しばしの後、ようやく絞り出すように答える。

「……他に道があれば、誰がこんな恐ろしいことを考えましょう。ですが、このままでは織田家は分裂し、内乱に突き進むことになるでしょう。羽柴殿も、柴田殿も、互いを警戒している。この状態で信長様が強硬策を続ければ、必ずや天下は混乱に陥るでしょう」

「……」

「しかし、私の力だけでは何も為せません。だからこそ、黒川殿……貴殿の助力が必要なのです」

真秀は胸の内で激しく揺れ動いていた。

信長は天下統一を目前にしており、経済と商業を重視した国家の構築を目指している。それは真秀自身が理想としてきた方向性でもあった。しかし信長の苛烈さと、家臣に対する不信感は日増しに顕著になっているのもまた事実だ。

(信長様を支えることが天下安寧につながるのか、それとも、光秀殿が言うように、もはや信長様の方針は天下を乱すものになっているのか……)

葛藤を抱えたまま、真秀は沈黙を続ける。

その間、光秀はじっと真秀の言葉を待っていた。

そして長い沈黙の末、真秀は口を開いた。

「光秀殿。あなたの気持ちは痛いほどわかります。ですが、信長様に対して刃を向けるというのは、取り返しのつかない道に踏み込むことになります。それが、真に天下のためとなるのか、もう一度だけ熟慮していただきたい」

光秀は深くため息をつき、僅かに頷いた。

「……ご尤も。しかし時間はありません。私もぎりぎりまで悩み抜くつもりですが……黒川殿にも、ご覚悟だけはお願いしたい」

「わかりました……光秀殿、よく考えさせてください」

光秀はその言葉を聞くと、静かに立ち上がった。

「無理を承知で参りました。あなたがどのような決断をされようと、恨みなど抱きません。ですが、天下を救うため、私は自分が取るべき道を見つけねばなりません」

光秀はそう言い残すと、静かに闇の中へと消えていった。

________________________________________

光秀を見送った後、間宮が真秀の傍らに近寄った。

「殿、いかがなさいますか?」

真秀は深いため息をつき、庭の闇を見つめて答えた。

「わからぬ……。信長様を信じたい気持ちはある。しかし、このままでは織田家そのものが危うい」

「どちらを選ばれても、後戻りはできません。殿の選択は、織田家だけではなく、日本全土の運命にも関わります」

真秀はゆっくりと頷いた。

「その通りだ、時継。だが、今の私にはまだ決断ができぬ……。もう少しだけ、考えさせてくれ」

「……承知いたしました」

間宮が下がると、真秀は再び一人で闇に沈む庭を眺めていた。

何が正しいのか、誰を信じるべきか、答えはどこにもなかった。

史実どおり、信長がここで歴史の舞台から去るのが良いのか、光秀の天下となって良いのか。

ただ静かな夜の闇だけが、彼の心を冷たく覆っている。

やがて真秀はゆっくりと立ち上がり、部屋へと戻った。

そこに置かれた文机の上には、羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀から届いた書状がそれぞれに重なり、まるで迷路のような複雑な模様を描いていた。

真秀は静かに、それらの書状を一つ一つ眺めながら、自問していた。

(私が選ぶべきは、どの道か――)

決断の夜は、まだ長く、深く続いていくのだった。


深夜――。黒川真秀は自邸の奥、ひっそりとした書院にて、間宮時継が集めた情報に耳を傾けていた。

「秀吉殿は、中国地方での毛利軍との和睦交渉を急いでおります。柴田勝家殿は安土で軍を整え、事態を静観している模様です。一方、明智光秀殿は丹波亀山に戻り、兵を集めております。これは、通常の動きとは異なります」

真秀は静かに目を閉じ、沈黙のまま情報を吟味した。

やがてゆっくりと目を開き、間宮を見据える。

「光秀殿が動いたか……」

「殿、我々はいかが致しますか? このまま何も手を打たねば、状況はさらに混沌と致しましょう」

真秀は静かに頷いた。

「動かなければならぬ。しかし、慎重を期せ。特に、秀吉殿と勝家殿への立場は保ちつつ、信長様の動向から目を離すな」

「承知いたしました。密偵を増やし、情報収集を急ぎます」

間宮が去ると、真秀は静かに立ち上がり、縁側へと歩いた。夜空には星一つなく、重たい闇が広がっている。

その闇を見上げながら、真秀は苦悩していた。

(光秀殿は本気で動くつもりだ……だが、信長様に対して刃を向けることは、天下を再び戦乱へと引き戻すことにもなりかねない……)

彼の思考が闇の中で彷徨っているその時、突然、屋敷の門外で物音がした。

間宮が鋭く反応し、部下に命じて屋敷の外を確認させた。

やがて、部下の一人が慌てて駆け込んでくる。

「殿、何者かが屋敷の周囲を窺っておりました。捕らえましたが、口を割りませぬ」

真秀は目を細め、静かに言った。

「連れて参れ」

すぐに、捕らえられた男が部屋へ引き出された。

その男は尋問を受けても頑なに沈黙を守っていたが、やがて間宮が冷静な声で囁いた。

「その装束……羽柴殿の密偵か?」

男の表情が僅かに動揺したのを見逃さず、真秀は静かに問いかけた。

「羽柴殿は、我々を探らねばならぬ理由があるのか?」

その男は黙ったままだったが、やがてゆっくりと顔を上げ、小さく答えた。

「秀吉様は……織田家の内部で密かに策謀が巡らされていると仰せです。それを探るため、やむなく……」

真秀は静かに目を閉じ、深く息を吐いた。

「なるほど……秀吉殿もまた、我らを疑っているか」

間宮が静かな声で尋ねる。

「いかが致しますか?」

「解放せよ。ただし、秀吉殿には『黒川家は信長様に対し何ら企みを抱いておらぬ』と伝えるよう、確かに申し渡せ」

男が去った後、真秀は低い声で呟いた。

「我々もまた、この夜の闇に飲まれつつあるのかもしれぬな……」

________________________________________

翌朝――。

真秀のもとに、再び柴田勝家からの急使が到着した。使者は息せき切って言った。

「柴田殿より、『羽柴秀吉が中国地方で兵をまとめつつあり、織田家に反旗を翻す恐れあり』との報告がございました。どうか黒川殿、至急安土へお越し願いたいと――」

真秀は慎重に返答をした。

「柴田殿にお伝えせよ。私は織田家のために動く。だが今は動けぬ。時期を見て必ず参る、と」

使者が去ると、間宮が深刻な表情で告げる。

「殿、これは明らかに互いが互いを疑い、策謀が絡み合っております。信長様がこの状況にお気づきになれば、即座に粛清が始まるでしょう」

「その通りだ。しかし、この状況こそが誰かの意図するところ……そう感じられてならぬ」

真秀の脳裏には、再び明智光秀の苦悩に満ちた表情がよぎった。

「殿、明智殿が動くとすれば、それはいつでしょうか」

「明日――六月二日。本能寺に信長様が滞在する日だ」

間宮の目が鋭く光った。

「いかが致しますか?」

真秀は静かに目を閉じ、最後の決断を下した。

「間宮、密かに我々の兵を京の周囲に布陣せよ。ただし、動くな。私は最後まで事態を見極めねばならん。動くのは、本当に信長様の命が危ういと判断した時のみだ」

間宮は深く一礼をした。

「承知いたしました。殿のご決断をお待ちいたします」

________________________________________

その夜、京の闇の中で、真秀は再び密かに光秀と面会した。

光秀は静かな目で告げた。

「黒川殿、私は覚悟を決めました。明日、本能寺にて信長様を討ちます」

その言葉を聞き、真秀は悲痛な表情を浮かべた。

「光秀殿……あなたは本気なのか?」

光秀は頷いた。

「これは私にとっても地獄への道。しかし、この道しか残されていません。黒川殿、あなたは自らの信じる道を選ばれよ。たとえそれが私を敵とするものであっても」

真秀は唇を噛み締め、ゆっくりと答えた。

「私は織田家と天下の安定を望んでいる。しかし……あなたの決断もまた、決して無意味とは言えない」

光秀は微かに微笑んだ。

「それだけでも、あなたに話してよかったと思える。あなたのご決断、慎重に為されることを願っております」

そう言い残すと、光秀は静かに去った。

真秀は一人闇の中で立ち尽くし、胸の内に渦巻く葛藤を噛み締めた。

六月二日、本能寺――運命の日が目前に迫っていた。


明智が気にしている様子がありありですね、黒川はまずは中立という方針を選択。

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