第四章 第三話「軍師たちの迷路」
天正十年、五月下旬。
京都の町並みは梅雨入りの兆しを帯び、灰色の空が重たく垂れ込めていた。
一見穏やかな京の町の水面下では、数多の思惑が交錯し、見えない争いが激しく繰り広げられていた。
黒川真秀は、自らが滞在する京の屋敷で、刻々と入ってくる諸々の報告を前に腕を組んでいた。
「秀吉殿と勝家殿の真意が未だ掴めぬ、か……」
机の上に広げられた報告書を睨みつけながら、彼は低く呟いた。
そこへ間宮時継が静かに近づき、耳元で囁くように報告を告げる。
「殿、羽柴秀吉殿は近々、中国攻めに決着をつけるために毛利との和睦を模索しているようです。しかし、その一方で柴田勝家殿は、安土で兵力を整えつつ、秀吉殿を警戒しているとのこと」
真秀は目を閉じ、わずかに眉をひそめた。
(羽柴殿は自らの地位を固めるため、柴田殿はそれを牽制するため――両者の疑念が織田家内部で膨らんでいる)
しばし沈黙した後、真秀はゆっくりと口を開いた。
「……時継、我々は慎重に動かねばならん。両者に対して公平な立場を守りつつ、彼らの真意を見極める必要がある」
「承知いたしました。ただ……殿の立場は微妙になりつつあります」
間宮の言葉に、真秀は静かに頷いた。
黒川家が経済力で織田家を支える存在である以上、織田家臣団の中でも特に注目される立場にあった。秀吉も勝家も黒川家の経済力を必要としている。しかし、どちらか一方に肩入れすれば、もう一方との軋轢が避けられない。
(まさに綱渡りの状態だ……)
その時、屋敷の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
「殿、急なご訪問で恐縮ですが――明智光秀殿が再び面会を求めておられます」
使者の声に、真秀は思わず眉を跳ね上げた。
「光秀殿が?」
「はい。極秘裏にとのことです」
真秀は短く息を吐き、即座に命じた。
「面会の準備をせよ。だが、警戒を怠るな」
________________________________________
光秀との面会は、再び人目を避け、京の外れの荒れた寺で密かに行われた。
寺の静まり返った室内に、二人の男は向かい合って座していた。
明智光秀の表情は、前回以上に重く険しいものとなっている。
「黒川殿、このような密会を二度も設けさせていただき、申し訳ない」
「いえ、それよりも、また急を要する話ですか?」
真秀の問いかけに、光秀は唇を引き結んだ。
「ええ……実は、信長様より京の町において、徳川家康殿を接待するよう命じられましてな」
「徳川殿を?」
「そうです。だが……その宴の手配が異常に性急で、しかも異例のことばかり命じられております。信長様は何を急いでおられるのか……私にはまったくわからないのです」
光秀の目には、不安と焦燥が濃く滲んでいた。
真秀は慎重に口を開いた。
「それは……光秀殿ご自身の身にも危険が迫っていると感じられているということですか?」
光秀は静かに首肯した。
「この頃、信長様は家臣たちを信用されず、事あるごとに疑いを向けられる。私も例外ではありません。しかも最近、羽柴殿や柴田殿が独自に動いているという噂も耳に入っており――」
「……」
「黒川殿、私はこのままでは織田家が内から崩壊してしまうと案じている。何とかそれを防ぎたいのです」
「光秀殿、織田家を支えるための策がおありですか?」
真秀の問いに、光秀は一瞬目を閉じ、ややあって苦渋の表情で告げた。
「もはや私一人の手では無理でしょう。しかし、貴殿の力があれば……」
真秀はわずかに身を乗り出した。
「私の力……経済力のことですか?」
「それだけではありません。貴殿の影響力、そして外交手腕も含めて、織田家を救うためにどうか協力していただきたい」
光秀の声には切迫感が漂っていた。しかし真秀には、この言葉の裏に、光秀自身が抱く深い葛藤が見え隠れしているように感じられた。
「……考えさせてください」
真秀が慎重に返答すると、光秀は深く頷いた。
「ええ、ゆっくりとお考えいただいて構いません。ただし、時はあまり残されていないということだけは、どうかお忘れなきよう……」
________________________________________
面会を終えて寺を出た真秀の胸には、これまでにないほどの不安が渦巻いていた。
羽柴秀吉、柴田勝家、そして明智光秀――織田家の屋台骨を支える三人が、それぞれ異なる思惑を抱きながら、自分という存在を巡って密かに動いている。
(まるで、軍師たちが迷路に迷い込み、出口のない道を進んでいるようだ)
自らが立っている場所の危うさを改めて感じつつも、真秀は静かに決意を固めた。
(信長様に忠義を尽くすことが織田家の安定につながるのか、それとも新たな道を探るべきなのか……)
彼は唇を噛み、屋敷へと急いだ。
________________________________________
その夜、真秀は一人で文机に向かい、黙々と書状を書き綴っていた。
羽柴秀吉には商業政策の協力を申し出つつ、織田家内の団結を促す慎重な文言を添えた。
柴田勝家には軍事面での支援と、信長への揺るがぬ忠誠を訴える内容を記した。
そして最後に、明智光秀への書状には慎重な言葉を選び、真秀自身が抱く信長への疑念、しかしそれでもなお、織田家の繁栄を望む思いを綴った。
(誰が味方で、誰が敵なのか――もはやそれすら分からない)
不安と迷いが深まりゆくなかで、ただ一つ確かなのは、
自分が選ぶ道が織田家の運命、ひいては天下の運命に深く関わるということだけであった。
六月の風が京の町を吹き抜けていく。
その風の中には、刻々と迫りつつある激動の運命の足音が、静かに――だが確実に響いていた。
史実とは違い、誰が何を仕掛けてくるかが分からない状態ですね。




