掌握
この年の暮に氏親より千寿に生活費として化粧料の名目で館から一里半程離れた羽鳥の地2000石が下げ渡された、当初4000石の地を予定していたが、石高は半分程度、代わりに河川と未開拓の広い森林がある地が希望との事で安倍川と藁科川の分岐近くの羽鳥と言う地が選ばれた、北側には200から250m程の峰々があり緩やかな南傾斜の地となる。
千寿の思惑はこの時代にまだ無い試みを行い監視されにくい地で富国の支えになる物の開発であった、それらは勿論自身に取っても魅力のある開発商品と言えた、12月に入り羽鳥の名主と村長が館に領主となる千寿に挨拶に訪れた。
「名主の羽鳥善右衛門と申します、こちらにいるのが三名の村長に成ります、右から上羽鳥の豊一、中羽鳥の庄次郎、下羽鳥の峯造になります」
「よう来られた、妾が此度羽鳥の地で領主となった千寿である、大事な話があるゆえ呼び出した、先ずは確認だが年貢は如何程であるかな?」
「米俵で2400俵となっております、お武家様の言う処の6公4民となっております」
「ではその2400俵が妾の取り分という事じゃな!!」
「はいこれからはその様になります」
ちと待てよ・・・殿の説明では2000石の地という説明であったが・・・計算が合わぬ2000石であれば米は5000俵になる、5000の60%という事は3000俵だな?
「済まぬが羽鳥の石高は何石なのだ?」
「はい、石高は1600石になります、俵にしますと4000俵となります」
化粧料が2000石と聞いていたが実際は1600石であったか?、という事は今川家の石高は実際より少ない可能性があるかも知れぬ、正室の化粧領地が400石も少ないという事は大きい問題を抱えているかも知れぬ。
「名主殿の説明では1600石の取れ高で2400俵を年貢として納めているという事だな、生活は苦しくないか?」
「はい、今川様のお陰で日々暮らせております」
「今の問いかけは妾の間違いであった、生活が出来ぬとは言えぬであろうしましてや苦しいなど言いたくても言えぬ問いかけであった、済まぬ、改めて申し渡す事がある、妾に納める年貢は毎年1600俵で良い、代わりに毎年三村で減った年貢の内400俵を村で貯めるのじゃ、飢饉に備えて三村で協力して貯めよ、これからは毎年今より手元に米が400俵皆に増加出来る事になる、実際は飢饉に備えた分を含めれば800俵増える事になる、4000俵の内農民には1600俵だった所が2400俵になるという事じゃ!! どうかな? 村長と名主の意見を聞きたい!!」
「・・・我らに取って大変に嬉しい話でありますが・・・本当に宜しいのでしょうか?」
四人とも驚いた顔になっての訝しんでの返事あり当然と言えた。
「何!! 代わりに妾が説明する田植えを行って欲しいじゃ、さすれば増産出来る筈であり、羽鳥の地が豊かになれば見本となる、今川家の見本となる地を作るために力を貸して欲しいのじゃ、その為に皆にも先に褒美を渡すと言う事じゃ!! どうであろうか?」
「そういう事でありましたら何でも御申しつけ下さい、農民に取って米が一番であります、実入りが増えるとなれば皆が喜びます、よろしくお願い致しますだ!!」
「では年が明けたら田植えに付いて指示を致す、里の主だった者・・そうだな20名程を引き連れてもう一度来るが良い、それと裏の山に妾の関係する者が出入りする事になる、その事も主だった者に伝えよ! 今日は皆に土産を用意した、麦菓子と妾が作った今川焼を家々で食するが良い、甘い菓子ゆえ家族の者が喜ぶであろう、では頼んだぞ!!」
千寿はこの羽鳥の里の石高に付いて後日確認する事にした、2000石と1600石では400石もの違いがあり足軽に与える給金に換算すると数十人分となりこの里の問題だけであれば良いが今川家全体がこのような乱雑な石高で政をしているのであれば由々しき事態と言えた。
それとは別に今川家に嫁いでより月に一度は侍女を伴い今川館から少し離れた安倍川近くに住む氏親の母親、北川殿、現在は桃源院殿と呼ばれている義母に挨拶に訪れていた、何故そこまで必要なのか?
今でこそ今川家は夫氏親が当主として壮年期の働ぎ盛りとなり駿河国、遠江国二国の大名の地位を固めているが氏親の父親、今川義忠は氏親が戦で5才の時に亡くなっており今川家は大きい危機を迎える、その際に今川家を護る為に出自の小田原の伊勢家当主であり兄弟の支援を受ける事にその兄弟とは、後の北条早雲である、父早雲の支援を受け今川家は危機を乗り越える事が出来たが、後にこの支援を受けた事によって今川家との領地争いへと発展して行く。
今現在もその余韻が残っており北条家とは駿河と伊豆の国境での戦が度々起こっている、その北条早雲の姉である義母となる桃源院殿の今川家における地位は絶対的であり無視する事は出来ない、政に口を出す訳では無いが千寿の後ろ盾としてこの上ないお方と言えた、近くとは言え毎月挨拶に来る息子の幼妻である千寿が初々しさを漂わせての訪問であり孫のような年の差、菓子折りを持っての持参となれば桃源院は大喜びで迎い入れている。
「甘い菓子であるが、大きい菓子でもあるな!!」
「はい、その今川焼は腹持ちが良いようにと大きくしました、麦粉を溶き焼いたものですので体にも優しい菓子になります、それともう一つ甘い餡が入っておりますので一度食せば又食したいと思うて仕事に励むことになるかと、購入する者が増えれば些かの利益が入り売れる程に今川家の名が広がります!」
「おっははははー、そなたは知恵者であるのう、中御門家が公家衆で一番潤っていると聞いておる、それはこの麦菓子だとな、そして此度は今川焼とは、これは市井《平民》の者も買えるのか?」
「はい、今甘味処を開く手配をしている処です、誰であれ今川焼を食する事が出来るように手配しております!」
「それは良い事じゃ、砂糖が入っているゆえ高価な菓子となるであろうが誰もが食する事が出来るのであれば今川焼は広がるであろう、売れる程に今川家が広がる事になる、これは愉快じゃ!」
日本における甘味の菓子は戦国時代に、カステラ、カルメラ、ビスケット、みたらし団子、どらやき、羊羹、饅頭、大福などが広まったとされる、そのきっかけは南蛮貿易による砂糖の普及と宣教師たちがキリシタンの信仰を広める為に各地の武家に献上し胃袋を掴んだことで広まる事に、特に戦国三英傑と呼ばれる、信長、秀吉、家康によって洋菓子と和菓子が広まっていく。
その事を良く知る千寿、この時代に広がる菓子類など簡単に作れる知識と現代のデザートを知り尽くしている千寿に取って菓子は武器になる事は当然と言えた。
「桃源院様!! 次回お伺い致します時に更なる極上の菓子をお持ち致します、ここだけの話となりますがお持ちする菓子は今川焼より一段も二段も上の極上の菓子となります、それゆえ簡単には普及出来ませぬが一番最初に桃源院様にお持ち致します、是非楽しみにお待ちください!!」
「なんと今川焼より一段も二段も上なる極上の菓子とな!? 氏親も賞味しておらぬのか?」
「はい、殿には桃源院様より食した感想をお聞きしてからと思っております!!」
「そこまで妾を大事にしてくれるのか、氏親は妾の所に中々訪れぬ懲らしめるには調度良い、先に食して自慢することにしよう、楽しみにしておるぞ!!」
評定の際に今川焼を食した今川家の配下者達からは再度食したいとの要望の催促が止まず侍女達にある程度作られているが生産が全く追い付かず館近くの城下町にも甘味処を作る事になった、鋳型も複数発注し、その甘味処の店主並びに売り子を彦六の配下が行う事になる、服部彦六は本来は銭雇の忍びであり伊豆服部衆の頭として風魔小太郎との誼があったが今は千寿のお抱え忍びであり千寿を支える裏方である。
千寿は今川家を掌握する為に利用出来るものは何でも利用し一日も早く今川家の中枢に入る決意でいた、何故そこまでするのか、今川家の歴史は桶狭間で義元が討たれた事で歴史から幕を閉じる事になる、仮にそれを回避しても戦国を勝ち上がる事は出来ないと判断していた、東側に北条家、北に武田家、西に織田家、さらに先には美濃の斎藤家が居座っており、今川家の伸びしろは今の所、史実と同じく三河しか残っていなかった。
北条は何れ関東を、信長の勢力は京及び中国まで支配下に置かれる、では今川は手を伸ばせる処は・・・見当たらず結局は北条か織田の風下に置かれてしまう、織田家は後に秀吉に乗っ取られるが史実と同じような歴史であれば今川家の行く末は史実と似た歩になってしまう。
今川家の危機を知る千寿の打つ手は目下今川家の改革しか無かった、今の領地で倍の石高となる富国強兵の策しか無いと言えた、この戦国期初頭の今川家の石高はどうなのか?
信長が台頭する中盤期になると100万石を超える大大名が出て来るが、この時点での今川家は駿河国15万石、遠江国25万石、計40万石であった、後に家康の三河29万石を含めて最大で69万石しか無い、これが史実における今川家の実態である。
現在の静岡県の広さは戦国時代の駿河国+遠江国+伊豆半島になる、戦国時代は日本の国は68ヶ国に律令で別れており明治になるまで国割りは68で推移している、約1000年に渡って68ヶ国で日ノ本としていた、その後、蝦夷《北海道》と琉球が国として含まれることになる。
国別の石高も大名達の極秘事項であり自ら国力を公言していなかった、秀吉が検地を行った事で田畑の面積と収穫高が判明したと言える、資料として残る日本全体の石高は1598年時で1850万石が日本の国力とも言える。
今川家は40万石というのが史実で判明していた石高であるが千寿のいる世界ではその石高が実に怪しい事になっていた、約2割程不足している事が翌年に判明した、そのきっかけは氏親より拝領した羽鳥の地での石高が報告と違っていた事だった、2000石の拝領が実際は1600石であった事、400石、米1000俵はどこへ消えたのか? 本当に1600石の領地の拝領であれば何も問題は無かったが蔵奉行に荷受けした過去の年貢を調べた所昔は確かに2000石の領地であり、20年程前より1600石の領地計算で年貢が納められていた事が判明した、過去の帳簿を見た処似たような現象が、納められた年貢が2割程減っていた地が多くある事が判明した。
20年以上前の石高で表示されているが実際に納められた年貢は2割も少ないという、この疑問はやがて侍身分の給金にも繋がる事になる。
年の暮れ千寿は約束通り義母の桃源院を訪れた。
「これがそなたが言っていた極上の菓子なのだな、柔らかそうな・・葛粉で出来ておるのかな? ではさっそく匙ですくって食してみよう!! ・・・・うっ! ・・・一瞬で・・消えた・・そして極上の甘さ・・・言葉では説明出来ぬ・・・見事な菓子じゃ!! ・・本当に素晴らしい菓子じゃ、菓子に名はあるのか?」
「はい、お褒め頂きありがとう御座います、菓子の名は『プリン』と申します!!」
「ほうプリンとな・・・柔らかく張りのある艶、そして極上の甘さ・・名は『プリン』見事すぎる菓子じゃ!! 麦菓子、今川焼、そしてプリンとな! どこでそのような知識を得たのじゃ?」
「幼い頃より明の書物などに書かれた饅頭のことなど甘い菓子に付いて関心がありましたので、それで色々と工夫をし考案致しました」
「御実家が名家であり大納言となれば明の書物にふれる機会もあるであろう、成程のう!! 氏親より先に食したが・・あ奴には勿体ない!! うふふふ、又このプリンなる菓子を食して見たい、時々で良いから食べさせておくれ!」
「そのプリンは材料が揃えば簡単に出来ます、材料が揃いましたらお届致します、作り方を賄い方に教えますのでお食べ下さい」
「ほうそれは嬉しい、楽しみにしておる!」
プリンはイギリスの船乗達が航海の中で卵の蒸し料理から生まれたという紹介があった、料理名「プディング」がその原形とされいる、日本にも18世紀頃に伝わったと、日本でのプリンという名前はプディングから来ているという説とプリプリしている所からプリンとなったと説も本当にあるようだ、このプリンの誕生によりカスタードクリームが生まれデザート業界は一大革命の転機を迎える。
いきなり『プリン』が早くも誕生してしまいました。
次章「足軽と懐妊」になります。