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アントワネットの目が、値踏みするように細められた。
――本当にこのうらなり野郎が、武門の名家の嫡男だと?
戦場の臭いが一切感じられない、白くて綺麗な肌。
ふらふらと彷徨う視線は自信の無さの表れ。
手の厚みはあり、全く鍛えていないわけではなさそうだが、拳が綺麗だった。
ある程度の荒事に慣れている人は、拳が汚い。
空手家のように変形までしなくとも、強く殴ったりぶつけた衝撃で皮がべろりと剥ける。それが治ったときに、下手くそのパッチワークのような跡が残るのだ。
クリスチャンは偉そうに立つでもなく、油断なく腰を落とすでもなく、半端な立ち姿で浮ついているように見える。
おまけにどもり過ぎだ。
「ええ、本当にお久しぶりです。急なお手紙に驚きました。どのようなご用向きでしょうか」
「あ、ああ。きゅ、きゅうにす、すまなかったね」
他人行儀でビジネスライクさを感じるマリアンヌの言い方に、クリスチャンの瞬きが増えた。
「お初にお目にかかります、クリスチャン様。アントワネット=イニャス・ギヨタンと申しますわ」
アントワネットの姿を見たクリスチャンは、一瞬怯えたような表情を見せた。
今日のアントワネットの服装は、真っ赤なドレスと白の付け袖。エメラルドの首飾りをつけ、カールさせた髪を派手に盛っている。いかにも気が強い女といった、攻撃的なファッションだ。
クリスチャンは口の中でもごもごと何かを言い、それから2人に席を勧めた。
マリアンヌとアントワネットが並んで座り、クリスチャンと向かい合う。
女中が出したお茶を口にしながら、最近の王都の様子など当たり障りのない会話をするマリアンヌとクリスチャン。その様子を眺めながら、アントワネットは考えていた。
――恋愛感情は無さそうだ。じゃあなぜ、生活の保障だのなんだの言い出したのだろうか。
初めはクリスチャン側に、マリアンヌへの未練があるのかと思っていた。
家の都合で切り離された悲恋! ああ、面白い、などと。しかし、お互いにそのような感情は見られない。
だとすれば、何かしら利用価値があるのか。いや、それならば婚約を破談にしないはず。王家の血を御旗にするなら、ちゃんと結婚して取り込んだ方が良い。
話が進み、本題に差し掛かろうという頃。クリスチャンのどもりも減り、自然に会話するようになっていた。
「ええと、貴方が婚約破棄を負い目に感じていることは分かりました。ですが、なぜ今になって会いたいなどと言い出したのですか? 正しい言い方なのかはわかりませんが、ご支援くださるのであれば、コルドゥアン男爵を通しても良かったのではありませんか?」
マリアンヌの言葉に、クリスチャンはたっぷり10秒ほども躊躇いを見せてから、ようやく口を開く。
「うちはたぶん……グリーズデン王国から距離を置く。父上は独立……までは考えてないかもしれないけど、それに近い意志がある」
マリアンヌは口を抑えた。それだけ驚いたのだろう。
アントワネットが首を傾げながら訊ねる。
「なぜまた、そんなことを? こんなご時世でしょう?」
「こんなご時世だからさ」
暗に「魔王の危機があるのに独立なんかしてどうなる」という問いに、クリスチャンは即答した。
「魔王と本気で戦おうとしているのはうちだけ。どうせ助けにならないなら、王家に納める税も勿体ない。一緒に戦わないなら、肩を組む必要もない」
魔王への危機感の違いから、国が割れようとしていた。
ヨーゼンラント公爵家は、その傘下の貴族たちも含めれば、王国の15%に相当する領地を持つ。ヨーゼンラント公爵家が抜ければ、国としての痛手は計り知れない。
他の公爵家までもが我も我もと続けば、国がバラバラになる可能性まであった。
「認められません」
「認める、認めないじゃないんだ、マリアンヌ。決まった未来だ。これからは僕も王都に来づらくなる。だから、その」
クリスチャンは口ごもった。
ただ最後に会いたかったのか、それともマリアンヌを連れて行きたかったのか。あるいは、本人も気持ちの整理がつかないまま、手紙を出してしまったのかもしれない。
流れる悲痛な空気に、ぬるりと割り込む声。
「まぁ、本当にクリスチャン様はお優しい方なのね」
「アントワネット嬢……」
アントワネットは心から同情するような表情と声で言う。
「クリスチャン様を責めることなど誰にもできませんわ。お父君の意思が固ければ、それはもう誰にも止められないことなのでしょう?」
「ああ……」
クリスチャンの表情が暗くなる。円卓の下で、アントワネットの手がわきわきと動いた。
「苦労されていらっしゃるのね……。ねえ、もしよろしければ、クリスチャン様のお話を聞かせていただけませんか? 夕食をご一緒出来れば嬉しいのですけれど」
「あ、ああ。構わないよ」
それまでの気づかわしげな表情から一転、アントワネットの表情が、少女の無邪気さすら感じられる明るい笑顔になる。
「嬉しいですわ、ありがとうございます」
その魅力的な緩急に、クリスチャンの視線は釘付けにされた。