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魔王。
その名の通り、魔に連なる者たちの王。というわけではないようだ。
別名で馬の王とも呼ばれ、草原を支配する者らしい。
圧倒的な機動力でもって、燎原の火の如く、人間の国家を駆逐しているそうだ。
――それは騎馬民族なのでは?
などとアントワネットは思ったが、どうやらそれも違うようだ。
魔王とその配下は、下半身そのものが馬になっているらしい。ファンタジー作品に出てくるところの、ケンタウロスといったところだろうか。
「魔王はこの国も攻めていたり?」
アントワネットは尋ねた。
場合によってはこの国から逃げ出すことも考えながら。
地球の歴史を紐解けば、騎馬民族に滅ぼされた国家は少なくない。
朝鮮からヨーロッパまでを席巻した元王朝は、数多くの国家を飲み込んだ。
キンメル人、スキタイ人、サルマート人。平地の民を飲み込んだ騎馬民族を、騎馬民族が駆逐して支配し、さらにそれを騎馬民族が駆逐した例もある。
魔王と呼んで恐れるくらいだ。さぞ強力な騎馬民族なのだろう。
「この国はまだ、ですね。隣国のルージュラントが防波堤となっております。その奥の国アスタは滅ぼされ、今まさにルージュラントも滅ぼされようとしております」
――よし、逃げよう。
そんなアントワネットの決意を知らず、沈痛な面持ちで続ける。
「私の祖父はルージュラントの辺境伯です。その地は既に魔王のもの……おそらく殺されていることでしょう」
「はぇ?」
マリアンヌの突然の言葉に、アントワネットは大きく口を開いた。
「隣国の貴族ってこと?」
「いいえ。隣国とは縁戚関係にあるだけですよ。私の名はマリアンヌ=ド・ペルシュルガ=フォン・グリーズデン。この国の現王、グリーズデン6世の2女です」
「ええええ、お姫様ってこと!?」
マリアンヌは頷いた。
グリーズデン王国も含めて、この世界では王と諸侯の区別は曖昧だ。
小規模な君主たちが血縁でまとまり併合を繰り返した結果、王と呼べる存在こそ生まれたが、諸侯の自立心は高い。
政略結婚においても、大身の領地を持つ伯爵家などと王が婚姻を結ぶのは、とりわけ珍しいことではない。
「そんなお姫様が、なんで男爵家の不動産管理みたいなことしてんのさ」
単身で王に匹敵する伯爵や辺境伯ならともかく、男爵ともなればいささか格が落ちる。
爵位については、グリーズデン王国近辺では以下のような感覚が一般的になる。
大公家は、血縁関係により間接的な支配を受けた、ほぼ王家のような諸侯。もともと所有していた国が領地となる。「私は王ですが、あなたの国には従っていますよ。血も繋がっていますしね」という意思表示のようなものだ。
公爵家は、伝統的に周囲の諸侯をまとめ上げ、軍事行動を組織してきた領主となる。東西南北に広大な領地を持ち、他の諸侯への指揮権を持つ。いわゆる「貴族」としての最高位だ。
伯爵家、辺境伯家は土地に根差した古くからの支配者であり、混乱の時代に多数生まれた小規模な王たちを起源とする。
子爵家は、公爵家の支配を受けた小規模な領地の管理者であり、公爵家や伯爵家の臣下を起源とすることが多い家だ。
そして男爵家。これは王により任命された者がなる。土地の支配者になることもあれば、官僚たちをまとめたり、王の財産を管理することもある。
要するに、王にとって大事な直臣が男爵を拝命する。
他の爵位が王を成り立ちとするものが多い中で、明確に「家臣」としての由来を持つのが、子爵家と男爵家なのだ。
「祖父が亡くなったからですね。ルージュラントの東の防衛を担っていたペルシュルガ辺境伯家は、武の名門でした。それが魔王に滅ぼされたことで、母は宮中での影響力を失い、私は教育役だったコルドゥアン男爵を頼る形で王宮を去ったのです」
「なるほどね。魔王のせいで宮廷闘争に負けた、落ちぶれお姫様ってことか。それじゃあ魔王も神様も恨んで当然かー」
アントワネットは軽い調子でそう言った。
その声には楽しんでいるような響きが多分に含まれている。
「神様を恨むわけではありませんよ。ですが、そのお心がわからないのです」
信仰心は人間の精神的な支柱だ。マリアンヌのそれは揺らいでいる。
苦悩する美しい少女の手を、アントワネットは大仰な仕草でとった。
「ではお姫様。私が神の代理人として、貴女の疑心を払ってみせましょう」
「な、え、なにを?」
急に触れられたことに戸惑いながら、頬を淡く染めるマリアンヌ。
アントワネットはまるで劇中の人物かのように、高らかに宣言した。
「貴女を宮中に返り咲かせましょう、私の力で。お約束します、魔王など恐れることはないと。私と出会った以上、未来は明るいとお約束いたします」
その約束が嘘か本当かは誰にわからない。
だが、強すぎる視線に圧されたマリアンヌは頷いた。
翌日、コルドゥアン男爵家からの返答が返って来た。というよりも、男爵本人がやってきた。
「おお、おお、マリアンヌ様! お労しや! 必ずこの爺が不届き物をけちょんけちょんの挽き肉にして、豚の餌にいたしますぞ!」
白い髭でふわっふわの小柄な老人が咽び泣く。
なんとも頼りない姿だが、門の前には鎖帷子とショートソードで武装した兵士が20人もいた。
「ギルドにカチコミじゃぁぁぁぁ!」
「落ち着いて、爺」
必死にマリアンヌが宥める。その様子を、アントワネットが白けた目で見ていた。