07 「ヤルタ会談」
「東方を支配せよ」
これは、ロシア極東の港湾都市ウラジオストックの意味になる。
帝政ロシアの時代から、ロシアという国家は暖かい南の海を欲しがると同時に、東への侵略を大きな国是の一つとしていた。そして世界一の版図を有するまでに至った。
だが近代に至り、その前に立ち塞がった形の国があった。
東の果ての島国、日本帝国だ。
そして時代は進み、社会主義国のソビエト連邦となっても、日本はロシア(ソ連)の前に立ちふさがり続ける目の上のタンコブだった。
だがそのタンコブは、アメリカの圧倒的軍事力を前にしてその力を失いつつあった。
そしてアメリカは、日本を完全に打倒する為にはソ連の力が必要と考えていた。
少なくとも、ルーズベルト政権とアメリカ国務省の一部はそう考えていた。ルーズベルト政権内とアメリカ国務省に、多くの共産主義者、共産主義スパイ、共産主義シンパがいたからだとも言われる。
そしていち早いソ連に対するレンドリースの実施、過剰なほどの親ソ姿勢が動かぬ証拠だとされる。
戦後も情報は開示されないものが多かったが、アメリカ政府の動きを見ればアメリカ中枢が共産主義に侵されていたのは、ある程度事実だったと見るべきだろう。
その後の調査で、かなりの数が炙り出されもした。
その件はともかく、1944年10月14日にルーズベルト大統領は、日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリン書記長に対日参戦を提案している。
それに対してスターリン書記長は、同年12月14日に武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求した。
しかしこの間に、アメリカでは大統領選挙があり政権が交代してしまう。
しかもフィリピン、レイテでのアメリカ軍の大敗により極東の戦略的環境にも変化が生じたと、少なくとも新たなアメリカ政府は考えるようになっていた。
この為、スターリン書記長の要求に対する返答を、アメリカ政府は新政権が実働するまで延期する。
そして翌年1月後半からデューイを新たな大統領とする新政府が本格的に動き始めると、アメリカ政府のソ連に対する態度が明らかに変化した。
ソ連は、再度ソ連の対日参戦に対する要求の返答を求めるも、アメリカの新政権は再検討するとだけ返答するにとどまった。
これに業を煮やしたソ連政府は、ソビエト連邦クリミア半島のヤルタで首脳会談が行われる前に、さらなる要求をアメリカ側に提示する。
そしてヤルタでの話し合いで、その明確な返答を求めた。
求めたのは、前年にも提示された武器の提供と南樺太と千島列島、さらに北海道の北半分の領有の承認。
日本本土の北半分の占領統治への参加。
加えて極東方面での、100万トンの武器、弾薬、燃料など各種援助物資の要求。可能なら、揚陸用艦船の提供までも求めた。
そして武器援助に関しては、これが行われなければドイツとの存亡を賭けた戦いを遂行中のソビエト連邦は、極東で日本に戦端を開く事が出来ないと強く示してもいた。
加えて、日本と戦端を開く場合は、日ソ中立条約の一方的破棄を行わねばならず、アメリカはもちろんイギリスなど連合国各国の合意と承認を求めた。
この要求は、国際条約に重きを置かないソ連にとって半ばどうでもいい事だったが、アメリカの意思を確認するのが目的だったと言われている。
そうして1945年2月4日から、ソビエト連邦の黒海沿岸にあるヤルタにてアメリカ合衆国、ソビエト連邦ロシア、イギリス連合王国による連合国首脳会談が開催された。
その後、11日まで開催された会談の結果、第二次世界大戦後の処理について「ヤルタ協定」が結ばれる。
会談の主な内容は、戦争終結後のドイツの分割統治などヨーロッパ各地の処遇の決定になる。
また、国際連合についての協議が行われた。
しかしそれ以外は、交渉が難航したと言われる。
チャーチル、スターリン、新参大統領のデューイによる実質的な密談が紛糾した為だ。
密談内容は戦後になって徐々に明らかになったが、その内容はソ連の対日参戦の是非にあった。
ソ連の書記長スターリンは、ソ連はドイツの降伏後90日で対日参戦ができると提案。合わせて、その為には100万トンの武器弾薬と食料、燃料などの物資が極東に必要だと要求した。
しかもその中には、アメリカも現状では十分とは言えない揚陸機材、艦船も含まれていた。
そして対日参戦に先駆けて、日ソ中立条約の一方的破棄を実施するのでその政治的支援も求めた。
しかも交渉の当初は、それらの多くをアメリカからの提案や要求として出させようとした。
だがアメリカのデューイ大統領は、当初からソ連の対日参戦には消極的だった。
ソ連はドイツとの戦いで大きすぎる負担と損害、それに犠牲を強いられたので、これ以上無理強いは出来ないというのが表向きの理由だったとされる。
また中立条約破棄をしても、1年以内の対日参戦では実質的な条約違反になり、ソ連の名誉に深い傷が付くと懸念も伝えた。
しかし実際は、ヤルタでの交渉前にイギリスのチャーチル首相とも連絡を取り合い、ソ連をこれ以上膨張させない事、増長させない事で意見、方針が一致していた。
それでもスターリンは食い下がったが、デューイは終始ソ連にはこれ以上負担を負わせられないと逆に説得。
ソ連が求めた、南樺太、千島列島の領有権問題については、アメリカが戦後の日本との間に立って交渉を行うと伝えた。
ただし北海道北部については、日本本土になるので認めるわけにはいかないと拒否する姿勢を示していた。
そしてデューイは、日本に対する戦争方針を基本的に無条件降伏とするも、日本の態度や状況によっては1943年11月のカイロ会談の方針に沿う形も有り得ると発言した。
これに対してスターリンは甘い、手緩いと強い反発を示すも、デューイはアメリカ市民が戦争を倦み始めていると伝える。そして結果として同じ結末を迎えられるのなら、無条件降伏に固執する必要は必ずしもないと説き、アメリカにはその手立てがあると示した。
加えて、だからこそソ連が無理を押して対日参戦する必要はないと逆に説得しようとした。
こうしたデューイの態度をイギリスのチャーチルは強く支持し、スターリンとの話し合いは平行線を辿った。
結局、ヤルタ会談で秘密の協定が結ばれることはなく、後世において幻の秘密協定とも呼ばれた。
そしてそこからは、米ソによる対日戦及び対日外交の競争が始まる。
衰えた日本は、多少局所的な勝利を得ようとも、もはや二つの超大国の獲物でしかなかった。
カイロ会談:
カイロ宣言では三大国(米英中)が戦争を通じて日本の野心を挫け、懲罰しようとし、自身は利益を受けず戦後に領土拡張に加わることもないと宣言し、
「日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される」、「日本が中国人から盗んだ、満州、台湾、澎湖を含む全ての領土は中華民国に返還される」と述べた。また、日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、「朝鮮は適当な時に自由と独立を得る」とも述べた。