06 「次なる戦いへ?」
「1944年アメリカ合衆国大統領選挙の結果、共和党候補のトマス・E・デューイ氏が新たな大統領に就任します」
レイテでの激戦から約3ヶ月。
1945年1月20日に40回目となる大統領就任式が終わると、アメリカでは新政権が本格的に動き始めた。
レイテ湾での戦いの結果は、第一次世界大戦以前の戦争なら勝敗の帰趨すら決したかもしれない。例えるなら、ギリシアがペルシャの侵攻を退けたサラミスの海戦にすら匹敵するかもしれない。
だが、一つの戦闘が終わっても戦争は続いていた。
それが国と国、陣営と陣営が国の全てを投じて行う戦争、総力戦というものだからだ。
しかし、あまりにも激しい戦いだったので、そうした中でも休息とは言わないまでも時間が必要だった。
レイテでのアメリカ軍の予想外の大敗で、太平洋戦線は一時的に膠着する。
太平洋戦線でのアメリカ軍の今後の大規模な攻勢は、直後の暫定的な判定ではあるが半年は不可能と判断された。
太平洋での戦いは海軍の戦争で、さらに上陸作戦を行う強襲揚陸作戦部隊がないと侵攻が非常に難しい為だ。
いかに強力でも、空母機動部隊だけで戦争は出来ない。
そしてアメリカは、強襲揚陸作戦部隊の多くを失った。
にも関わらず停滞が半年で済むのは、ヨーロッパ方面で仕事の無くなった部隊、艦船、装備、物資の転用と移動可能となった影響だ。
ヨーロッパでの戦いが、ドイツ本土侵攻という最後の段階に入りつつあり、海での作戦が既に殆ど無くなっていたからだ。
アメリカ政府の方は、次の政府が本格的な活動を開始する1945年1月20日まで、主に政治面で積極的な身動きが出来なくなる。
ただし軍人、主要なスタッフは、前政権のまま据え置かれる事となったので、混乱や初期の停滞は最小限で済むと考えられていた。
そうした状況下で、対日戦スケジュールの大幅な引き直しが行われる。
まず議論されたのが、日本と戦い続けるのか、戦い続けるとするならどうするのか、という大前提だった。
何しろ15万人もの熟練した将兵が一瞬で戦死した。陸海軍の司令部も、半壊と言えるほどの損害を受けた。
侵攻に必要な揚陸船舶も、熟練兵と共に多くを失った。
戦争スケジュールの大幅な遅延は免れ得ない。
そしてアメリカが足踏みしている間に、ドイツとの戦争を終わらせたソ連が参戦し、北から日本に攻め込むだろうとも予測された。
日本を追い詰めつつあったアメリカではなく、ソ連が最も多くの「戦争の果実」を日本からもぎ取りかねなかった。
アメリカ軍が東京に星条旗をはためかせるより先に、北から攻め込んだソ連赤軍が東京で合衆国軍を出迎える情景すら予測された。
そうでなくとも、満州、朝鮮半島、さらには北海道あたりまでは、最低でもソ連のものとなるだろうという予測も立てられた。
後から短期間だけ参戦するソ連に渡すには、大きすぎる果実だった。
この可能性の高い予測は、新たに発足した共和党新政権にとって受け入れ難かった。
日本を追い詰めたのはアメリカだからだ。
戦争の果実はアメリカがもぎ取るべきだった。しかもレイテで15万、今までと合わせて20万近い犠牲を出したアメリカこそが、日本を占領する資格を有していた。
親ソ連傾向の薄い共和党政権は、尚更そう考えた。
アメリカ政府内の一部は、日本が勝利に浮かれて停戦か降伏の打診をしてこないかと考えたほどだった。
しかし日本に降伏や停戦、講和の明確な意思は見られず、負けた状態でのアメリカ側からの停戦や講和をアメリカ市民が認める可能性は低かった。
この為、日本との戦争は継続し、1日でも早くアメリカが日本を降伏に追い込む事が求められた。
次に、戦うならどうするのかが議論され、そして次々に決定が下されていった。
太平洋は、それまで陸軍のマッカーサー、海軍のニミッツに分かれていた総司令官をニミッツに一本化。
この一本化は、二頭体制の今までが間違った状態だ。進撃路まで二つあるという不経済でもあったので、早くも11月には暫定的に決められた。
命令系統の再構築は、すぐにも行わなくてはならないからだ。
作戦の方は、フィリピンでの敗北による損害のカバーと戦争スケジュールの遅延を最小限とする為、多くの地上戦力を必要とするフィリピン奪回は無期延期。事実上の、太平洋方面からの進撃の一本化を図られる。
これらの大きな変更により、侵攻に必要とされる陸軍兵力と揚陸作戦部隊(艦船)の減少を補う。
日本本土に対する攻撃(空襲)も、新たな方針に従って変更する。
新たな司令部の方針と補給なども担う海軍側の求めで、重要な軍需工場(航空機発動機工場、大規模製鉄所など)への爆撃以外の都市爆撃を実質的に中止。
戦略爆撃機は、大規模な機雷投下による日本列島の海上封鎖にシフト。軍需工場爆撃も、機雷投下の効果を見つつ順次減少。
全ては、沖縄侵攻の早期実現と、自軍の人的損害を減らすのが目的とされた。そして自軍の人的被害の減少という点で、新政権からの受けも良かった。
遠距離への大規模な爆撃には、それだけ多くの労力と物資、それに墜落などによる少なくない犠牲を必要とした。
そして大規模都市無差別爆撃作戦の中止に伴い、前進拠点や中継基地とする予定の硫黄島への侵攻も一時延期。沖縄作戦の後に回される。
浮いた海兵隊向けの揚陸部隊(艦船)と支援艦艇を、再編成中の陸軍と合流。欧州方面からの増援を加えて大規模な侵攻部隊をいち早く再編成する。
また、中華民国軍がアメリカが考えていた以上に弱いという大陸戦線の状況もあって、フィリピンの次に予定していた中華民国との握手を目指す台湾侵攻は中止。
そうして、陸軍部隊の数が大きく減っても出来る、沖縄侵攻作戦に集中する事を決定した。
沖縄は日本本土侵攻の前哨戦であり、また東南アジアの資源地帯と日本を分断する事が可能だからだ。
日本本土に近いので日本軍の苛烈な抵抗が予測されるが、無傷の空母機動部隊があれば作戦は十分に可能と判断された。
一方勝利した日本だが、予想外の大勝利とそれをもたらした本物の『神風』登場を前に、それまでの苦しい劣勢への反動もあって狂喜乱舞した。
これを過去の自分達の歴史になぞらえ、「フィリピンの桶狭間」などと言った。
もっとも、戦いがあった最初の頃は、レイテの戦いの直前に行われた「台湾沖航空戦」での誤報の一件もあって、海軍部隊など現地からの報告を怪しんだ。
だが、アメリカ軍の通信などの大きな混乱と、現地陸軍からもアメリカ軍退却の報告、海軍艦艇が撮影してきた映像、写真などを受けて間違いないと知る。
そして戦果報告と様々な情報を精査した結果、半年から1年の時間を稼いだと結論する。
だが、基本的な国力の差、敵空母機動部隊が健在などの要因から、アメリカ軍の侵攻そのものは止められないとも考えた。
そしてフィリピン侵攻と東南アジア分断を防いだので、今度は台湾もしくは沖縄に来ると予測した。
そこで、アメリカ軍のフィリピン侵攻の可能性が大きく下がったと考え、一部兵力をフィリピンから台湾に移動。沖縄の兵力は動かさず。
また別の部隊を、念のためルソン島からレイテ島に移動した。
そしてこれらの兵力移動は、アメリカ軍の妨害が低調なので比較的順調に進んだ。
また一方では、フィリピン、それに台湾または沖縄に侵攻される前に、南方からは戦争遂行に必要な戦略資源の輸送を急いだ。
どこかが戦場になれば、南方との海上交通路が一時的であれ遮断されるからだ。
この輸送作戦では、護衛の為ばかりでなく輸送すら行う為、海軍の残存艦艇が多数動員された。動員された中には、レイテの戦いで中途半端な戦闘しか出来なかった航空戦艦や軽空母も輸送任務に参加していた。
しかし、日本全土は望外の大勝利に政府も軍も浮かれてしまい、講和や停戦の雰囲気は逆に遠のいてしまう。
それどころか、大勝利を得たという事で、かなりの数の者達が自らに有利な戦争終結を勝手に予測、いや妄想するようにすらなる。
その一方で勝利の立役者の日本海軍は、空前の大勝利の代償に頭を抱えていた。
何しろ、全滅すら覚悟した艦隊は大半が無事に帰投した。戦艦、空母といった大型艦に至っては全艦が帰投した。
だが、大量の重油を消費する戦艦など艦艇の多くを、内地に置いておく余裕がない状態に変化はない。何しろ日本本土には、艦隊を動かすだけの石油(重油)がもうなかった。
現状で空母を除く大型水上艦が何とか活動できるのは、それぞれの艦艇がブルネイで石油を満載して帰投してきたおかげだ。
また、生還したが大規模な修理が必要な艦艇も少なくなく、これも頭の痛い問題だった。
そこで、修理が必要な艦艇は一度内地に戻すが、他は再びシンガポール近辺に送り込む。シンガポール近辺なら、重油もしくは重油になりうる質の良い石油には事欠かないからだ。それにシンガポールには、戦艦でも入渠可能な大型の整備ドックもあり、長期滞在も可能だった。
内地に戻る艦艇についても、ブルネイで燃料を満載するので当面の不安はなかった。
そうした日本海軍の移動に対し、アメリカ軍は神経質になり大いに警戒した。やられたばかりのアメリカから見れば、日本軍がすぐにも迎撃体制に戻ったと考えられたからだ。
この為アメリカ軍は、再度のフィリピン奪回作戦を完全に諦めている。
もっとも、それまでの主力だった空母を輸送任務に使うように、日本海軍に往年の力がないどころか、もはや張子の虎だった。
レイテで囮任務だった空母部隊は、アメリカ軍から半ば無視されたお陰で無傷で生き残ったが、内地には艦隊を動かす燃料もないので、仕事のない艦艇は事実上の予備役状態。
載せる航空隊も、空母からの離発着が出来る十分な練度を持つ搭乗員不足を主な理由として事実上の解散。
仕事の無くなった空母は、東南アジアからの輸送作戦に動員するくらいしか使い道がなかった。
また大勝利した戦艦などの艦艇は、大型艦の沈没こそなかったが多くの艦艇が損傷していた。そして生還した艦艇が非常に多いので、工業力自体が落ちた日本では修理すらままならないのが実情だった。
大勝利こそしたが、日本海軍は戦う力を既に半ば失っていた。
その後、1945年1月下旬から本格的に動き始めたアメリカのデューイ政権は、太平洋方面での自らの侵攻計画の遅れを強く懸念する。
一方で、ルーズベルト政権のような極端な親ソ連の傾向がないので、ソ連を対日参戦させて自らの損害や負担を軽減することよりも、ソ連を参戦させた場合での日本及び極東への進撃競争と、戦後の勢力圏確保で負けることを真剣に考えるようになる。
ヨーロッパの作戦が順調な以上、もはや戦争よりも戦後を考える段階だった。
故にデューイ政権は、ソ連を1日でも早く対日参戦させるべきだという野党民主党やアメリカ国務省など一部の親ソ連的な声を、素直に聞くこともなくなった。
連合軍としての結束や団結、国際信義という言葉にも、ソ連は日本と中立条約を結んでいる、ソ連はドイツの戦いで疲弊しきっているなどという言葉で封じた。
それでも自らの侵攻の遅れ、日本の強い抵抗による損害をソ連参戦で補う事も考えられた。だがそれ以上に、戦後のアメリカの覇権の安定化の為、日本を中心とする極東アジア地域は自分達で支配を固めるべきだと考える。
この考えには、大損害を受けたのだから似合うだけの取り分を得よう、という考えも根底にあった。
そして勝つ手段として、日本に負けたと納得させる為、日本軍をもう一度強く叩き、同時に無条件降伏より一歩譲歩した講和を呼びかけるという方針が考えられる。
提案したのは、元駐日大使のジョセフ・グルーら知日派。
彼らは、日本は『国体護持』、天皇を中心とした現体制の自主独立の維持を認めれば、講和もしくは降伏に合意する可能性が高いと提言。
加えて、ソ連が北から攻め込めば国家分断の危機を強く感じるとも提言した。
この提言を採用したデューイ政権は、ソ連には秘密で日本との戦争早期終結を模索するようになる。
一方で戦争スケジュールは、フィリピン奪回を切り捨て、硫黄島を後回しにして、6月頭の沖縄侵攻に調整。
多少無理をすれば硫黄島侵攻を2月か3月に行う事ができるが、数日で落ちるという前線の楽観論を司令部とアメリカ中枢は聞かなくなっていた。
沖縄に侵攻する主な地上部隊は、陸軍のフィリピン侵攻用の第二陣と手の空いた海兵隊の一部。
沖縄本島上陸予定は6月6日。
その前に、日本艦隊の反撃を少しでも封じる為、日本本土の呉近辺に集結している艦隊を空襲で一度叩く事とした。
日本艦隊に手ひどく叩かれたのだから、その作戦は実に妥当なものだった。
しかし戦闘よりも重視されたのが外交だった。
戦争の時間は、急速に終わりつつあった。
日本本土に対する攻撃(空襲):
史実では45年2月に太平洋方面に移動してくるカーチス・ルメイは、欧州から転属して来ることはないだろう。
本物の『神風』登場に:
自爆攻撃の「神風特攻隊」は、レイテの戦いでの天候の関係とアメリカ軍のフィリピン撤退で事実上の延期。
ソ連には秘密で、日本との戦争早期終結を模索する:
史実でのこの時期のアメリカは、日本が本土決戦、東京陥落まで降伏しないと考えている。
条件付き降伏は考えていなかった。
そしてアメリカの兵士の死者数を減らすべく、ソ連を参戦させる気満々だった。