04 「レイテの戦い(3)」
「日本軍の砲撃はテクニカラーだ」
レイテで殺戮されるアメリカ軍将兵は、日本艦隊から激しい攻撃を受けつつそんな言葉を残したと言われる。
これは、日本海軍の大型艦がどの艦または戦隊が攻撃したのか分かりやすくする為に砲弾に染料を入れており、砲弾が落下した時の水柱に色が付くからだ。
そして見た目でも派手な攻撃を行う日本艦隊に対して、レイテ湾のアメリカ軍に救いの手はなかった。
淡い期待を寄せられたのは護衛空母群だが、フィリピン沖合で上陸部隊の直接支援にあたる護衛空母群も、多くは台風を避けて退避せざるをえなかった。
排水量1万トンに満たない、商船改装の華奢な護衛空母では高速空母よりも波浪に耐えられないし、激しい波の中で艦載機の離発着は無理だからだ。
それでも3群あったうち1つは、上陸部隊を何とか支援しようとレイテ近海に止まった。だがそのせいで、台風の暴風雨と波浪により大損害を受けてしまう。
華奢な構造の護衛空母と小型の護衛駆逐艦の双方に沈没する艦すら出た。沈没した護衛空母は、艦載機などが固定を外れて衝突、誘爆を起こし、手のつけられない火災を起こしていた。
しかも群に属する護衛空母の全てが多数の艦載機を波に攫われるなどで失われ、船自体も損傷して発着能力も大きく損なわれ、戦闘力そのものを喪失していた。
この被害を受けた護衛空母群は、その後半年近くも作戦行動が出来なくなったほどだった。
また、日本艦隊の迎撃を担当する筈の高速空母機動部隊は、実質的に何もできなかった。
1群が強引に任務に当たろうとしたが、レイテ近海に止まった影響で台風の被害が大きく作戦行動が不可能になっていた。この1群も、以後3ヶ月もの間任務から外れている。
また、仮に日本艦隊に対する攻撃圏内にいたとしても、前の台風の雲の尾がレイテ上空やスリガオ海峡に重く低くのしかかっていて、攻撃や航空支援は非常に難しかっただろう。
そして他3群は、間に合わない位置にいた。
今回の切り札として臨時に編成された新鋭戦艦を中核とする第34任務部隊は、襲撃の第一報を受けるとサンベルナルディの海峡から急いで現場に向かった。
だが、現場までどれだけ急いでも10時間ほど必要で、まだ洋上の波が荒いのでそれすら不可能だった。実際、12時間近くを要していた。
そしてまだ嵐の余波が残るレイテ湾内で、日本艦隊が解き放たれたバッファローの群れのようにアメリカ軍の侵攻船団の蹂躙を開始する。
蹂躙されるしかない無防備な船団を守る者は、もはやどこにもいなかった。
4個師団を中核とする大上陸部隊とそれを運んだ船舶、それに上陸作戦の支援に当たる様々な艦船。その全てが、出口を日本艦隊に塞がれた形のレイテ湾内に犇いていた。
そして湾の唯一の出口となる南側から、護衛の第七艦隊を殲滅した日本艦隊が全身から火炎を放ちつつ殺到する。
攻撃を受けた中で特に悲惨なのは、燃料または弾薬を積載した船。弾薬運搬船の場合、たった1発の機銃弾が命中しただけで大爆発を起こし、周囲にいた友軍艦船を巻き込んで爆沈どころか形を残さないほどの大爆発を起こした。
勿論だが生存者は皆無。それどころか乗組員は爆発した瞬間に半ば蒸発していた。
タンカーの方は、車両用のガソリンや軽油を積載している船は一気に燃え盛った。艦船用の重油を積載しているタンカーは簡単には燃えないが、一度火がつくと手が付けられない火災となった。
そして油は海の上を広がり、周囲の海で逃げ惑うアメリカ軍将兵を油と炎で飲み込み煙で覆っていった。
そしてその地獄の海を日本軍の艦艇が動き回り、そのスクリューで海面に浮かぶ哀れなアメリカ兵たちを無慈悲に切り裂いた。
そうして、レイテ島に上陸した部隊と船団、護衛の第七艦隊、合わせて約20万人の将兵と無数の艦船は、巨大戦艦2隻を含む7隻の戦艦を中核とした日本艦隊によって壊滅的を通り越え、殲滅と表現されるほどの打撃を受けた。
戦死率は実に80パーセントにも登る。
嵐の残滓が残る中での戦闘は一方的で、フィリピン解放を行う筈だった空前の大船団は、日本艦隊にただただ撃破されるだけとなった。
しかも破壊と殺戮は、洋上だけではなかった。
数時間で主な船を殺戮し尽くした日本艦隊が目を向けたのは、レイテ湾の海岸部だった。
そこには既に2個師団、全体の半数以上の兵士が上陸しており、さらに10万トン以上の物資が揚陸されていた。さらに先日の台風により、多くのものが予定外にうちあげられていた。
しかも災害復旧もまだ殆ど手付かずで、その無造作さは壊してくれと言わんばかりだった。少なくとも、当時の日本軍将兵の多くにはそう映ったと言われる。
そして新たな獲物を見つけた日本艦隊は、7隻の戦艦を大きく二手に分けて、レイテ湾の奥と手前側に分散。その二箇所に上陸していたアメリカ軍と膨大な物資、うちあげられた無秩序な様々なものに対する艦砲射撃を開始する。
砲弾の一部は焼夷効果もある対空用の砲弾で、1発2発ならともかく多数が打ち込まれた事から大規模な森林火災も発生された。
この艦砲射撃は戦艦だけでなく、まだ十分に砲弾を残していた重巡洋艦群も加わり、戦艦が撃ち漏らした標的を虱潰しに破壊していった。
戦艦7隻、重巡洋艦13隻による艦砲射撃は、第二次世界大戦でも最大規模とすら言われる。
駆逐艦はこの艦砲射撃には参加しなかったが、彼らにはまだ洋上に十分な獲物が残されていた。
あまりにも膨大な艦船がレイテ湾を埋め尽くしていたので、攻撃しても仕切れず、まだ炎や煙に隠れて生き延びている船、小舟は無数にあったからだ。
そして日本海軍は、例えどんな相手であっても容赦する気はなかった。
艦砲射撃は、当初は上陸した海岸部の砂浜に集中。台風災害で半ば無秩序になっていた物資の山を燃え盛る瓦礫の山へと変えた。
そして各所で大規模な火災と誘爆が起きると、砲撃を徐々に内陸へと移していく。砂浜や海岸から近いジャングルには、上陸したアメリカ軍将兵が身を潜めている。
少しでも残せばアメリカ軍は立ち直ってくる事を今まで思い知らされてきたので、日本艦隊に容赦や慈悲の文字はなかった。
艦砲砲撃は砲弾を撃ち尽くす勢いで2時間にわたって延々と続き、少し内陸に位置するタクロバンの街にまで及んだ。
日本軍はそこを物資集積所か何かと考えたが、そこにはマッカーサー大将をトップとする上陸部隊の仮の司令部が置かれていた。
だが砲撃が及んだのは司令部の存在を知っていたからではなく、多数の将兵が退避していたのを日本艦隊が発見したからだった。
かくして、台風の雲が去ろうとするその日の15時頃、破壊と殺戮を欲しいままにした日本艦隊は集合を開始。
殺戮を終え、台風の分厚い雲の下を凱旋していった。
後に残されたのは、核兵器を除けば瞬間的に史上最大規模と言われた破壊と殺戮の現場だった。
その2時間ほど後の夕方にアメリカ海軍の第34任務部隊が、ようやくレイテ湾口に到着したが、彼らの任務は日本艦隊の追撃や撃滅ではなく友軍の救援作業となった。
彼らの眼前には、燃え盛る海と海岸が広がっていた。
なお、日本本土から南下してくる日本軍の空母機動部隊の撃滅を捨て置いたハルゼー提督の高速空母機動部隊は、日本軍がレイテ湾を蹂躙しているという報告を受けると、怒り狂って日本艦隊を追撃しようとした。
自分たちは、まだ姿を見せない空母機動部隊に釣り上げられた間抜けと、世界中に宣伝されてしまったからだ。
だが、再び集結しつつあった強力な高速空母機動部隊が日本艦隊に向かおうとする頃には、二つ目の台風が最初のものと似た進路でフィリピン海を東西に通過しつつあった。
当然ながら機動部隊の前進を阻み、レイテに近づけば航空機の発着を不可能とした。
しかもその2つ目の台風も、1つ目の台風と似たような進路をとる。その上、1つ目の台風の影響からか進行速度が早まり、26日にレイテ湾を通過した。
この結果、1つ目の台風と日本艦隊により壊滅どころか殲滅されたレイテの上陸部隊の残存部隊は更に多くの被害を受ける事となる。
そればかりでなく、フィリピンの多くの地域と撤退する日本艦隊に分厚い雲の傘を投げかけ続けた。
当然、アメリカ軍が、破壊に飽きた日本艦隊を空襲で追撃する事は出来なかった。
アメリカ海軍が誇る史上最強の攻撃力を与えられた高速空母機動部隊と分派された新鋭高速戦艦群は、最後まで日本艦隊を捉える事は出来なかったのだ。
それどころか、レイテ島を巡る攻防戦において、まともな戦闘を一度も行う事はなかった。
彼らは嵐に翻弄され、日本艦隊の動きを読み違え、ただフィリピン近海を走り回っただけに終わった。