02 「レイテの戦い(1)」
「全世界は知らんと欲す」
この、敵の暗号解読を妨害する為に付けられた末尾の意味のない文章が、レイテ島を巡る戦闘の混乱ぶりを象徴したと言われる。
フィリピン、レイテ島に上陸したアメリカ軍は、刻々と変わる天候に翻弄された。しかも情報が足りない事も重なって錯誤を繰り返した。
だが、大規模な作戦を始めてしまった以上、作戦は遅延しても上陸作戦自体の中止はもはやあり得ない。
しかし台風は23日に進路をさらに変更。しかも暖流の湿気を大量に吸い上げ、アメリカの予測よりも遥かに巨大化していた。
その上、アメリカ軍の進路予測を完全に裏切り、フィリピンの東側の洋上を北上せず、フィリピンの中央付近を東南東から西北西へ、しかもレイテ湾へ突進する進路をとりつつあった。
だがアメリカ軍がこれを察知した時点で、上陸部隊は半数の2個師団が上陸。10万トンを超える物資も砂浜など沿岸に揚陸されていた。
もはや、台風を回避する為の一時退避すら不可能な状態だった。
一方で、さらなる部隊の上陸と物資の揚陸も波が高まって難しかったし、湾の外は湾内以上に状況が悪く積荷のなくなった船を引き返させるのも無理になっていた。
加えて、日本の「陽動」の戦艦部隊がブルネイを出撃した事は分かっていたが、台風から伸びる分厚い雲がフィリピン西方にまで大きくかかっていて航空偵察は難しかった。
その上、周辺海域の波が荒れ、潜水艦による捜索と発見を困難なものとしていた。
日本本土から南下している筈の「本隊」の日本軍空母機動部隊についても、何も分からないままだった。
しかもアメリカ軍には悲報が続いた。
レイテへと接近しつつある台風の後ろに、新たな台風が発生。予測では、3日後ろを一つ目の巨大台風を露払いや道案内とするような進路を取りつつあった。
その上2つ目の台風も、西へと進むにつれて勢力を拡大するだろうと予測された。
当然、日本軍も自分達のレイテ侵攻(フィリピン奪回)と台風の接近を察知していると考えられた。
そしてこの好機を、日本軍が逃す筈ないとも考えられた。自分達が逆の立場でも、航空機の活動低下が確実な状況を利用した反撃を企てるからだ。
そして日本軍の迎撃を受けて立つ側となったアメリカ軍だが、自然の猛威を前に出来る事が少なすぎた。
台風による波浪の高まりで上陸作戦は一時中断し、各種船舶と既に上陸した地上部隊の安全確保を優先せざるを得なかった。
揚陸した物資については、砂浜にあるものは諦める決定が早くも出された。タイミングが悪い事に、1つ目の台風が最接近する時間帯が満潮になると予測されたからだ。
また、日本艦隊が接近する時期のフィリピン東方の海域は、二つの台風に挟まれた状態。当然、風雨も酷くなるが海も大荒れとなり、空母艦載機の発艦・運用に大きな支障が出るどころか、艦隊が台風の進路上と周辺部に留まることすら難しい可能性が非常に高まった。
通常なら最低でも作戦変更すべきだった。
だが、アメリカ軍は既に多くの将兵がレイテの海岸に上陸していた為、全てを捨てて一度撤退する以外に、作戦を続行するしかなくなっていた。
そして二度とフィリピンを離れる事はあり得ないと断言するマッカーサー将軍は、作戦続行を強く命令。台風への対策を講じると同時に、接近中とみられる日本艦隊に備えるよう、海軍に強い要請を出す。
それ以前の問題として、東南東からレイテ湾に迫る台風に対して、逃げ出せる場所も時間も既に残されていなかった。
台風の巨大化と進路変更、そして接近はそれほど急な変化でもあった。
そして1つ目の台風が、10月23日から24日にかけて早い速度でフィリピン中部を直撃。更に悪い事に湾の入り口からレイテ湾に突入した。
しかも台風は、予測通りちょうど満潮の時間にレイテ島に上陸。瞬間最大風速50メートルを超える猛烈な風とスコールを上回る激しい雨が襲いかかる。
さらに、台風が湾内に運び込んだ形の海水が影響した予想よりはるかに大きな高潮により、レイテ湾にいた艦船を翻弄。降ろしていた錨の鎖が切れるなどして流される船が続出。船同士が衝突したり、海岸へと流され座礁する船が続出。
沈む船、衝突で火災が発生する船も少なくなかった。
加えて、海岸部にいたアメリカ軍と揚陸された大量の物資を波で攫っていった。もしくは、海水で揚陸した物資を台無しにしてしまう。
衝突などで火災が起きた場所も1つや2つではなかった。
その上、気象予報を実際よりも楽観していたことも重なり、多くの人的被害を出した。
そして上陸した将兵は上陸したばかりで、退避する場所どころか雨をしのぐテントすらロクになく、雨具だけを頼りにせいぜい近くの熱帯林の中でやり過ごすしかなかった。
上陸した部隊の多くは、その日の食事にすら事欠く状態だった。
そして台風直撃により、海岸の橋頭堡を含めて非常に大きな損害を受ける。
一夜明けると、激しい風雨と高潮で浜に乗り上げた船が、数十隻も出ていた。そうでないまでも、逃げ場のない湾内にいた艦船にも大きな被害を出した。火災も各所で続いていた。
この時点で、作戦を中止もしくは大幅に変更しなければならない程の被害だった。
日本軍の攻撃を受けても、ここまでの損害は出なかっただろうと、この時点で思わせる惨状だった。
あまりの惨状に、マッカーサー将軍は自然の脅威で半ば壊滅した自慢の軍団を、呆然と眺めるしかなかったと伝わっている。
一方、フィリピン沖合に展開する高速空母機動部隊だが、手をこまねいていたわけではない。
台風下でも作戦行動が可能な部隊編成を実施した。
新鋭の高速戦艦と重巡洋艦を中心とした艦艇を抽出。第34任務部隊を編成すると、日本艦隊の迎撃に向かわせた。
この艦隊は、日本艦隊が通過する可能性が非常に高いと考えられた、レイテの北側のサンベルナルジノ海峡のフィリピン海側に展開するべく、台風に苦労しつつ移動した。
加えて、接近していると考えられている日本艦隊への空襲を諦めてもいなかった。
西から接近する日本艦隊の攻撃に固執するハルゼー提督の方針もあり、4つのうち1つの高速空母群が台風を侮って予測進路上の近くに待機。結果として台風の中心近くに突っ込む形になって、多くの被害を出してしまう。
ただしこれは、被害はともかくその行動自体は評価された。よりフィリピンに近づく事で、最初の台風接近のギリギリまで上陸支援を行えたからだ。
しかしこれで、日本艦隊接近までに強力な空母部隊の4分の1が、戦闘期間中に力を発揮できなくなってしまう。
それ以外の3つの高速空母群は、結果として分散していた。
台風接近に関係なく日本本土から迫る『主力』の日本海軍の空母機動部隊に備え、1群がかなり北に移動していた。
このお陰で台風自体は回避できたが、台風による風雨の影響と波浪の高さの為、十分な艦載機発着は無理だった。
他、補給のため少し後方に下がっていた1群、そして台風を避けてレイテから少し東に離れた1群という状態になる。
しかも北に移動した高速空母群は、その後の2つ目の台風の影響で、1日から2日のタイムラグで空母艦載機の運用は非常に難しくなっていた。
これは西から迫る日本の戦艦部隊を迎撃できないばかりでなく、北から迫る日本の空母機動部隊に対する攻撃どころか、時間帯によっては艦載機による防空すら難しい事を意味していた。
そうした状態の為、アメリカ軍によるフィリピン西側各所での捜索・偵察も非常に難しかった。
また、影響は航空機だけでない。
潜水艦は大きな波の影響で海上での偵察がままならず、事前に複数が警戒配置についていたにも関わらず、ついに日本艦隊を捉える事は出来なかった。
しかも東へ向けて突進する日本艦隊は、その後フィリピンからスル海、南シナ海へと進んだ台風の下を強引に正面から突っ切ったが、そこにはあまり潜水艦は配置されておらず、発見する事自体が非常に難しかった。
当然だが、アメリカ軍による空からの偵察は、飛行機を現地上空に飛ばすこと自体が自殺行為だった。
潜水艦は、海中深くならともかく潜望鏡深度だと波に翻弄され、また高い波に邪魔されて水上の捜索が難しかった。
もちろん、洋上でのレーダーによる捜索も考えられたが、試した潜水艦は波の激しさを前に断念せざるを得なかった。中にはレーダーが破損した潜水艦まで出た。
それでも懸命の捜索が実施されたが、労多く益少なしという結果に終わる。
結果、アメリカ軍は接近する日本艦隊の動きを捉え損ね、しかも混乱による誤情報もあって動きを読み違えてしまう。
アメリカ軍は自分達を基準に常識的に考え、日本艦隊が巨大台風を真正面から突っ切る可能性は非常に低いと判断。進路より少し北の迂回ルート、シブヤン海を通ると予測した。
そしてこの予測で可能な限り行われた偵察では、ルソン島からレイテ島への増援を支援する小規模な日本艦隊をかろうじて捕捉に成功。だがこれを、接近中の艦隊の一部と誤認していた。
誤認したのは、ブルネイからの日本艦隊の移動タイミング的に、レイテ島への最短距離となるスリガオ海峡へと至るルートは台風の真下を通るので無いと判断。北側のシブヤン海、サンベルナルジノ海峡に迂回すると予測した為だった。
そしてサンベルナルジノ海峡ルートだと、日本艦隊がレイテ湾にたどり着くには、海峡突破から半日から1日の猶予があり、派遣された新鋭戦艦群と高速空母機動部隊によって阻止出来ると考えた。
そしてアメリカ軍は、読み違えた日本艦隊の動きから備えを行い、レイテの上陸部隊は日本艦隊が突如襲来するまでに、巨大台風で被災した友軍の救援と援助、損傷艦艇の後送に力を入れた。
当然だが、嵐が去った後の日本艦隊との戦いに備える為だった。
だが、事実は違っていた。