10 「停戦」
「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」
レイテの戦いで日本の思惑と違う形で世界は回天し、日本の戦争は唐突に終わりを告げようとしていた。
だが、まだ戦争が終わっていない以上、戦い続けなければならなかった。
日本海軍は、その内実が青息吐息ながら次のアメリカ軍の攻勢を迎え撃つ準備を進めた。
日本陸軍は、中国大陸で行われていた大陸打通作戦(一号作戦)を一定の成果を上げたとして事実上終了し、北にいた部隊を中心に満州への移動を開始。他も、一部占領地を捨てて内陸から沿岸への移動を開始した。
加えて日本本土では、本土決戦準備を北に大きくシフト。アメリカ軍の侵攻に備えて沖縄、台湾を固めつつも、ソ連にも備えるべく南樺太、千島、北海道に戦力を集め始めた。
一見、陸海軍がバラバラに動いているように見えたが、日本側の意図は明確だった。
アメリカに隙を見せず停戦に持ち込み、ソ連には石ころ一つ渡さない状態で戦争を終わらせる。ここに尽きた。
そうしなければ、戦争をする意味が無くなるどころか、国すら失いかねないからだ。
そして敵であるアメリカも、日本に対して必要以上に甘く出る気はなかった。
沖縄への侵攻は6月を予定していたが、その半月前にはレイテでの二の舞を避けるべく、日本本土の軍港を徹底的に攻撃する予定を組んでいた。
また、南方にいる日本艦隊に対しても、上陸支援よりも艦隊撃滅を優先する布陣と作戦を計画していた。動き出せば、潜水艦と基地航空隊、それに空母機動部隊の一部で到着するまでに波状攻撃する予定だった。
それ以前の1945年3月には、米機動部隊は一度南シナ海に乱入し、日本の海上交通路を荒らし回ってもいた。
その上で、アメリカは日本に対して一手打ってきた。
ソ連の日ソ中立条約の実質的な空文化を受けての行動でもある。アメリカが断った上でのソ連の意思を行動で確認した以上、アメリカは動かざるを得なかった。
同時に、ソ連がドイツとの戦争で身動きできない間に動くべきだった。アメリカが日本との戦争を止める大きな動機が、ソ連の動きだからだ。
もはや日本は半ば関係がなかった。
そしてアメリカが考えた戦争スケジュールだと、どれだけ早くてもアメリカ軍が日本本土の九州南部に侵攻するのは1945年秋。沖縄での戦いが長引けば、1946年春も予測された。
一方で1945年秋にはソ連も対日参戦し、現状でのドイツのように日本本土での進撃競争となる。
しかも満州、朝鮮はソ連が濡れてに粟に手に入れる。
日本が負ける段階で、ソ連にそれだけ取られるわけにはいかなかった。アメリカは日本との戦争で20万もの犠牲を出したのに、ソ連にそれだけ取られてはアメリカ市民が何も思わないわけがない。
かといって、計画を前倒しして安易に沖縄に侵攻するわけにもいかなかった。1ヶ月で沖縄本島を攻略する予定だったが、今までの経験から考えてスケジュール通り進むとは考えられなかった。
何よりレイテで暴れた日本艦隊の存在は、アメリカ軍に不吉な事を考えさせるには十分だった。
だからこそ、戦う以外の一手を打つ必要があった。アメリカは、レイテで躓いた事で全てを変える必要ができていたのだ。
そしてその一手とは、少し前から流れていた噂とアメリカの行動を肯定するものだった。
アメリカ軍は沖縄戦の準備以外にも、日本本土を中心とした日本の勢力圏に対する機雷封鎖を一気に強化した。日本に対して、最も効果的な戦闘方法だからだ。
非常に効果的だと分かった45年1月頃から、日本本土の主要海峡、航路、さらには港湾は急速に使用が難しくなりつつあった。2ヶ月後の3月半頃には、瀬戸内海はもはや機雷だらけとなった。
4月には、日本海側の一部の港以外、日本人達は砂浜で荷揚げをする状況にまで追い込まれていた。
港として辛うじて機能を維持しているのは、文字通りの決死の体制で掃海を実施している主要軍港くらいだった。
当然ながら、機雷投下開始から2ヶ月後の3月には日本の海運を知る人々は真っ青になり、日本に戦争終結を急がせる大きな一因にもなった。
人々は言った。「夏まで保たない」と。
実質的な効果は、無差別空襲より深刻だった。
一方でアメリカ軍は、レイテの戦いに敗れて以後、沖縄作戦の準備もあって大規模な渡洋侵攻作戦は行っていなかった。
これは日本海軍がもたらしたアメリカ軍の機材不足、兵力不足が原因でもあったが、それでもアメリカが流した噂を肯定していた。
そして遂に、無条件降伏ではなく日本の国体護持、つまり自主独立を認める形での停戦を考えている事を水面下であるがアメリカが伝えてきた。
これに日本が肯定的な反応を見せれば、公式な表明など行う用意があるとまで伝えていた。
何より、何かしらの宣言の前に水面下で伝えてきた事に、本気度合いを感じさせた。
その中で、細かい内容の一部も明らかとされ、日本が停戦する為の双方の条件は大きくは以下のようになる。
・連合国は日本に対する無条件降伏の要求を取り下げる
・連合国は日本の主権を認め自主独立を保証する
・連合国は天皇の保全を保証する
・日本の軍事力の即時停戦及び日本政府による保証
・日本の軍事力の火急速やかな動員解除
・日本の軍事力の一方的制限の受け入れ
・日本は第一次世界大戦開戦以後に獲得した全ての利権の放棄
・日本は朝鮮半島の独立を承認
・日本は満州、内蒙古、台湾、澎湖を中華民国に返還
・日本は放棄する地域での連合軍の進駐及び占領軍司令官の承認
・日本は政治の民主化を実施
・日本は国内の戦争犯罪人の処罰の受け入れ
・日本は日本が条件を履行するかを監視・管理する連合国の進駐の承認
・受け入れない場合、火急速やかに日本本土への侵攻を実施する
以上、日本にとっては非常に厳しい内容だった。
無条件降伏以外では「カイロ宣言」より厳しかった。
それでも自主独立、天皇の保全を認めている点は、連合軍というよりアメリカにとって最大限の譲歩だと日本側でも受け取られた。
何しろそれまではどこまで「無条件」なのかすら分からない「無条件降伏」だったのだ。
そしてソ連が攻めてくれば全てが終わりだという現実と感情論の二つが、日本を動かした。
実質的な敗北と降伏を認める事に反対する者も、国体護持が揺らぐ最悪の可能性を前にしては自らの論調と感情を低めざるを得なかった。
勿論、反発は非常に強かった。
加えて、もっと勝てば良い、鬼畜米英、露助(ソ連)何するものぞという景気の良い言葉だけ叫ぶ者達もいた。だがそれが現実的でない事は、日本の実情を知る人々だけでなく多くの国民が理解していた。
言った当人も、北に行って露助を撃退してこいと言われては、虚勢を張る事も出来なかった。そして実際に、一部の者は北に左遷されていったが何も出来なかった。
それに、アメリカ軍の巨大爆撃機が本土上空を我が物顔に飛んでいる現状を直視すれば、勝利や徹底抗戦を唱える者の多くの言葉が空虚なものだと理解できた。
加えて45年に入ると、目に見える形で日本周辺の海が機雷で封鎖され、物資が必要な場所に届けられなくなっていた。そして日本には短期間で何とかする力がなく、3月の時点で日本の様々な場所に壊滅状態という報告があげられていた。
そして機雷を除去すべき海軍は、機雷に対してお手上げという意味の両手を上げたような状態だった。
そうした中、1945年4月24日にカナダのオタワで行われた米英首脳による太平洋方面の今後を話す会談が急遽開催され、「オタワ宣言」が出される。
これは日本に停戦を求める宣言であると同時に、日本本土攻撃に対する最後通牒でもあった。
内容は上記したものとほぼ同じで、一部に保留と取る事が出来る内容も含まれていた。
当然だがソ連に合意なく極秘で進められ、中華民国に対しても事後承諾という形が取られた。
のちに伝えられたソ連に極秘とされた理由は、日ソ中立条約がまだ生きておりソ連は日本の交戦国ではないからとされた。ただしその言葉の中には、日本との中立条約が維持されている形になるソ連が、日本に情報漏洩する可能性があると取れる内容もあった。
そして宣言が出された時点でのソ連は、米英に対する強い非難声明以上は出せなかった。
何しろ4月16日からドイツの首都ベルリンでの攻防戦が開始されていて、25日にベルリン市の完全包囲が完了したところだった。
そしてまだ完全ではなかった。
ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの脱出は今の所確認されていないが、包囲下で激しい攻防戦が続いており安否そのものが確認されていないからだ。
それ以前に、日本とソ連は戦争状態になかった。一応は、中立条約も生きている事になる。
そうした情勢下で、日本政府は翌日の4月25日に宣言を好意的に受け止める内容の公式な首相の言葉を発表。
当然のように、日本国民、新聞の一部は、狂信的と言えるほどの反対、反発を示した。
だが「ドイツとの戦いが終わればソ連も攻めてくる」という話を、虚実交えて噂と公式の双方で広めた効果が強く見られた為、独立が維持できるなら1日でも早く停戦しろ、露助が攻めてくる前に戦争を止めろ、という論調が大勢を占めた。
ソ連、つまりロシアは本来の日本の仮想敵なので、国民にも理解しやすかった。
それに日本の頭上には、アメリカ軍の爆撃機が我が物顔で飛んでいる。戦争が政府の言っていたような楽観的な戦況でない事くらい、既に多くの国民は理解していた。
特に港湾都市、海峡、瀬戸内海、大きな湾といった場所は機雷の散布で真っ青で、もはや猶予はないとも考えていた。
日本の海上交通は開始2ヶ月で壊滅的になり、4月頃には船は自殺行為と言えるほど。日本の海上交通は、壊滅を通り越えて麻痺状態だった。
日本政府の正式な回答は、早くも4月29日に行われる。
日本政府内では26日の重臣会議、閣議、そして28日の御前会議で決まり、29日の回答となった。
日本政府中枢は、宣言が出るのを待っていたとしか考えられないタイミングだ。
ただし、4月29日の御前会議の日は、くしくも天長節。今上天皇の誕生日であるという皮肉に近いものがあったが、ある意味多くの日本人にとって受け入れやすくなったと言われた。
またアメリカ政府は、日本政府の回答が29日なのは天皇自身の意思ではないかと考えた。
そして5月3日の再度の御前会議で「聖断」による宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。
5月4日正午、日本政府は宣言の受諾と停戦決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声(玉音放送)により国民に発表された。
そして日本軍は、自衛以外の戦闘行動を全て停止する。
それはドイツ降伏調印より4日早かった。
だがまだ調印はされておらず、戦闘が停止しただけ。
ソ連のスターリン書記長は、日本に対して何か戦争に繋げられる行動を起こせないかと、ドイツ情勢、ヒトラーの生死を気にしつつも連日会議を行なったと言われる。
しかし大前提としてドイツはまだ降伏していなかった。
それに欧州から極東への軍隊の移動には、軍隊だけでも3ヶ月必要だった。極東で戦うために必要な物資の目処は全く立っていなかった。
結局、やるとするなら現有戦力で強引に開戦し、順次兵力と物資を送り込むしかない。
それも満州の一部に対してだけで限界と考えられた。
南樺太は、日本軍がソ連に対する警戒を急に強めた為、現状では日本軍の方が多いくらい。千島列島は、極東ソ連軍には攻め込む為の上陸機材がなかった。
満州方面でも現状は無理があると考えられた。
日本軍が中国から兵力を続々と送り込んでおり、しかも現地での根こそぎ動員も開始していた。
場合によっては、日本軍の反撃で逆に攻め込まれる可能性が危惧された。
それ以前の問題として、スターリンは政治的に米英に出し抜かれていた。日本と米英の停戦の話を知ったのは、「オタワ宣言」が出された4月24日。
何かを出来るだけの時間は最初から無かった。
結局スターリンは日本との国交を維持したまま、指をくわえて見ているしかなかった。
日本の調印は、5月27日に東京湾上の戦艦『大和』の横に並んで停泊した戦艦『ミズーリ』の司令官室で行われた。しかも、乗組員は迎え入れる為の整列以外で甲板などに出ることを禁じられての静粛な中で行われた。
ただし東京湾には、日本海軍だけでなく『ミズーリ』と共にやってきたアメリカ海軍の多くの艦艇も入ってきており、停戦調印というよりはまるで観艦式のようだった。
なおアメリカ軍は、戦争が続いていた場合は5月19日に呉とその近辺の日本艦隊に対して大規模な攻撃を計画していた。
終戦があと1週間遅ければ、アメリカ艦隊は前線拠点としているウルシー環礁から出撃を開始するというタイミングだった。
また一方で、6月からは沖縄侵攻作戦が開始予定で、既に遠方の部隊、艦隊は動き始めており、日本の戦争終了はそうした薄氷の上での終戦でもあった。