01 「アメリカ軍レイテ島侵攻開始」
「天佑だ」
状況を知った日本帝国海軍の参謀の一人が、そう呟いた。
その参謀以外の全ての日本人も、多くが似たような感想を持った。
状況は、それほど日本軍に有利に働いた。
しかもそれは、天候がもたらしたものだった。
西暦1944年10月17日。アメリカ軍は、日本軍の隙を突き自分たちのスケジュールすら前倒しして、フィリピン奪回作戦を開始する。
その第一撃目として、フィリピン中部のレイテ島攻略を選ぶ。
事前の偵察と空襲により、レイテ島の防備が薄いことが判明した為だった。
だがこの侵攻は、アメリカ軍としても時期としては半ば急に決定したものだった。
確かに、フィリピン奪回作戦自体の準備は以前から進められていた。
だが、ハルゼー提督率いる空母機動部隊の威力偵察的な空襲と偵察が行われるまで、フィリピン中部の要所と考えられているレイテ島が予測していた以上に手薄だとは分からなかったからだ。
しかしアメリカ軍自体のフィリピン奪回準備は既に十分進められており、戦力も日本軍を圧倒していた。
戦力的にアメリカが負ける要素は皆無とすら言えた。
だからこそ、作戦に問題はないとゴーサインが出される。
これに対して日本軍は、南太平洋の戦い以後、アメリカ軍が積極的な攻勢を取るようになってから、常に後手後手に回っていた。制海権、制空権も多くの場所で失い、生命線の海上交通路も遮断されつつある。
もはや戦争のイニシアチブは完全に失っていた。
この時も例外ではなく、数ヶ月かけて総力を挙げた迎撃の準備をしていたにもかかわらず出遅れた。
日本全体の深刻な燃料不足問題から、日本海軍の主力部隊は石油が豊富にある資源地帯の港湾都市シンガポール周辺に訓練、待機していた。
だが、艦艇に補給を行える船舶(=タンカー)の不足という貧乏くさい事情による燃料補給の遅れから、ブルネイへの移動及びブルネイからの出撃が遅れた。
そして、米軍のフィリピン侵攻が予測された10月20日の上陸阻止に到底間に合わない状況だった。
だが、西部太平洋の小さな島でまだ頑張っている友軍から、一つの朗報がもたらされる。
『台風が急速に勢力を拡大しつつ、フィリピン方面に進路をとっている』と。
これを日本人達は、自らの歴史の故事を思い出し『神風』や『天佑』だと考えた。敵艦隊が嵐で壊滅する事はないだろうが、少なくとも米機動部隊の空襲は避けられるのではないかと考えた。
突如発生した台風の進路、規模、時間、その全てが、絶妙のタイミングで進んでいたからだ。
一方、フィリピン、レイテ島に侵攻を開始したアメリカ軍も、作戦発動後ではあるが台風の接近は察知した。だが察知した時点では、フィリピン沖を通過すると判断していた。
しかし、時間とともに台風は勢力を拡大。さらに進路を予想より大きく西へと向け、フィリピンにさらに接近する進路を取る。
本来なら上陸作戦の延期を考えるべきだが、既に作戦はゴーサインが出され、巨大な侵攻部隊は動き出していた。
特にニューギニア島西部のホーランディアなどを出発した巨大な上陸船団は、一度動き出したものを止めると1週間の延期では済まなくなる。
この為アメリカ軍が大半を占める連合軍は、予定通り作戦実施を決める。
ただしこの時点では、アメリカは台風がフィリピンの脇を通過すると高い確度で予測していた。
この為上陸部隊は侵攻するレイテ湾に待機すれば問題なく、波の高まりで上陸もしくは揚陸が多少遅れる程度だろうと予測した。
しかし実際は、予測より台風がレイテ湾に接近を続けた為、予定よりも上陸作戦は遅延を余儀なくされる。
当然、本来なら上陸を終えたら離れるべき艦船が、予定より長くレイテ湾に拘束された。
しかも揚陸などを任務を終えた船舶も、台風の外への待避の時間がない為、レイテ湾の片隅で台風が過ぎ去るのを待つ事になる。洋上では波が高く風も強い為、非常に危険と判断されたからだ。
そしてアメリカ軍だが、万が一日本艦隊が突進してくるとしても台風が過ぎ去った後の戦闘を想定していた。
だが、台風はかなりゆっくりとした速度ながらフィリピン中部、レイテ湾へと接近を続けた。
そしてついに、台風の影響でフィリピン周辺海域の波が大きくなり、先にフィリピン東方海上での空母艦載機の発着が困難となってしまう。
当然、空母機動部隊、護衛空母群による洋上からの航空支援が難しくなり、上陸自体も風雨を警戒する必要があると判断された。
さらにニューギニア方面からの陸軍機による航空支援も、天候の悪化に伴い難しくなっていった。
一方の日本軍は、アメリカ軍の急なレイテ侵攻に右往左往。急ぎ艦隊をボルネオ島西部のブルネイに集めるも、タンカーが足りずに補給が遅れていた。
しかしこれが幸いする。
出撃直前に、フィリピンに接近中の台風が巨大化するだけでなく、スリガオ海峡方面に向かっている事を正確に察知。急遽、ブルネイに集結していた全艦隊でスリガオ海峡を突破する作戦に変更する。
これには第一遊撃部隊だけでなく、慌てて第二遊撃部隊に変更された艦隊も、途中で合流予定だった。
またこの変更は、アメリカ軍が台風接近で撤退する事を恐れたからでもあった。
日本艦隊が出撃する直前の21日、パラオから送られてきた台風の情報は、レイテ湾直撃を予測。しかも極めて大きな勢力に成長しており、自分達がアメリカ軍だったら被害の大きさを予測して、現地から引き上げるしかないと判断するだろうからだ。
だからこそ日本艦隊は急ぎ出撃していった。
参加艦艇数は49隻。敵が台風を恐れて逃げる前に、アメリカ軍の史上空前の巨大上陸船団と刺し違える覚悟だった。
以下が、この時の双方の主な戦力になる。
・アメリカ軍部隊:
総計862隻(戦闘艦艇157隻、輸送船420隻、特務艦船157隻、その他128隻)
第3艦隊(ウィリアム・ハルゼー大将、マーク・ミッチャー中将)
(高速空母機動部隊・4群に分散)
大型空母9隻、軽空母8隻、新鋭戦艦6隻
巡洋艦(各種合計)16隻、大型駆逐艦約60隻
(空母艦載機数・1100機以上)
第7艦隊(レイテ侵攻部隊)
(キンケード中将、オルデンドルフ少将、スプレイグ少将など)
(戦艦部隊1、護衛空母群3、上陸支援群などに分散)
旧式戦艦6隻、巡洋艦(各種合計)9隻、護衛空母18隻など
兵員輸送船53隻、貨物輸送船54隻、その他含め攻略部隊艦船計658隻、戦闘艦艇計157隻。
・アメリカ陸軍・レイテ上陸部隊
第6軍(クルーガー中将)(総兵力20万2500名)
第10軍団(5万3000名)
第1騎兵師団、第24歩兵師団
第24軍団(5万1500名)
第7歩兵師団、第96歩兵師団
他、レンジャー歩兵大隊など多数
(※作戦参加は第6軍の60%程度。後詰に3個師団などが別に待機。)
・日本海軍:
第一遊撃部隊 第一部隊(栗田健男中将)
・第一戦隊:戦艦《大和》《武蔵》《長門》
・第四戦隊:重巡洋艦《愛宕》《高雄》《摩耶》《鳥海》
・第五戦隊:重巡洋艦《妙高》《羽黒》
・第二水雷戦隊:軽巡洋艦《能代》 駆逐艦:9隻
第一遊撃部隊 第二部隊(鈴木義尾中将)
・第三戦隊:戦艦《金剛》《榛名》
・第七戦隊:重巡洋艦《鈴谷》《熊野》《利根》《筑摩》
・第十戦隊:軽巡洋艦《矢矧》 駆逐艦:6隻
第一遊撃部隊 第三部隊(西村祥治中将)
・第二戦隊:戦艦《山城》《扶桑》
・第十六戦隊:重巡洋艦《最上》
駆逐艦:4隻
第二遊撃部隊(志摩清英中将)
・第二十一戦隊:重巡洋艦《那智》《足柄》
・第一水雷戦隊:軽巡洋艦《阿武隈》 駆逐艦:7隻
機動部隊本隊(小沢治三郎中将)
・第一航空戦隊:(艦載機116機)
空母《瑞鶴》
軽空母《瑞鳳》《千代田》《千歳》
・第四航空戦隊:航空戦艦《伊勢》《日向》
・巡洋艦戦隊:軽巡洋艦《多摩》《五十鈴》
・第三十一戦隊:軽巡洋艦《大淀》 護衛駆逐艦:4隻 防空駆逐艦:4隻
・日本陸軍 現地(レイテ島)守備隊:
第16師団
(他フィリピンのルソン島から、急ぎ兵力を移動準備中)
・レイテ沖海戦推移(史実):
10月17日:アメリカ軍、レイテ島に空襲開始
10月17日:アメリカ軍、レイテ湾内に侵入開始
10月18日:日本軍、第一遊撃部隊が出撃準備
10月20日:アメリカ軍、レイテ島に上陸開始
夕刻までに兵員6万名と10万トンの車両、物資をレイテ島に揚陸
10月21日:日本軍、ブルネイより出撃
10月23日:日本海軍の第一遊撃部隊、パラワン水道で潜水艦の襲撃を受け大損害
レイテ島を守備する日本陸軍第16師団は、この日には半壊状態。
10月24日:シブヤン海海戦
10月25日:スリガオ海峡海戦、サマール沖海戦、神風特攻隊出撃
10月28日:第一遊撃部隊、ブルネイに帰投
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太平洋戦争(大東亜戦争)での一発逆転劇の架空戦記において、レイテ沖海戦が取り上げられる事がある。
だが、まともに考えると日本軍が勝つのは無理ゲーの上に無理ゲー。
架空戦記、火葬戦記に仕立てるにしても、この戦闘だけで勝たせるにはどうやっても無理がある。
そこで今回のお話にしてみました。
なお、この戦いの後で、『征途』(佐藤大輔著)のように何故かウルトラ積極的なソ連が船舶を太平洋側に根こそぎ集めた上に7月25日に対日参戦する予定はありません。
日本が分断される事もないでしょう。