第182話 甘く蕩ける二人だけの時間
薬が完成して数日経ったある日の夜のこと、俺はシアと一緒に共同の寝室でゆったりと過ごしていた。本を開いて少しは読んだものの、そこまで物語の世界にのめり込んでいるわけじゃない。シアもそれは同じようで、どちらかというとこの静かな空間を楽しんでいるようだった。
「それにしても、ようやく一段落した形ですね」
本を区切りが良いところまで読み終えたのか、あるいは読むことを止めたのかは分からないけれど、シアは本を膝の上に置いた。
彼女の言う通り、薬の完成を聞いてからギリアムさんやユティさんに協力してもらって効力を確認し、ライラックの伯父上やカイラスの兄上に届けるという一連の流れを思い返すと、やや忙しい日々だったなと思う。
今ではフォルス家で覇気を使える人は全員薬を服用したし、アークゲート家もシアを始めとして全員が飲んだらしい。今のところは二つの力の反発も、覇気や魔法が使えなくなったという報告も受けていないので、成功したと言っていいだろう。
「本当にそうだね。何かあったらどうしようと思って緊張していたけど、無事に終わってなによりだよ。……シア?」
そう返事をすると、不意にシアが立ち上がった。彼女はテーブルの脇を通り抜けて俺の元へ。そして俺の隣に腰かけた。
「一歩一歩ですが、進みつつあります。ノヴァさんの次の目的である北と南の確執の解消も、薬が完成したことで時間の問題になりました」
隣に座るシアは微笑んで俺を見る。当然だけどシアには俺がこの後にやりたいことを共有している。国王陛下やレイさんに伝えたことや、親睦会でのことも当然彼女は知っている。
「一歩一歩か……確かにそうだけど、今回の薬の完成は凄く大きな一歩だよ。シアのお陰だね」
「私は……いえ、ノヴァさんに喜んでもらえて嬉しいです」
少しだけ考えて答えるシア。きっといつもの癖で大したことはしていない、と言おうと思ったんだろうけど、流石に今回は大したことだと思い返したみたいだ。
それに気づいて温かな目で見ていると、シアは本をテーブルの上に置く。視線は俺から離さずに、穏やかな表情のままで。
体がゆっくりと傾いて小さな頭を俺の肩に優しく乗せた。
「始まりはあの雪降る日、王都での路地裏でした。そこでノヴァさんに出会い、それからしばらくしてあなたがフォルス家の人だという事を知りました。私はアークゲート家、ノヴァさんはフォルス家。……二家は宿敵の関係でしたが、それで諦める気には全くなれませんでした。またノヴァさんに出会うには宿敵という関係をそもそも変えないといけない、そう考えました」
シアの静かな言葉が心に響く。他の貴族ならともかく、フォルス家出身の俺とアークゲート家出身のシアがこうして結ばれているのは本来なら考えられないことだ。しかも俺もシアも共に三男、三女の関係性で。
今は当たり前のようになっている俺とシアの関係だけど、その背後には幼き日のシアの決意や頑張りがあったことを俺はよく知っている。
彼女は俺と再会し、そして結ばれるためにあらゆるものを変えた。
それがどれだけ嬉しい事なのか、言葉では言い表すことは出来ない。
「アークゲート家の当主になって、ノヴァさんとやっと結ばれて、そしてノヴァさんも晴れてフォルス家の当主になって……でもやっぱりその先を考えたんです。ノヴァさんと、私と、ユティやオーラを始めとする多くの人が周りに居る未来を。
そしてそれらを考えた時、まだ見ぬ小さな存在も……私達の間に生まれる思いの結晶もきっとそこに居るだろう。居てくれるだろうと、思いました」
それはきっと、俺が最近考え始めた未来。それをシアはずっと前から考えてくれていて、その未来を実現しようとしてくれて、そして夢見た光景を愛してくれていたんだろう。
右腕を動かし、もたれかかるシアの頭を撫でる。なんとなくそうしたい気分だった。
撫でられる感触に気づき、シアは頭を動かして俺を見上げる形になる。最愛の人と至近距離で見つめ合う。
「本当に一段落着いたんだなって、そう思います。あぁ、やりきったんだなって……」
「シア……」
笑みを浮かべるシアの表情には達成感があって、そしてすごく幸せそうで、愛しいという気持ちがどんどん溢れてくる。
彼女はやりきったといった。俺と結ばれて、穏やかで幸せな未来がもう間近に迫る今を、やりきったと言ってくれた。救国の英雄にして、歴代で最高のアークゲート家の当主であるシアならほかにもいくらでも達成感を得られる大きな事はあるだろう。
けれど彼女が一番達成感を感じ、そして幸せを感じてくれているのが今の瞬間だという事が、何よりもうれしかった。
「ノヴァさん……」
小さく呟いたシアは俺の肩から頭を離し、そっと俺の持つ本に触れる。もう読んでないそれを優しく取り上げて、そしてシア自身が置いた本の上に重ねた。
「もう夜も遅く、寝る時間ですね」
「……そうだね」
先ほどまで本に触れていた手の甲に、シアの小さな手が重ねられる。熱を帯びた彼女の手はするりと動いて俺の手のひらと彼女の手のひらが重なり、握られる。
椅子を立ちあがったシアに導かれるように俺も立ち上がる。シアとの視線はさっきからずっと絡み合ったままだ。
シアに手を引かれて、俺はすぐそばのベッドへ。視界にはとろんとした目をして、顔には赤みがかかったシアがずっと映っている。果てしなく男を、いや俺という存在を魅了するその表情を、誰にも見せたくないと強く思ってしまう。
けどきっと、同じように俺も真っ赤な顔をしているんだろうな、なんてことを思って。
ベッドに、シアが腰を下ろした。
手は繋がれたままで、ベッドへと腰かけたシア。見下ろすような角度になれば必然的にシアは俺を上目遣いで見るようになり、心臓の鼓動がますます速くなる。目を逸らすことなんて、出来る筈がない。
「ふふっ、えいっ」
不意に腕を引っ張られ、俺は体勢を崩す。シアが腕を引っ張ると同時にベッドに上半身を倒したからだ。彼女にぶつかると思い、慌てて空いている手で体を支える。
左手はシアの頭のすぐ横のシーツについて、俺も倒れ込むような姿勢。至近距離で見つめ合うシアが、いたずらに微笑んだ。
「ノヴァさん、明日はお休みですよ?」
「そ、そう……だね……」
少しだけシアは上半身を起こし、右手を掴んでいた手が離れ、シアの両腕が俺の首を抱え込むような体勢。見つめ合っていた彼女は俺に抱き着くような形になり、重力とシア自身の重みでベッドに引きずり込まれるような形になる。耳元でささやかれる声に頭がくらくらした。
求められているという事は明白で、その誘惑に抗う事なんて出来る筈もないし、しようとも思わなかった。
「ノヴァさん」
「っ……」
耳元でささやかれる度に幻覚を見る。たった一本の糸が彼女の声に呼応して震える姿を見る。
「以前話した子供が出来ない魔法……もう使用を止めましたよ?」
「あ……」
震える。全身が彼女の熱を感じ、心臓が周りに聞こえそうなくらいの音を立て、全身の体温が上がるのを感じる。あまり物事を深く考えられる段階はとっくに通り過ぎ、くすぐったいとか、温かいとかという事しか考えられない。けどその中で、何故かはわからないけどあることには気づけた。
ぴったりと密着しているシアの心臓の鼓動と、俺の心臓の鼓動が、同じような間隔であることに。
「妻にはして頂きました。なので……次は……母に」
「っ」
頭の中で見えていた幻想の糸が、ぷつりと切れた。




