第159話 彼の恐れを取り除ける人
ユティさんの片づけを手伝った数日後、俺は馬車でサイモン家へやってきた。馬車を降りれば当主であるアランさんが出迎えてくれて、挨拶をしてくれる。
「ようこそノヴァさん……それにしても、今回は馬車なんですね」
「こんにちはアランさん。うん、たまには馬車を使うのもいいかなと思ってね」
アランさんの言う通り、最近は移動でゲートの機器を活用することが多いから馬車を使うのは本当に久しぶりだった。俺の理由の説明にアランさんは納得したようで、屋敷の中へと案内してくれる。
そんな彼の背中を追いながら、俺は馬車に向けて一度だけ目配せをした。
サイモン家を訪れたことはこれまでも何度かあるけど、初めて来たときに比べて使用人の数が増えたり、屋敷の中が綺麗になっている。これもアランさんがサイモン家の当主として色々頑張っているからだろう、と思いながら、アランさんの執務室に通された。
最初こそ応接間で語り合った俺とアランさんだが、今では互いの執務室に足を運ぶくらいの仲だ。彼も俺の執務室に来たことは何度もあるし、今ではターニャを始めとする屋敷の人達ともそれなりに仲が良い。
アランさんの補佐を務めている執事さんに軽く挨拶をして、長椅子に腰かける。少しだけ待ってみれば、俺の好みを把握してくれているようで、コーヒーを持ってきてくれた。
「それにしても、ついこの間会ったばかりなのに、なにかありましたか?」
アランさんと前回会ってからそこまで時間は経っていない。とくに前回はオーロラちゃんがノークさんの屋敷に移住してすぐだったから、それから何か話題が増えたわけじゃない。アランさんも身の回りの変化がそこまでないこともあって、俺の訪問を少し疑問に思っているようだった。
「いや、特に何かあるわけじゃないよ。ただアランさんと話したくなったってだけさ」
「なるほど……ノヴァさんにそう言って頂けると嬉しいです」
「…………」
コーヒーを一口飲んで、大きく息を吐く。
ここからは、ちょっとした正念場だからだ。ユティさんからは大丈夫だと聞いているけど、それでも不安な部分もある。
「アランさん、一度アランさんが俺とシアの関係について聞いたことを覚えてる?」
「……はい、自分で質問しましたので。それがなにか?」
「あのとき、アランさんは自分の両親は判断材料にならない、って言っていたよね。実はそれがちょっと気になっていたんだ。今サイモン家はかつての凋落の影からは抜け出していて、今や南側を代表する貴族の一つだと思う。多くの事業に手を出しているし、他の貴族との交流も深い。
でもそんな絶好調ともいえる状態になっても、アランさんはあまり笑わないって聞いている。
それに色んな令嬢から声をかけられるけど、未だに婚約者の一人も持っていないって。それとアランさんの両親に、何か関係はあるの?」
アランさんの現状は、かなり貴族では特殊な立ち位置になる。妻どころか婚約者すら持たない貴族当主。それだけでも珍しいのに、今やサイモン家の格は高い。加えてそんな優良物件を周りの令嬢が放っておくはずもなく、アプローチもあると聞く。
でもアランさんはその全てを断っていて、今も独身を貫いている。父親であるルートヴィヒさんが彼に婚約者を宛がっていなかったのも不思議な点だ。
「…………」
アランさんは答えなかった。しばらく考え込むように沈黙した後で彼は大きく息を吐いて、俺の方を見た。
「……確かに、不思議に思うかもしれませんね。この際です、理由をお話ししましょう。
といっても、大した理由でもありませんが」
ユティさんが予言した通り、アランさんは理由を語ってくれるようだった。俺はほんの少しだけ安堵して、彼の話に耳を傾ける。
「理由は単純です。私には、愛というものが分からないんです」
「……分からない?」
「以前ノヴァさんと奥様の事を聞いて、お二人の間には確かに愛があると感じました。ですが自分にそれができるとは思えなかった。私が知っている愛は、幼いころに母から教えられた愛だけでしたから」
「母から……教えられた……」
何故だろうか、言葉だけなら尊いものに聞こえるのに、アランさんの雰囲気は逆に暗く重々しい。
「サイモン家に過去なにがあったのかについてはご存じだと思います。父は王都の方に頻繁に足を運んでいました。彼は私の事を愛してくれていましたし、私もそうでした。ですが幼いころの私にとって、家族というのはほとんどの時間を一緒に過ごす母だったんです。
母は父と望まぬ結婚をしました。彼女は父のやり方に最初から反対だった。そして父の行動を批判し、その時の状況を嘆きに嘆きました。そして唯一の嫡子である私に、サイモン家の復興を願いました。いえ、正確には父のような男になるなと、強く強く……言い聞かせました」
「…………」
アランさんの過去を聞いて、俺は心が痛んだ。幼い子供にとって、両親は大切な存在だ。特にアランさんは父親の事が好きだったし、母親の事もまた好きだったはずだ。けど当の父と母の仲は冷え切っていて、さらに母からは父を否定する言葉を聞かされ続けてきた。
幼いアランさんにとって、それがどれだけ悲しい事だったか。
「母は私に色々な教育をしてくれました。あなたはサイモン家の当主になって、もっとサイモン家を良くするの。あんな人になっちゃダメ、貴方は立派な当主になるのよ。そう言った母の言葉は今でも頭に残っています。
ただ今になって分かるのですが、母はただの貴族令嬢です。だから分からなかったんでしょう。貴族には交流が大事という事が。彼女は私に他との交流を一切断ち切らせ、指導をし続けた。時折心配する父にすらヒステリックに叫び、私を外界から断絶させた」
「……そんな」
「少しでも間違いをすれば、どうしてこんな簡単なことが出来ないのかと叱られました。叩かれたことだってある。ですが決まってその後に、あの人は私の事を愛していると、愛しているから、こんなに厳しくするんだと、そう言って涙を流しました」
「…………」
アランさんの口から聞かされる過去は壮絶だ。先ほどから聞いていて、胸が少し痛むくらいには。
「私が14歳の時、母は亡くなりました。元々体の弱い人で、凋落していくサイモン家が与える心的な負担に耐えられなくなったのかもしれません。あっさりと、私に愛を語ってくれた人はいなくなりました。
そのあとは父と会う時間も増えましたが、母の元にずっといた私に対して父もどう接していいのか分からなかったのでしょう。結局のところ当主としての指導を受けることはありましたが、必要以上に私に関わってくることはありませんでした。おそらくですが婚約者を用意しなかったのもサイモン家がもう終わりだと考えていたのもあるかもしれませんが、私の意志に任せるしかないと思ったのかもしれません」
そこまで話し終えてから、アランさんは一息ついて目を瞑り、そして再び俺を見た。
「そうして後には、母から与えられた愛しか知らない私だけが残った、という事です。私は母から受け取った愛しか知りません。それを愛と呼べるのかどうかすら、分かりません。だから私は、アプローチをかけてくれる女性に応えることは出来ません。他ならぬ私自身が分からないから」
アランさんの言いたいことは分かる。彼の母親は教育を愛だと言っていたけど、俺にはそうは思えない。彼女はアランさんを自分の願いを叶える道具にしたかっただけだ。そこに母親としての愛情はあったかもしれないけど、アランさんに語った程の愛情は感じられなかった。
少なくとも、アランさんの口から聞いた限りでは、彼はそれを愛だとは、きっと思ってない。
だから他の人に好意を向けられても、それに応えることが出来ない。でも、だとしても。
「ならそれは……セシリアさんにも同じなの?」
「セシリア嬢……ですか?」
「王子と皇女の結婚式典で、俺は二人の間に良い雰囲気が流れているのを感じた。それにハインズさんやナタさんに聞く限り、二人はたまに一緒に会うこともあるんでしょ?
それこそ、女性の中では一番会っているのがセシリアさんだって、そう聞いているけど」
「……セシリア嬢と交流があるのは事実です。ですがそれはあくまでもノヴァさんから話を聞いたからです」
「きっかけは確かにそうだったかもしれない。けどその後にもセシリアさんに会っているのはアランさんの意志の筈だ。アランさんはセシリアさんの事を気にかけていて、だから会ってくれている。あなたの事だから、セシリアさんの向けている感情にも気づいているんじゃないか?」
「…………」
アランさんに気持ちを向ける令嬢の数は多い。けどセシリアさんはその中でも少し違っているように俺は思える。彼女はアランさんに会う機会が、今では一番多い。それに彼女がアランさんに向ける感情は他の令嬢よりも強いものだと、そう思う。
「……気づいては、います」
アランさんはそう呟いて、少しだけ目を伏せる。
「ですが、私には分からない。私は彼女と一緒にいて、心地よいと感じています。ノヴァさんと一緒にいる時とは似ているけど異なる心地良さです。ですが……分からない。この気持ちに正直になって良いのか……あの人からの愛しか知らない私が……彼女を……」
その言葉と共に自分の手を握るアランさんを見て、俺は気づいた。彼が、今何を気にしているかを。
「母親と同じになると……そう思っているのか……」
「…………」
気付けたのはきっと、同じ悩みを抱えた人を一番近くで見てきたから。
顔を上げたアランさんは、俺のよく知るあのときの灰色の瞳の彼女と同じような目をしていた。
なら、解決できるのは一人しか居ない。
「よく聞いてくれアランさん。あなたはあなただ。母親じゃない。だから将来、母親と同じようなことにはならない」
「どうしてそう言いきれますか。パートナーを蔑ろにして子を苦しめる……その血が、私にも流れているのに」
アランさんはやっぱり分かっていたんだ。母親から与えられていたものが、愛ではないという事に。
俺は首を横に振って、アランさんに言い聞かせるように口を開く。
「俺には言い切れない。それは、俺の役目じゃないから」
言葉を切って、扉の方を向き、大きく息を吸う。
「そうですよね? セシリアさん」
やや大きな声で扉に問いかければ、アランさんは目を見開いて扉の方を見た。
そしてほんの少しだけ時間を置いて、扉が開く。その向こうから、目を潤ませたセシリアさんが入室してきた。
「……どう……して……」
「ごめんアランさん、この話をセシリアさんにも聞いてもらっていたんだ。あまり褒められた方法じゃないけど……でも、彼女はアランさんの過去を聞いた。アランさんの思いを聞いた。
……彼女こそが、今のアランさんの不安を解決できる唯一の人だと、俺は思う」
「…………」
アランさんは無言で立ち上がる。
対してセシリアさんは無言で、でもまっすぐにアランさんを見たままで近づいていく。
そしてあと数歩の距離に来て、立ち止まった。
「私は知っています。アランさんは不器用ですが、優しい人です」
「……セシリア嬢……しかし……私は……」
「あなたは一人だった私の元に来て、色々な話をしてくれました。過度に気遣うことなく、ただ側にいてくれた。それがどれだけ嬉しかったことか。最初はノヴァさんに言われたからかもしれません。けど今のあなたは、私との時間を大切に想ってくれている。私が思っているのと同じように……そう……ですよね?」
「ですが……私は……」
「大丈夫、あなたは優しい人です。母親と同じようにはなりません」
一歩進んで、セシリアさんはまっすぐにアランさんを見つめ、口を開く。
「私が精いっぱい、お支えします。私、良家の出身ではありますが、意外と強いんですよ」
さらに一歩、前に出る。
「母親と同じにはなりません。将来、子供が出来ても、その子を苦しめることはありません」
さらに一歩、進む。
「私も精いっぱい愛します。あなたと子供を。だから、一緒に育てていけばいいんです。私、子供は好きです。あなただけに独り占めなんて、させません」
さらに一歩進む。もう触れ合えるほどの距離に居るセシリアさん。
彼女がアランさんの手を取るのを見て、俺は立ち上がり、入れ替わるように出口に向かって行く。もうこの部屋に居るのは、無粋ってものだと、そう感じたから。
「だから、安心してください。あなたはもう、母親の影におびえなくて、苦しまなくていいんですよ」
「セシ……リア嬢……」
二人の言葉を耳に、俺は扉へと近づく。扉を開き、そして部屋を出る直前。
「アランさん……お慕いしています。暗い孤独の中で私と一緒にいてくれた、不器用だけど優しいあなたを」
「……ああ」
そんな二人の言葉を聞いて、俺は満足げに少しだけ微笑んで、扉を閉めた。
さて、一仕事終えたところで、馬車に乗って屋敷へと帰ろう。
サイモン家の廊下を歩きながら窓を通して空を見上げる。
さっき二人があんな会話をしたからかもしれないけど、俺の脳裏には微笑むシアの姿が思い浮かんでいた。




