19
ルアルは箒を手に持ち、天井を見上げた。
十年も住んでいると、煤や埃、蜘蛛の巣などで汚い。
(見ないようにしていたけど、酷い……。よしっ)
気合を入れて、煤払いを始めようとしたのだが、いつの間にか隣にいたリシャールの手が伸びてくる。
「貸して。煤払いは俺がやるから」
「いいよ。私が使っていた小屋だし。そっち終わったなら、リシャールは休んでいて」
「いいから。煤や埃が落ちてきて汚いから少し離れてて。ルアルはそっちの片付けをしなよ」
リシャールはルアルから箒を取り上げ、簡単な作業をさせようとする。
先ほどからずっとこの調子で、ルアルが少しでも重い物を持とうしたり、汚れることをしようとしたりするとすぐにリシャールが飛んでくる。
ルアルとしては、十年世話になったこの小屋に恩返しのつもりで、自分で掃除をしたいと思うのに。
「……じゃあ、洗濯してくる」
「洗濯は後で俺がするから置いておいて」
「大丈夫。煤払いのほうはお願い」
ルアルは小屋の中の布製品をかき集める。
洗濯物を入れたカゴを抱えて玄関に向かう。小屋から五分ほど歩いたところに小川が流れているのだ。
ルアルが玄関ドアを開ける直前、煤払いを中断したリシャールにカゴを取り上げられた。
「俺がやるって」
「だから、自分でやるって……(汚れ物は自分で洗いたいのよ)」
「そういうことなら、俺は触れずに洗える。なんなら目を瞑ったまま洗えるから」
「……どういうこと?」
「気になる?じゃあ今から実践するから見てて」
「えっ」
リシャールはカゴを持ってすたすたと外に出る。
ルアルも追いかけて外に出た。
すると、洗濯カゴの中身が宙に浮き、どこかから現れた水に包まれた。
空中の水の中で洗濯物が泳ぐように動いている。
(わぁ!凄い……!)
目を輝かせたルアルを横目で見たリシャールは、くすりと笑う。
結局、乾燥まで一気に行われたリシャールの魔術に釘付けになり、手を出すことも忘れてしまうルアル。
誇らしげな表情でリシャールは洗濯を終え、煤払いに戻る。
一通り掃除が終わると、残しておけない物の処分を始めたルアル。
手伝おうと、リシャールはキッチンの高い位置にある戸棚を開けた。
「あ!――っ!?」
「え――っ!?」
リシャールの驚いたような焦ったような声の直後、いきなりリシャールがルアルに覆いかぶさる。
その直後、バサバサと何かが降ってくる。
「ルアル、大丈夫!?」
「大丈夫。びっくりした……」
見ると、紙が二人の周囲に散乱していた。
ゴンという音も一音していたが、乳鉢だった。
「リシャールは大丈夫?」
「俺は平気。でもごめん。散らばってしまった」
「それはいいけど……。ぶつからなかった?」
「うん、掠めただけ」
薬を混ぜるための小さめの乳鉢とはいえ、当たれば怪我をする。
ぶつかってないと分かり、ルアルはほっとした。
「その戸棚、ここに住んでから開けたことがなかったの」
「ってことは、この小屋の持ち主の物か。――調薬メモだな。こっちは魔法陣だ。これ、製作者のサインか?」
「小屋の持ち主の?乳鉢もあるし、もしかして魔法薬師が住んでいたのかな?」
ルアルがリシャールの手に持っている紙を覗く。
と、すぐに、ルアルは紙を奪い取った。
あまりルアルらしくない行動に、リシャールが不思議そうに見上げた。
ルアルは目を見開き、魔法陣を見ている。
魔術部隊の少将をしているリシャールは、自分でも作成するため、魔法陣の見方がわかる。ルアルが凝視しているものは、特段珍しい魔法陣ではなかった。
「どうかした?」
「この名前……お母様の名前と一緒…………」
「えっ!?ルアルの母親?」
リシャールはルアルの生い立ちや家族について詳しく聞いたことはない。
ただ、時々流れ込んでくるルアルの心の声で、なんとなく察しがついていた。
「お母様は魔法薬のための珍しい材料を探して旅をしていたらしいの。もしかして、ここに住んでいた……?」
リシャールは小屋の中を見回す。
ルアルが十年住んでいるだけあり、多少生活感はあるものの、あくまでも簡易的な森の中の小屋という雰囲気である。
「(ここに定住していたとは思えないんだよな……)旅の途中に使っていたのかもしれない。定宿のような感じで」
(じょうやどってなんだろう……)
「旅先では宿に泊まるけど、必ずここと決めている宿のこと……かな」
「それをじょうやどって言うんだ。じゃあお母様はここの近くに来た時にはこの小屋に泊まって休んでいたのかもしれないってこと……」
そう思うと、ルアルはここを離れ難いと思ってしまう。
ルアルの心の声を聞いて、リシャールは複雑な顔をした。
ルアルが母の描いた魔法陣を見つめていると、ピッピが見回りから戻ってきた。
〈この辺の奴らに挨拶してきたぜ!力の譲渡も完璧!さすが俺様――ん?お、懐かしいな。ルアルの母親のやつだ〉
「えっ!ピッピ分かるの?」
〈わかるぞ。なんでそんなに驚いてるんだ?〉
「だって、ピッピが生まれたのはお母様が結婚してからでしょう?」
〈そうだ。俺はルアルの母親に付いていた精霊から生まれているからな。記憶を引き継いでいるんだ。だから、俺としては初めて見るが懐かしいとも感じる〉
「そうだったんだ……。ねぇ、お母様ってこの小屋に住んでいたの?それとも――」
〈ここは旅の途中で宿代わりに使っていた小屋だな。昔、木こりの爺さんが使っていた小屋で、薬を無償でやったら礼として貰った小屋だ〉
ルアルはパカッと口を大きく開けて呆ける。
「(ほ、本当にお母様が使っていた……お母様の小屋……。十年持ち主が現れないはずね……)あっ!だからピッピは私をここに連れてきてくれたの?」
〈そうだぞ〉
「そうだったの!?教えてよー!もうぅぅぅ」
ピッピは何故ルアルが少し機嫌を悪くしたのか分からないようだった。
◇
「荷物、持つって言ってるのに」
「いいからいいから。ルアルは魔法陣を回収しなければいけないんだし。荷物は俺に任せて」
二人は森の小屋を出た。
ルアルが荷物を持とうと手を伸ばしても、ひょいひょいと避けられリシャールは持たせてくれない。
諦めてルアルは自分が森に仕掛けた魔法陣を回収して歩く。
そんなことをしながら、あっという間に町に出た。
ルアルは気配を消す魔法陣を展開し、リシャールはそれを複雑そうな顔で見ていた。
魔道具屋のドアを開ける。
アンヌの他に、もう一人男性もカウンター内にいた。アンヌの父でこの店のオーナーだ。
「あらっ?ルアルちゃん。納品日以外なんて珍しいわね」
「あ、はい……こんにちは」
「はい、こんにちは(つい先日納品してくれたばかりだけど、追加で作ってきてくれたのかしら)」
アンヌはにこにこと笑顔を向ける。ルアルがほっとする笑顔だ。
一方で、ルアルがオーナーと会うのは久しぶりだった。じっと見られて緊張する。
「お、お久しぶりです」
「久しぶりだな。子供の時は気づかなかったが……もしかして、おまえの母親はエルメンヒルデか?」
「お母様を知ってるんですか!?」
「昔、時折魔法薬を売りに来ていたんだ。旅の魔法薬師だったから、こちらに来た時はな」
「そうだったんだ……」
ルアルはリシャールを見た。
リシャールは微かに表情を和らげて無言で頷く。
「今日は少将様も一緒なのね。(というか、こちらに来てたのね)お見送り?」
アンヌはリシャールの持っている二つの鞄を見ながら言う。
「あ……実は……(なんて言ったらいいんだろう。出ていきますは違う気がするし……)」
ルアルの迷いを聞いたリシャールが、前に出る。
「ルアルは俺の国に行きます。連れて帰ることにしました。俺がそばにいてほしくて、迎えに来たんです」
アンヌは驚き、ルアルを見る。
少し恥ずかしそうに俯くルアルを見て、笑顔を浮かべた。
「(無理やりではなさそうね……)そうなの。お別れの挨拶をしに来てくれたのね、ありがとう(森の中で一人だったから心配だったけど、良かった。少将様なら大丈夫そうだし、ここにいるよりはきっと住みやすいわ)」
アンヌの心の声を聞き、ルアルは顔を上げる。心から心配されていて、安堵されたことが伝わってきたから。
(寂しくなるわね……もう会えないのかしらね……。でも、どうしましょう……。ルアルちゃんの薬がもう入荷できなくなると、困るお客様がいるわ。在庫切れってだけでしつこい人もいるのよね。入荷しなくなると言ったら――はぁ、面倒くさそう……。それに、他のを勧めてもルアルちゃんの薬しか買わない人もいるし。はぁ、困ったなぁ。でも、仕方ない……。薬のために引き止められないものね……)
笑顔を向けてくれるアンヌの心の声を聞き、ルアルの気持ちが揺れる。
薬を買い取って、優しくしてくれたアンヌのおかげで、今のルアルがいる。
自分が去ることで大恩人が困ってしまうとは……。
ルアルの心の声が聞こえてくるリシャールは、気が気ではなかった。
当然リシャールも人の心の声が聞こえることを秘密にしている。
だから、口を挟むことはできない。
心の声同士で会話はできるが、(ルアルがいなくなれば他が取って代わるだけだ)とは言えない。ルアルとアンヌの絆を思うと、上手くルアルの気持ちを自分に引き戻す言葉が見つからなかった。
(アンヌさんが困ってしまうなら――)
「薬作りはやめてしまうのか?」
オーナーの問いに、顔を上げたルアルは反射的に首を振った。
リシャールについて行ってどうするのか何も決まっていないが、ルアルにできることは薬作りのみ。やめることは考えていなかった。
「それなら、向こうで作った薬をここに送ってくれないか。おまえの薬しか使えないと言っている客がいるんだ」
「……でも、凄く遠いって(送るって、どうやってやるのか分からないし)」
「宗主国の王都には、魔道具屋の知り合いがいる。こちらでなかなか手に入らないものを定期的に送ってもらっている。多少届くのに時間はかかるが、少しでもいいからそこの魔道具屋を介して送ってくれると助かる」
(ルアル!良いんじゃないか!?それなら俺についてきても迷惑はかけない。気がかりもなくなる!)
思いがけないオーナーからの提案に、先に反応したのはリシャールだった。
(そうだね。それならあまり迷惑をかけることもないよね……)
(そうだよ。その手があったよ。屋敷に戻ったらすぐに調薬用の部屋を整える。庭に薬草の畑も作ろう!)
「どうだ?もちろん報酬は今まで通りだし、店に卸してくれたら送料も負担しなくていい。駄目か?」
「あ、いえ。それで大丈夫なら、これからもお願いします」
「ああ、よろしく」
「ありがとう、ルアルちゃん!(これでお客さんが困らなくなるわ。良かった。それに、向こうの魔道具屋と繋がりがあれば、またいつかは会えそうね。たまには私も遊びに行っちゃおうかしら。ふふっ。そう思うと少し楽しみ)」
アンヌの気持ちも上向きに変わったことが分かり、ルアルとリシャールはほっとして見合う。
ルアルは恩人に迷惑をかけずに済んだとほっとし、リシャールはルアルが心変わりせずに済んだとほっとする。
二人は別のことで安堵していたのだが、アンヌには恋人同士がただ見つめ合っているようにしか見えなかった。
(ふふっ。少将様の蕩けそうな目!良いわねぇ。わざわざここまで迎えに来るなんて、情熱的だし。ルアルちゃん、愛されすぎてちょっと大変かもしれないわね。でも若いうちだけよね!羨ましいわぁ)
アンヌの心の声を聞き、二人は気まずげに視線を逸らした。
それを見て、また(あらあら。見つめ合っただけで照れちゃって!可愛いわぁ!ずっと見ていたい!)と思われてしまい、二人はそそくさと魔道具屋を出た。
少し慌てて店を出たため、気配を消し忘れたルアル。
黒いローブ姿を見た人の(あ!噂の……!)という心の声が二人に届き、すぐに耳目が集まり始める。
ルアルは足が動かなくなり、下を向く。
「ルアル。手、繋ご」
リシャールがルアルの手を取ると、ちらちら見ていた人たちが一斉に驚愕した。
しかし、次の瞬間には「あれっ?二人はどこに?」や(消えた!?)の声が。
(え?どういうこと?)
ルアルが辺りを見渡す。
リシャールがしっかりと手を繋ぎ直し、「俺の魔術。隠してあげるって言ったでしょ」と言う。
「さぁ、行こう。もっとルアルらしくいられる場所へ」
リシャールに引っ張られ、ルアルは歩き出す。
リシャールの笑顔に釣られて、ルアルも笑顔になっていた――――
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