⑤大家さんと不審娘
「おーい、メシだぞー」
彼は我ながらアホかと思いながら、言葉の通じない娘に向かって声を掛け、見てみろとばかりにこんがり焼けたパンを一枚振って注意を引こうとする。
「……。」
しかし、娘は丸まった姿勢で居間に背中を向けたまま、布団の上から動こうとしない。勿論返答は無いのだからそのまま放置しておけばよいのだが、生来の気質なのか青年は彼女が気になって仕方がないのだ。
それにしても、この娘は何処から来たのだろう。少なくとも近隣の家に似たような少女を伴って越してきた家庭は無いし、今まで姿を見た事も記憶に全く無いのだ。
「……まあ、腹減ってるんだから、そのうち食うだろう」
そう呟いてからパンに齧り付いた瞬間、ドアホンがピンポンと鳴った。
こんな朝早く(と言っても既に八時過ぎだが)に誰が来たのかと訝しげに思いながら、まさか警察だったらどうしよう、と本当ならば渡りに船な筈なのに、彼の思考は何故か真逆の慌てようである。
名残惜しげにトーストを睨みながら立ち上がり、玄関に辿り着いて小さな覗き窓から外の様子を窺うと、
「大伝さーん! 大家よー、開けてー♪」
聞き覚えのある甘ったるい声が聞こえ、名前を呼ばれた彼は諦めと共にドアの鍵を外した。
扉の向こう側には、ニットの半袖を着流した女性が立っていた。彼女は大家の細野さん。名前と真逆のグラマーな年上で、ついでに言えば少々お節介なお隣さんでもある。
「おはよう! ねえ、昨日の夜は何かあったの? 随分と騒がしかったんだけど……」
「えっ、そうなんですか? あー、ゴキブリが出たんで少し慌てたんですよ……」
彼はつい誤魔化そうとして出任せなウソを言ってから、細野さんの視線を追って背後に振り返った。
「……あら、見ない子ね……妹さんかしら?」
彼女の視線の先には、居間のテーブルにちゃっかり着いてトーストを片手に持ち、おかずのハムエッグをモリモリと食べる騒ぎの元凶が居た。
「あっ!? あー、うん……それがその……」
咄嗟に何も思い付かなかった彼の後ろから、細野さんの気配を察した娘がチラッと玄関の様子を眺めてから、
「……また食うんかいっ!!」
皿の上のハムエッグに意識を集中し、カツカツとフォークを操って食事を再開したのである。
「へぇ~、ここに来てたんだぁ!」
と、細野さんは娘の姿を一瞥してからそう言って腕を組み、まるで到着した荷物の中身を確認したように満足げに微笑んだのだ。
「……えっ? 大家さんの知り合いだったんですか!?」
当然のように大伝と呼ばれた青年は驚くが、細野さんは姿勢を崩さぬまま、
「そうねぇ……こっちが知ってるだけで、向こうは知らないんじゃない? 私が誰とかなんて……」
意味深げな事を言うと、まー細かい事はともかく上がるわよ、と強引に扉の隙間に身体を押し込むと、サンダルを脱いで部屋の中へと上がってしまった。
「へぇー、そんな事があったのねぇ……」
観念した彼から昨夜の顛末を聞き、部屋の窓辺に干された貫頭衣と肌着を眺めながら細野さんは出されたコーヒーに口を付け、続けて向かい側に座った少女を見つめる。
「それにしても、どうして大家さんは彼女の事を知ってるんですか?」
「……どうして、ですって? フフフ……さあ、どうしてかしらね……」
続けて、どうしても知りたい? と呟きながら彼の方に身体を寄せる細野さんに、彼はたじたじになってしまう。
……ここの大家さん、細野夫人はアパートとマンションを所有している資産家である。若くしてこの界隈の地主と結婚し、三人の娘をもうけたけれど夫に先立たれ、彼女と長女の二人で物件の管理人をしているのだが……その容姿と言動は独身の大伝には刺激が強過ぎるらしい。
「あ、えーっと、その……」
そう言いながらチラッと娘の方を見ると、どうやら関心が無いらしく、知らん振りでテレビを眺めていた。
「は、はい……知りたいです……」
遂に折れたように大伝が応じると、にっこり笑いながら細野さんは彼の手を握ると、
「じゃー、教えて……あ・げ・る♪」
そう呟きながら細い指先をすーっと額まで持ち上げて、突如がしっと掴んだかと思うと、ギリギリと有らん限りの力で締め上げたのだ。
「ちちちちちょっと待ってぇ!! ギブギブギブギブーッ!!?」
「あら~、大伝くんったら……案外タフなのねぇ」
細野さんは女の細い指先からは想像も出来ない握力で絞め続けた結果、彼の痛みはやがて我慢の限界を突破し、同時に頭部の血流を止められて失神した。
「……ふう、やっと落ちたわぁ。このままの姿じゃ、やっぱり限度があるわね……」
大の男を片手で絞め落としながら、まるで木の葉を払う気楽さでそう言うと、
「あなたは判ってるでしょ? ねえ……神官さん?」
ゴトン、と足元に崩れ落ちた青年を跨ぎながら、小首を傾げて問い掛ける。すると神妙な面持ちで立ち上がり、細野さんの前まで進んで両膝を突くと、黙って自らの後頭部を差し出した。
「そうそう、それでいいわ……素直な子は大好きよ♪」
今度は優しく頭を撫でただけで気を失い、白眼を剥いて倒れた大伝の横に、寄り添うように身を横たえた。