③養分社員、布団を奪われる
「……さて、洗うか」
ほっとけば皿まで舐めそうな勢いで食べていた娘が、至福そのものの緩みきった表情で何か繰り言を呟いていた。しかし、皿を洗うつもりで立ち上がった青年が動いた瞬間、突然バッと立ち上がると目の前にあった皿と彼の皿を素早く掴み、流し台の中まで運ぶと一瞬考える素振りを見せてから、スポンジと蛇口を巧みに操って洗い始めたのだ。
「……へえ、凄いじゃないか」
流石に洗剤まで判らないかと思いながら横から手を出し、食器洗剤を掛けて泡を立てるよう見せてやると、クルリと振り向いて何か言いながらニコッと笑ったのだ。
ぐう、と思わず呻きたくなる程、心に突き刺さる破壊力を秘めた笑顔に一瞬クラッとしたが、何故か青年は跳ね除けたくなり彼女から離れて居間に逃げ込むと、テーブル越しにテレビを眺めて誤魔化した。
暫くカチャカチャという食器同士の当たる音が鳴り、それから音が止むと台所が静かになる。
テレビから無意味に笑う後付けの音声が流れ、面白みに掛けるアイドル崩れの騒ぎに嫌気が差してチャンネルを変えると、背後から娘がやって来て彼の横に座り、そのまま黙ってテレビを眺め始めた。
互いに無言、何も交わす言葉は無い。
テレビから、国内を旅するスタッフの段取り通りのアポ確認が流れ、奇妙な盛り付けの風変わりな料理を出す様子が画面に現れると、
「むーん、ふむぅ? ……アハハ!」
突然娘が笑い出したので、ギョッとしながら思わず彼女の方を見る。すると、唐突に立ち上がった娘がテレビに近付くと、すっと伸ばした指先が画面にチョンと当たった瞬間、
「ふおっ!?」
と電流が流れたように戦きながら指を引っ込め、そのまましげしげと指の先を眺めてから椅子に戻り、何故かうんうんと頷いてから再びテレビ視聴へと戻る。
(……変な奴。テレビ、観た事ないのか?)
そんな様子を眺めながら、青年は再び彼女について考察する。
勝手に部屋へ侵入し、勝手に押し入れに忍び込み、勝手に寝ていた超汗臭い奴。何処からどう見ても不審者そのものである。どうやって鍵を開けて入ったのか判らないが、かといって何かを盗みに来たようでもなさそうだ。
……では、ストーカーか?
いや、そもそも自分はこの年代の少女と接点が無い。電車通勤で学生と乗り合わせる機会もあるにはあるが、行きの電車はほぼ始発だし、帰りは終電に近く学生は滅多に乗り合わせない。そもそも好意を寄せて現れたにしても、言葉の壁をどうやって乗り越えるつもりだったのか判らない。最新のスマホですら匙を投げたのだ。
では、詐欺か何かでやって来た疑いは?
流石にそれは無いだろう……安月給でこき使われている会社員だし、騙して何か奪うにしても金目の物は全く無い。狙うなら預金の有る年寄りか、警戒心の薄い新社会人の方が上手く騙せるだろう。
そう考えれば考える程、思考は的の中心から外れ、有らぬ方向にすっ飛んでいきそうな気がしてくる。
はぁ、と吐いた溜め息と共に空回りする思いを止め、横に座っている娘に気付かれぬよう、それとなく観察してみる。
年齢はたぶん、十代半ばだろうか。身体のパーツ各々のバランスは案外整っているものの、いかんせん若過ぎるせいか肉付きに欠けていて、そのせいか幼く見えているのかもしれない。
顔の作りは悪くない。いや、もしかすると化粧の欠片も無いのを考えたら、かなり美形な方だろう。いや、こうして冷静に眺めてみると……そんな生易しいもんじゃない。何処か東洋人離れした雰囲気は、クォーターかと言いたくなる位に美少女そのものだ。最初の汗臭いイメージで始まったマイナス補正のスタートだったが、それらを払拭された今は……いやいや、よーく考えろ。
身元不明で言葉の通じない、未成年の異性だ。万が一、家出人として捜索願が出ていたら……俺は有らぬ疑いをかけられるかもしれない。
警察に届け出て、すんなり保護して貰えたらラッキーだが、どうして直ぐに届けなかった等と詮索されたら、最悪の場合……未成年者略取とか言われないか? 会社に連絡されたら……即、呼び出されるかもしれない。ああ、その方が確率的に高そうな気がしてきたぞ。
これは……明日になったら出ていって貰うしかないか。俺は、赤の他人なんだから知らん振りして駅前の交番近くまで連れていって、あそこに行けと伝えてダッシュで逃げよう。それが一番だ、お互いに……。
そう決めて娘の方に向き直ると、
「……すーっ、すーっ……」
……当然の如く、寝落ちしていた。
ああ、くそ……こいつ、俺の気も知らないで。
しかし、ついさっきまで彼が企てていた知略を余所に、娘は平穏な寝息を立てながら、ぐっすりと安心しきって眠っている。
「おい、起きろよ……せめて自分で布団まで行けったら……おーい!!」
ぺちぺちともっちり柔らかなほっぺたを軽く叩いてみたが、ニヘヘと意味不明の笑いを浮かべ、しかし全く起きる気配を見せない。
「あーっ、くそ! こーなったら……鼻の穴に指突っ込んでやるぅ!!」
自棄気味になりながらふにゅっ、と指先をめり込ませてみるが、ふごっ! と息を詰まらせ鼻を鳴らしながら、一瞬だけ眉間に皺を寄せてみたものの、全然起きる様子は無い。
はああぁ……と今夜一番の溜め息を吐き、諦めと共にぐったりとしながら立ち上がった彼は、仕方なく布団を広げてから居間に戻り、
「やれやれ……お前、いつか絶対に恩返ししやがれ……判ったか!?」
そう毒付きながらテーブルの上に突っ伏す娘の傍らに立つと、よいしょっと勢いを付けながら横抱きに持ち上げて、ヨロヨロと歩いて布団まで運んだ。無論、馴染み深いお風呂用セッケンの良い香りに包まれた彼女に、ロリコンではない彼が妙な気を起こす訳も無い。
……たぶん、無い。
「……仕方ないから、今夜だけは布団、貸してやる……」
そう囁いてから、そーっと寝かせて掛け布団を被せてやると、自分はありったけのバスタオルや毛布を隣の畳に何枚も敷き、寝る為にと言いながら自棄酒を煽って就寝した。