女性が苦手な王太子殿下とそれをどうにかしてほしい近衛騎士の、とある日のこと
勢い任せに書き上がっております。
テリス王国王太子、エイセル・ルノア・テリスは、天から二物も三物も与えられた王子様だった。
まず顔が良い。王と王妃の美しさを足して二倍にしっぱなしにしたような天上を思わせる造作は凛々しく美しくときに甘くやわらかく、出逢う者ほぼすべての視線を奪う。
次に頭が良い。彼の教育は歴代でも飛び抜けて幼いうちに終了し、王室付きの教師全員が声を揃えて称賛した。新規の発見や研究にも時間が許せば勤しみ、国の発展に尽くしているほど。もちろん、将来に備えて国政へも心を砕いている。
そして性格が良い。いい意味で良い。人にやさしく己にきびしく。罪を憎んで人を憎まず。弱きを助け強きを挫く。いささか甘ちゃん傾向があるがその自覚を忘れず、周囲の進言も取り入れる寛容さを併せ持つ。
それから文武ともに腕が良い。頭の良さは先述のとおり。剣術は現役の騎士団長にやや遅れを取る程度に鍛え上げている。馬術槍術体術魔術もひととおり。指導者としても彼を慕う者は多い。
あとスタイルが良い。人受けが良い。とにもかくにも、いまだ顕在化していないものを合わせたら十物どころか百物くらいあるんじゃないのかってくらい、出来のよろしい王太子様。
そんな彼を主として仰げることを、その近衛騎士として傍らに侍るジーシィン・アレスは誇りに思う。
半分だけ。
いや、四分の一、いや、ご……いやいや。
どういうことだと不心得者だと、事情を知らぬ者なら言うだろう。
だが、素晴らしく出来のよろしい王太子がジーシィンの目の前で何をしているか知ったら、きっとどれだけひどく罵った者でも、ジーシィンに同情してくれると思うのだ。
「……はぁ……」
執務の休憩時間。窓辺に身を寄せた王太子殿下の姿は、それはそれは麗しい。画家が二十四時間張り付いてあますところなく一日のお姿を描きたいとのたまったある日のことも、いまや伝説になりつつある。
さらさらの銀髪に切れ長の紫水晶の瞳は切なげに細められているが、普段は確固たる意志の輝きでもって万民を照らすのだ。
「――美しい……」
その瞳が見据えるのは、彼らが在する執務室から眺めることができる騎士団の鍛錬場だった。
今美しいって言ってなかった? 言いました。言ってます。
脳内でボケツッコミ劇場を繰り広げるジーシィンである。
このまま一人遊びに没頭して、続いて出てくる王太子のセリフを聞こえないことにしたいとジーシィンは思った。
「……あの胸筋……上腕二頭筋……いつになっても衰えない均整のとれたたくましさ……」
無理だった。
耳を塞ぎたいなあと切に願うけれど、両手を使えなくしてしまうなど、近衛として言語道断である。実力的には王太子のほうが上ではあるものの、わざわざ戦力を減らす真似はできない。
ジーシィンは瞳から光を消して、輝きあふれる窓辺から視線を背けた。
「……ああ……あの方の臀部に埋もれたい……」
聞きたくない。
「……いや、いっそ……ああ、とても言えないな……」
内容を聞かなくてすんだことは心からうれしいが、言いたいことは分かっている。虚しい。ついでにどんな顔してほざいてるか失礼おっしゃっているかも想像できるからしんどい。
「なあ、シィ」
聞きたくないなあ。
「……シィ」
きっととろっとろの惚けた顔してるんだろうけど、それも見たくないなあ。
「おまえの御父上は、今日も本当に美しいな?」
「臣下の仕事のモチベーションを叩き落とすのは辞めてくださーい!」
とうとうがまんできなくなったジーシィンは、室内にふたりきりであるのをいいことに堂々と不敬発言をぶちかました。
たしかに我が父の肉体美は彫像として残したいレベルだし、顔だって王太子には負けるが引く手あまたのモテ具合だったが!
「なぜだ」
すん、とした声を合図に、ジーシィンはようやく王太子を振り返った。待ち受ける仏頂面を見て安堵する。
何が悲しゅうて己の父親に色目を注ぐ自分と3歳しか違わない美青年を眺めなければならんのだ。仕事だからだ。知ってるよ!
「美しいかたを美しいと言って何が悪い。私があのかたに」
「あーあーあーあーあーあー! 私の父は! 私の母の! 伴侶ですので!!」
「……だから、あこがれを口にするだけに留めているのじゃないか」
それくらいいいだろう、とはいつもどおりの王太子の弁である。
いつも聞かされる身にもなれ。だが王太子本人がなってくれるわけもなし、愚痴を言える相手もいない。……友達がいないわけじゃない。王太子のコレを知る者が、ジーシィンが親しくしているなかにいないのだ。王とか王妃とか宰相とかに息子さんのことでくだをまけるか? 無理だろ?
とうの父親――アレス辺境伯にはどうか。これも無理。なぜならこの王太子、本人にはあくまで騎士として憧れているという態度で接するから。じゃあその子供のジーシィンにも同じようにしてくれよ。
「はい殿下そろそろ休憩時間が終わりますのでお仕事ですよ」
「あぁ……」
名残惜しげに机に戻った王太子は深呼吸ひとつして、表情を切り替えた。
まあ、辺境伯であるジーシィンの父が王城に訪れていることも、久しぶりに騎士団の稽古をつけてやっている光景も、なかなか見られないものだ。そこにある感情を棚に上げれば、王太子の感情も分からなくもない。
できればそれをジーシィンの見えないところでやってくれたらいいのだけれど。
……と考えたところで、ふと、ジーシィンは、父がここへやってきたそもそもの理由を思い出した。
そういえば、もう王太子のこんな姿を見ることもなくなるんだった、と。
「殿下」
「なんだ?」
「私、次の春には近衛の任を終了しますので」
「――――は?」
ガタン。
王太子が、ペン先をつけようとしたインク瓶を机から落とした。目測ミスって払ってしまったらしい。
「うわ! 何してるんですか!」
ジーシィンは慌てて机上の書類を救出した。幸いにも書類箱に分類してまとめていたので、被害予想位置の箱を持ち上げれば、書面が黒い地獄に変わる惨状は免れる。
職人が丹精込めて造り上げた机の表面がくろぐろと染まっていくのは申し訳ないが、使っていればこういうこともあるものだ。書類の安全確保を完了したあと、懐から手布を取り出してインクにかぶせる。
残量がもともと少なかったのか、一枚の手布で充分にインクの拡散を抑えることができた。床に落ちるほどでなかったのも僥倖だ。
ふー、と安堵の息をついたあと、ジーシィンはインク瓶を持ち上げて別の手布で包んだ。インクが滲んで出てこないことを確認してから、休憩のために用意していた茶類に使った盆の上に置いておく。
あとは机を拭き上げれば、と、立ち上がった。
「雑巾をとってきま――」
「シィ!」
その腕を掴まれる。
力の強さに驚いて腕の主を振り返れば、驚愕混じりの鋭い視線がジーシィンを見据えていた。
「どういうことだ。どうして、急に。なにかあったのか」
「いえ、何もありませんよ。殿下による父上視姦プレイ以外はいたって快適に任務も日常も過ごしております」
「いいじゃないか息抜きくらい!」
「私に見えないところでやってくださったら、いいじゃないかって思えるんですけどね! いや、それはさておき」
「……なんでだ」
説明しようとしたジーシィンを遮って、王太子が距離を詰めてきた。もともと腕をとるくらいに近かったけれど、互いの吐息が触れるほどに。
「おまえは、ずっと、私に仕えてくれると」
……涼し気な超絶美形が、一転して迷子の子犬みたいな雰囲気を醸し出してきた。
実は、これも王太子の一面だったりする。それこそアレス辺境伯すら知らない、もしかしたら王も王妃も忘れているかもしれない、エイセルの姿だ。
「……おまえがいなくなったら、誰が、夜会で女性から私を守ってくれるというんだ……!」
「そういうこと言うからですよ殿下」
哀切あふれる訴えを、ジーシィンは一言で切り捨てた。うっかり半眼になってにらみつけるという不敬のあわせ技も披露した。
この完璧王太子、聞いてのとおり女性が苦手なのである。嫌いでも憎んでいるのでもないが、とにかく苦手だ。
半径どれくらいかに近寄られると冷や汗が出たり体が震えたり血の気が引いたりと忙しい。密着されると胃のものがこんにちはする。
それで公務や夜会で女性と接するときはどうしているのかというと、まずアプローチなどで接近してくる女性は近衛としてジーシィンがガードする。ダンスなどでどうしてもというときは、感情を麻痺させる魔術を自分で開発して使用していたりする。おかげさまでついたあだ名が氷の王太子。どこが氷だ人の父親に色目使っといて。
だがまあ、ある程度の距離があれば人当たりは最大に良いので、彼の評判が下がることはない。
それに女性が苦手になった原因も、だいたいの貴族は知っている。庶民だって、ほんのり伝わる噂で知っている。だから、彼のこの難を厭うような声はない。むしろ不憫に思っている者がほとんどだ。
だってこのままだと、王太子妃あるいは王妃が望めない。つまりお世継ぎ問題がめんどくさい。
現在の王の直系は王太子だけであり、王弟の第一子はまだ十歳。おおらかな国風のためか貴族たちがわやわや言うこともないけれど、できれば王太子のお子様がいてくれると安心だなー、っていう空気はあるのだ。
けれどジーシィンは、それも難しいと思っている。
……あの日。
まだ王子だった6歳のエイセルが、女性への心理的な拒絶を抱くに至った事件の渦中で、どれほど心を痛めつけられたかを思えば。――それは、たった3歳のジーシィンの記憶にも鮮明に焼き付くほど、ひどい有様だったのだから。
単純な話だ。
子供ながらも美しすぎるエイセル王子の魅力に心も理性も奪われた貴族女性が、まさかの王子拉致監禁という愚行を犯した。たまたま王城を訪れていたアレス辺境伯の子供であるジーシィンも、巻き込まれて連れて行かれた。王子の遊び相手にと一緒にいたところに、女性の息のかかったならずものがやってきたからだ。
ならずものと言っても、どうやらその界隈での実力者に金子をはたいて依頼したらしい。王宮の警備は、見事に裏をかかれた。
連れていかれた先で、ジーシィンは放置された。一緒にいたからひとり残して騒がれても困るということで連れてこられたのであって、女性はそもそもエイセル王子しか眼中になかった。
部屋の隅っこに縛られて転がされたジーシィンは、はじめのうち、猿ぐつわの中から唸ることしかできなかった。
ベッドに押さえつけられたエイセルが嘆き喚くのも、幼い手足を死にものぐるいで動かそうとするのも、そんな彼にのしかかった女性があらぬところを暴こうと彼の衣服を剥がしていくのも――――
「やめ、やめて、いやだあぁぁぁぁっ!」
エイセルこそはいつかは主として仰ぐお方だと、幼いジーシィンに父は言った。
守るべきかた。
この身を剣とし盾として、忠義を捧げるべきかた。
小さくても、ジーシィンは辺境伯の子。騎士の子だ。
王子様をまもる、騎士なのだ。
「ん――――――!!!!」
「きゃぁぁっ!?」
だからジーシィンはがんばった。
手足をしばられたままでも、背中を丸くして勢いつけて両手足揃えて飛び起きて、うさぎとびからホップステップ大ジャンプ。ベッドの上に飛びかかり、女性に体当たりを食らわせた。
「し、シィ……!」
女性の体が大きく揺れたその隙に、涙に濡れたエイセルの体にどすんと乗り上げる。
「むー、んー!」
「あ、縄……!!」
「むごー!?」
ちがう自分をどかしてにげろと言いたいジーシィンの意思は通じず、エイセルは震える手でジーシィンの戒めを解こうとしてくれた。ありがたいが、現状では悪手だ。
「この……っ!」
体勢を立て直した女性が、ジーシィンをエイセルから剥がそうとした。ちょうど、手の縄が緩んだところだった。
ジーシィンは、剥がされてたまるかとエイセルにしがみつく。エイセルもまた、ジーシィンを抱きしめた。頭の上から罵声が振る。ついでに暴力も振ってくる。エイセルが上下を変わろうと身悶えしているけれど、ジーシィンはそれを止めた。王子にそれができるだけの気力体力が残っていないことが幸いした。とうに瓦解した女性の理性が、エイセルへの執着よりも邪魔者であるジーシィンへの加害へ天秤を傾けていったことも。
……王国たったひとりの王子様には、守りの魔術がかけてある。暴力を軽減するものしかり、行方不明となった場合の対処しかり。辺境伯の愛し子も、それは同じこと。
ふたりの居場所を伝える魔術痕跡を頼りに追ってきた辺境伯と王家の手が女性と一味を捕縛するまで、ジーシィンはエイセルに傷をつけさせることなく耐え抜いた。
名誉の傷だ、と、アレス辺境伯はジーシィンを讃えた。
ジーシィンは誇らしく、涙目の父に笑いかけた。父よりもずっとずっと頬を濡らし続ける王子様にも、無事でよかったと笑ってあげた。
エイセルが女性を苦手にするようになったのは、それからだ。
母たる王妃や従姉妹たちならば普通の家族らしい距離で会話もできるけれど、手などで直接触れるには一瞬覚悟を決める必要がある。それよりも遠い関係になると、先に述べたような目も当てられない状態になってしまうのだ。
それをどうにかせねばと開発した魔術のおかげで体裁は保てているが、まさか初夜まで魔術に頼るわけにもいかないだろう。鈍った感覚で性の営みができるほど昂ぶれるとは思えない。しかも、一度契ったからって確実に身ごもれるわけでもないという問題だってある。
だから、本当に、そろそろ苦手を克服してもらわなければならない。年貢の納め時だろうとジーシィンは思うのだ。
「そうやって私が割り込むから、殿下が女性に慣れるタイミングを邪魔してるんだと思うんですよ」
「慣れなくても、どうにかなってるじゃないか」
「どうにかなってませんから……」
「それに、女性よりアレス辺境伯のお体のほうが……」
「臣下の家庭崩壊をもくろまないでください」
拉致された王子様を助けに来た一団のなかで、とくにアレス辺境伯が大活躍だったのだ。窮地も窮地でそんなヒーローを目にしたエイセルは、女性から距離をとろうとする心の動きに比例するように、ジーシィンの父に惚れ抜いてしまった。
まあ、あれこれヤバイことをつぶやいてしょっちゅうジーシィンからツッコミ入れられるアホなことをしてはいるが、エイセルなりの心の均衡のとり方だろう。そうジーシィンは判断している。
「もくろむわけないだろう、大事なおまえと大事な辺境伯のことなのに」
「そうですねありがとうございます」
棒読みで謝辞を述べて王太子を拗ねさせたジーシィンは、もうこれは仕事にならないなと執務机の傍にあるソファへ目を向けた。視線の意味を悟ったエイセルと並んで腰かける。
「それでその、殿下が大事にしてくださる辺境伯として家の都合なんですよ」
「……都合というと?」
「私もそろそろ、婿をとって後を継ぐ準備に入らなければと――」
「え」
鳩が豆鉄砲を食らった顔、とは、きっとこういう表情だろうな、とジーシィンは思った。
切れ長の目がまんまるくなると、薄い唇がぽかんと開きっぱなしになると、ここまで顔の印象が変わるものだったか。年齢よりずいぶん幼い感じになってしまった王太子に、こくんとひとつうなずいてみせた。
「婿です。これでも長子なので、後継ぎのこともありますしね。今回父が見合いの釣書をいくつか持ってきてくれたので、王都にいるうちに何人かお逢いして、気の合いそうな方と春を目処に話を進めていこうかと考えてるんです」
だから殿下もそろそろ、私を盾にするとか魔術防御とか考えずに本格的に女性苦手の攻略をですね。
ジーシィンの言葉が進むうちに、だんだんとエイセルの頭が下がっていく。こちらと向き合っていた上半身が正面へ戻り、膝に肘をつけて両手で口元を覆って俯く王太子の姿は、どことなしに痛々しい。
横顔でも分かる、きゅう、と絞られた瞳孔は、彼の受けた衝撃の強さを語っていた。絞り出すような声も、また。
「……無理だ」
「ですから、殿下もそろそろですね」
「無理だ! だって僕はシィにしか触れられないのに!」
完全に王太子のガワが外れたエイセルが、表情を歪めてジーシィンへ叫びかけた。
ぐぅ、とジーシィンの喉が鳴る。ここで仕方ないですねと言ってしまえば、元の木阿弥だ。心を強く持て。
「そうはおっしゃいますが。それは、私がこうやって近衛の姿でいるからでしょう?」
手のひらで指し示すジーシィンの風体は、定められた近衛騎士そのものだ。
長い赤香色の髪は結い上げまとめ、襟までかっちり留めた騎士服と身分に応じた階級章。室内であることを考慮した細身の剣と、小回りの効く短剣。腰から下はもちろんズボンにブーツだし、本人が申告しないかぎり女性を匂わせる要素は一切ないはずだ。
私生活ではそれなりにラフな服を着ることもあるが、王城にいる限りは王太子と逢う可能性があるので、男ものを選ぶ場合が多い。エイセルに配慮してということもあるが、剣を持つならやはりスカートよりズボンだというジーシィンの好みもあった。
「……けど、シィは女性じゃないか」
「じゃあ訊きますけどね。殿下、私の胸がたいらじゃなくなったら怖がったりしません?」
「しない!」
「これでも?」
何をするのかと戸惑うエイセルの視線を受けながら、ジーシィンは身をひねって彼に背を向けた。羽織っていたジャケットの下に当てている胸当てを外し、行儀が悪いが、シャツのボタンを開けて手を突っ込み、さらしをするする解いて引き出す。
「え、……シィ?」
背後の揺れる声が恐怖にまみれたら終わりだなと思うと少し――自分こそが恐ろしかったが、それでもジーシィンは再びシャツのボタンを留めてエイセルに向き直った。
「……」
けっして豊かではないものの、男性にはないふくらみを描くジーシィンの胸部を目の当たりにしたエイセルは、そこに視線を固定したまま硬直する。ぱちぱちと忙しないまたたきは、信じられないものを見たかのようだ。
「ほーら殿下。ジーシィンはこわい女性ですよ」
「……っ、こわく、ない……!」
ほら、と胸に添えたジーシィンの手の上に、エイセルの手がかぶさった。小刻みに震えているくせにそんな行動に出たという事実が、ジーシィンを驚かせる。
「え。がんばってますね。殿下のくせに」
「シィだから、こわくないんだ」
「とか言って手越しじゃないですか」
直に触る度胸あるんかと匂わせれば、エイセルはあっさり挑発に乗った。片手でジーシィンの手を退けさせて、シャツのふくらみに手のひらを当てる。
とくとく、と、自身の鼓動がエイセルの手のひらに反射してジーシィンに戻ってくる。シャツの中にはまだ肌着や下着的な方の胸当てもあるのだけれど、彼の体温がじわりと沁みるような気がした。もちろん震えも。
エイセルを見れば、どうだ、と、睨みつけるようなまなざしを向けられた。胸に添えていないほうの手が、退けたついでに未だジーシィンの手を握り、指をからめてほどいて、と、ふれあいを主張している。
「だいたい、手だっていつも触れてる」
「手ですから」
「ほかは、手でも無理だ。シィだって知ってるだろう」
「じゃあ今からがんばれますね?」
「無理だ」
シィじゃなければ無理だ、と、エイセルは主張する。
それでは王太子的に無理だろう、と、ジーシィンは考える。
考えて――自由な方の手で、エイセルの頭に触れた。
「あの日、抱いて守ってくれようとしてくれたじゃないですか。殿下は、強いかたです。勇気をお持ちです。ジーシィンが保証します。だからきっと、想い合うかたと出逢って触れ合って――」
「シィだからそうできたんだ」
「……」
うーん。ふたたびうつむいたエイセルから見えないのをいいことに、思いっきり顔をしかめるジーシィンである。
「それ、逆ですよ。あのとき抱けたから私しかだめなんだって思い込みじゃないんですか」
「……そうかもしれない、けど」
王太子、粘る。
いいかげんにしてほしくなってきたこともあって、ジーシィンはつい言ってしまった。
「だいたい、ほら。おっぱいなんて赤ちゃんのころにさわってるから耐性があるのでは? これで私を女性扱いして私しかだめだというのは、いささか」
「は?」
言い終える寸前にかぶさってきた低い声に、あ、とジーシィンは頬を引きつらせる。なんかつついたかもしれない。
エイセルの顔が持ち上がる。絡みつくような光を宿した紫水晶が、ジーシィンの琥珀を見据えた。握り込まれたままの手に、ぎちりとした鈍痛が生まれる。胸にあったはずの手のひらが、いつの間にか首筋を伝って頬に触れていた。
「シィだけだ」
「殿下、」
形のよい親指が、ジーシィンの唇をなぞる。
「おまえだから。シィならば、触れられる。手も、頬も、胸のふくらみもだ。さっきのように髪に触れさせるのも、おまえだから。――ああ、そうだ」
じり、と、乗り上がるように、体ごとジーシィンを向いたエイセルの重みが、ゆっくり、ゆっくり、増していく。
押されて倒れ込むジーシィンの頭の下に、エイセルの手が動いた。まとめていた髪を解かれる。編み込みのカーブがかった髪がばらけて広がれば、いっそうジーシィンの女性性が強調されるだろうに、それを見つめる瞳にはもう揺らぎがない。
……エイセルの震えが、止まっていた。
身を寄せたままソファに倒れ込んだふたりの心音は、不協和音だ。どちらも普段より早い。そしてたぶん、ジーシィンのほうが、より小刻みになっている。
ちょっと待てこのまま雰囲気に呑まれていいのかいやだめだろう。
「殿、」
「……そうだ。きっと、そうだった」
落ち着けと言いたいジーシィンが落ち着けていないせいか、声に力が入らない。反対にエイセルは、何かに納得したように静かにうなずいた。
「あのときこわかったのは、手を放せばおまえが失われるんじゃないかということ」
そうして、
「今までこわかったのは、……慣れてしまえばおまえが離れていくんじゃないかということ」
銀の髪がジーシィンの肌を撫でる。
紫水晶の瞳が、琥珀の瞳にまたたきを忘れさせた。
「――僕は、シィだけだ」
ささやく声は近く。
あの日よりも、もっと近く。
唇の距離は、そしてゼロに。
「……」
口づけのマナーのひとつは、目を閉じるものだとジーシィンは聞いた。でもそれを実践しそこねた。エイセルは知っているのだろうか。どちらにせよ、彼の瞳も閉じられてはいない。
からんだ視線をそのままに――近すぎて見えないままでも、エイセルの瞳が笑みのかたちを描いたことは、なんとなく分かった。
「……ね」
軽く触れ合ったままの唇が動くから、くすぐったい。逃れようと顔の向きを変えたくても、頭を固定する手がそれを許してくれない。
「おまえは女性で、僕のシィで、だから、僕はおまえだけに触れられればそれでいい」
再び触れ合う唇の、なんと熱いことか。
あの日と上下を逆転させた今日のこれは、なんという告白を伴ってくれるのか。
ねだるようにジーシィンの唇をつつくエイセルの舌先の意図を、知らぬふりしてしまいたい。けれど、
「あの日、こうされて、恐ろしかった。でも」
――押し負けたのか、受け入れたのか。
ほら、と、隙間なく交わされる吐息が言った。
「おまえとなら、僕は」
「……っ」
ゆるくうごめく舌の感触に眉を寄せたジーシィンに気づいたエイセルが、ふと不安げに唇を離す。
「……こわい?」
問いながらも、ふたりの間にそれ以上の距離は生まれなかった。
手を握られる。
髪を梳かれる。
足の間に割り入ってきた体は、むしろ、より寄せられる。
こわい、など。
ない、と、ジーシィンは微笑んだ。
「……あつい、です」
「……僕も」
とろりと微笑んだエイセルが、ゆっくりと唇を落としてくる。
熱を合わせる寸前に、「こわいといえば」ジーシィンはつぶやいた。ちろりと彼女の唇を舐めた男は、それで先を促す意図を示した。
「父、ですかね……」
「……ああ……」
それは、これから、こわいものだなあ。
なんて言ってこわがりながら――彼は、辺境伯を見ていた視線の熱を何倍にもしたまなざしで、口づけを受け入れる女に微笑みかけた。
◆◆
「ということになったんだがね、アレン辺境伯くん」
「わけの分からん呼び方をしないでいただきたい、陛下。構いませんよ。ジーシィンの弟がおりますので」
以上、隠密系護衛からほぼリアタイで報告を受けた王と辺境伯の会話である。
◆◆
「あーでも今から王妃系教育……やばいですぜんぜんやばいです……」
「体面が崩れない程度にがんばってくれればいいよ。うちも近隣もおおらかだから。それより、シィ」
「なんですか今まで苦手してた反動ですかそれもやばいんじゃないですか殿下」
「かもね。苦手にしていておまえまで遠ざけていた分がもったいない」
「乗っかってキスするのお好きですね」
「たぶんあの日のせいだ。いちばんこわかったけど、いちばん安心できる」
「ふふ、なんですか、それ……、ん……」
「それも、シィだから、だ」
以上、なんだかんだとまとまったおふたりの会話である。
シィと呼ばれる彼女は、彼をエルと呼びます。本文に入れられませんでした。(悔)