わたしは遊び道具じゃない
(塔子)
家賃の値下げの件が決まったら、高遠君に見せようと思って準備した資料がある。テナント料の部分を5割で計算して、完成させる。そして、拓也さんに電話した。
「もしもし」
「あの、忙しいとは思うんだけど、最後にもう一回内容見てくれないかな?」
「テナント料、決まったの?」
「まだ、契約はしてないけど、口頭で提示は受けた。」
拓也さんは、次の日のお昼、彼の会社の近くまで来てくれたらご飯食べながら見ると言ってくれた。
「本当に、こんな条件、相手にのませたの?何かの聞き間違いとかじゃなくて?だって、駅ビルのあんないい場所。」
「だめもとで言ったら、なんかうまくいった。でも、相手の気が変わるかもしれないからできるだけ早く契約しちゃえと思って。」
「一体、どんな方法使ったの?」
「え?いや、別に。」
しばらく気のせいか、疑わしい目を向けられたが、やましいことは別にないし。
「賃貸料がこのレベルに抑えられるなら、ちょっと現実的になってきたね。」
「そう?」
パラパラと収支計画を拓也さんがめくる。
「あれ、これ、既存店舗の数字が抜けてない?」
「え?」
「今のお店、閉じるつもりなの?」
「ああ、だって、コストは少しでも抑えた方がいいかなと。2店舗やるとなると、雇う人も増えるしさ。」
「あのさ、塔子さん。」
急にパタンとバインダーを閉じてじっと見られる。
「はい。」
「あの既存の店舗ってオーナーさんの持ってる物件だから家賃いらないんじゃなかったっけ?」
「え、あ、うん。でも家賃はなくても光熱費とバイト代が……」
「雑貨を100個仕入れるのと50個仕入れるの、どっちが高い?」
「100個」
「じゃ、仕入れ値を除いたコストなら?」
「それって運送費と……」
「管理費。発注、受け入れ、数量チェックとかもろもろにかかる時間×時給」
「……」
「50個と100個で仕入れ値を除いたコスト、二倍になると思う?」
「いや、それはないない。」
「じゃあ、1店舗でやる場合と2店舗でやる場合、どっちが利益率高い?」
「……」
「たくさん売れる2店舗です。中途半端な規模って一番儲からない。大きければいいものでもないけど、小さいからいいってもんでもないよ。」
「はい、すみません。」
笑われた。
「なに?」
「いや、心配だなぁと思って。」
「わたしじゃ、うまくいかないかな?」
「いや、よくわからない。」
もう、嘘でも大丈夫だよと言ってくれればいいのに。
「でも、驚いた。家賃こんなに下げさせるなんて、交渉力あるね、塔子さん。」
「そう?」
「経営って、ちまちま計算ができれば成功するってもんでもない。それにさ、一人でやるものじゃなくてみんなでやるものだからさ。下にいる人たちを塔子さんが惹きつけることができたら、きっとうまくいくよ。」
「わたしにそんな魅力ある?」
拓也さんは優しく笑った。
「さぁ、どうだろうね。」
ええ?ここは嘘でもあるよ、と言ってくれるところじゃないの?
「オーナーさんにプレゼンだっけ?がんばってね。」
「ああ、ここはわたしが……。」
伝票持ってかれてしまった。また、奢られた。拓也さん、割り勘もこっちが奢るのも嫌い。
お店の外で軽く手を振ってから、急ぎ足で会社へ戻っていく。ふと思う。こんな会社の近くでわたしと会っていて、会社の人とかに見られても大丈夫なんだろうか?まぁ、前妻とちょっと用事があってと言えば、済むのか。
会社の人は、どう思ったんだろうな。
てくてく店へ戻る道すがら思う。
急に、離婚して新しいそれも元部下の女の人と再婚した拓也さんのこと。
噂になったんだろうか。
今日2人で会っているのを会社の人が見かけて、わたしが前妻だと知っている人が見たら、どんな噂が流れるんだろう?
奥さんも子供もいる元旦那に、まだちょっかいかけている寂しい女?
どんな想像も、鈍くわたしを傷つけた。
そして、考えるのをやめた。
「あの、高遠…社長いらっしゃいますか?」
「あ、はあ。あの、どちら様ですか?」
「NESTの藤田です。」
「あ」
その若い女の子はちょっとびっくりして、動転した。その後少し持ち直す。
「少々お待ちください。」
フロアを横切って奥の方へ消える。彼女の背中を目でたどっていると、他にも3~4人いる人達の中でいちばん奥にいる女性がわたしを睨みつけていた。気のせいかと思った。でも、違う。たしかに睨みつけていた。きれいな高そうな服を着た女の人、わたしと同じくらいの年齢かも。彼女がゆっくりと立ち上がって、わたしの方へ歩いてくる。と、さっきの若い女の子がぱたんと奥の部屋から出てきて、ぱたぱたと小走りでわたしの方へ来る。
「あ、あの、社長が今手が離せないそうで、その、近くのカフェで待っていてくださいって。30分以内にはいきますだそうです。」
そう言って、そのカフェのカードをくれた。
「あ、すみません。」
きびすを返してオフィスを出ようとしたら、背中から声がかかった。
「藤田さん?」
振り向いた。さっきの女の人だった。
「あなたが、塔子さん?」
「はい。藤田塔子です。」
値踏みをするように見られた。上から下まで。
「初めまして、高遠の妻の玲子です。」
手を差し出された。きれいにネイルされた手、腕に高そうなブレスレットしてた。
「あ、どうも。初めまして。」
「いつも主人がお世話になっております。」
「いえ、こちらこそ。」
ちょこんとお辞儀した。フロアの他の人たちがちらちらとこっち見ている。奥さんはそれだけ言うと、くるりと踵かえして自分のデスクに戻っていく。わたしは、息を大きく吸った。それからもう一度まわれ右してオフィスを後にする。
高遠君は30分もしないで指定の場所に来た。
わたしの向かいに座って、盛大にため息をついた。
「なんで?」
「ん?」
「なんで、急にこっちに来るの?ていうか、俺、住所とか教えてたっけ?」
「そりゃ、こんだけ長けりゃみんな知ってるって。呼び出されたことなかったら行ったことなかったけど。」
「それにしたって、まぁ……」
両手で額をおさえて、下を向く。
「えらいことしてくれた。」
「え?なに?なんで?足を踏み入れてはいけない場所だったの?」
だったら、先にそう言っておいてほしい。
くらーい顔で顔をあげた。そんで、そのままの顔で飲み物頼んでる。
「まぁ、いいや。なに?用事あったんでしょ。」
「うん。そうなんだけど……。」
ほんとに大事な用事だったのに、出鼻をくじかれちゃった。
「実は、駅ビル、今、改装中のあるでしょ?」
「うん。」
「あそこにテナントとして入らないかってお誘い受けてて。」
「え?」
「この人なんだけど……」
手帳から南条さんの名刺を出して見せる。
「それで?」
「あの、決めるのは高遠君なんだけど、その、仮にテナントとして入るとしたらどうなるかって計画を立ててみたの。」
そう言って、傍らからいくつかのファイルを取り出す。次々と出てくるファイルに高遠君が呆然とする。
「駅ビルに入ってやるって、なに?そんな必要あるの?」
わたしは、手を止めて彼の顔をじっと見た。
こういう反応は、予測していた。彼にとっての希望が現状維持なのは、分かっていた。それは、お店も、そして、わたしと彼の関係も。
彼はもう一度ファイルの山をぼんやりと見つめていた。そして、一つを手に取って、ゆっくりと一枚一枚めくって見ていく。
「あの……」
こちらを見なかった。わたしは黙ることにした。
「これ、誰が作ったの?」
「わたし。タケコさんにも手伝ってもらったけど。」
その後、何も言わずにそのままページをめくっていく。にこりとも笑わず、目は冷たくて、まるで別人だった。再会してからずっと一度もこんな怖い顔した高遠君を見たことがない。
すごく長い時間何も言わずに一個目のファイルを見たあとで、彼は少し乱暴にそのファイルを閉じて、テーブルの上においた。
「雑誌に出たから全国から注文入るようになったって言ってたけど、それで、舞い上がっちゃったの?」
わたしが知っている高遠君は、こんなに意地悪な言い方をする人でも、こんなに冷たい目をする人でもなかった。
「これ、塔子が作ったって嘘だよね。」
それから、ファイルをぽんぽんとたたいた。
深く息を吸って一度軽く目を閉じて吐いた。ここで負けるわけにいかない。
「わたしが作りました。嘘じゃない。」
「じゃあ、誰かに教えてもらったの?こんなことしたことないでしょ?まるでそこそこ大きな会社で稟議通すための書類みたい。」
「それは、拓也さんに……」
「旦那さん?」
「うん。」
大きくため息はいて、それで、背もたれに体を預けた。わたしから顔をそらして、窓の外見ながらしばらく黙ってる。
「うちの元旦那って、ずっと小売りの仕事してて、ショッピングセンターとかスーパーとかあちこち出店する仕事とか携わってるから、こういうの得意なの。いろいろ教えてもらったの。」
「あんまり会ってないみたいだったのに、こういうときは頼るんだ。」
「ああ、それは、背に腹は代えられないというか……」
「なんで、俺じゃなくて旦那さんに頼るの?」
そう言って見られた。いつもみたいなふざけた感じじゃなくて、今日は、普通に怒っている顔をしている。こっちも思わず黙ってしまった。
「あのさ……」
膝の上にきっちりと右手と左手を置いて、姿勢を正して、高遠君のことちゃんと見た。
「わたし、本気でお店をやりたいの。ちょっと雑誌に写真が載って、それで、駅ビル入りませんかと言われて浮かれてその気になっているとかじゃありません。」
「うん。」
「大地君が日本に帰って来て、日本で家具を作って、それをわたしたちの手で売りたいってタケコさんと話してて、それがきっかけです。」
ずっと怒ってた高遠君の目に、少しいつもの色が戻ってきた。
「これから死ぬまでの間に、無我夢中になれることがほしいの。わたしもタケコさんも。それで、そのことで自分たちが大切だって思っている人のためにもなったらいいなと思ってる。」
「うん。」
「あなたにすぐに相談しなかったのは、遊びじゃなくて本気だったからです。甘えるわけにいかないから、説明する前にちゃんと判断できる材料を自分の手で作りたかったの。一人じゃやり方が分からないから拓也さんに教えてもらいました。」
「うん。」
「ねぇ、高遠君。」
この人のこと、嫌いなわけじゃない。感謝もしているし、これからもそばにいたい。だけど、何も失わないで何かを得ることはできない。
「わたしはね、あなたの遊び道具じゃない。人間なの。対等な能力のある人としては見られないかもしれないけど、でも、わたしにできる精一杯でまとめた企画、ちゃんと見て判断してもらえませんか?投資する価値があるかどうか。」
高遠君は暗い顔でテーブルの上のファイルの山を見ていた。
「塔子を失った気がする。」
「あなたは、わたしを閉じ込めておきたかったのよね。NESTという隠れ家の中に。」
「気づいてたの?」
「気づいてないふりしてただけ。ばかじゃないからわかってた。」
わたしがまともにビジネスすることなんか高遠君は望んでいない。儲かっても儲からなくてもいい。今のNESTの規模なら、赤字になったってたかがしれていて、つまり、純粋な遊びの店だった。今でも、あのお店は。
高遠君はわたしにお小遣いを与えて、わたしが喜ぶのを見るのを楽しんでいた。それが、駅ビルに入るだの、日本にも工房を作るだのいうと、もはや遊びの範囲を越してしまう。
「世間一般でいう普通の意味で、君を自分のものにできなくても、俺の出す金で店をやってる君を見ていると、自分のものだって気分を味わえた。」
そういって、テーブルの上のファイルを見た。
「俺ってさ、普段はつまんない人間なの。それこそ、このファイルの中につまっているようなさ、数字をずっと追いかけてるの。利益があるかどうかだけが大切で、あがらないものは切り捨てる。そういう日常の嫌なことを忘れるためにあるのが俺のNEST。そこに君が来て、店ではなくていつのまにか君が俺の避難所になってたんだな。それが、急につまらない方の俺の世界に来ちゃうんだ。」
そこで寂しそうに笑った。
「じゃあ、俺はこれからどこへ行って休めばいいんだ?」
「わたしが変わるのはそんなにいや?」
「塔子が変わっちゃったら、俺にはもう他に塔子みたいな女の人はいないよ。」
「ねぇ、ごめん。」
悪いと思ってる。優しさに甘えてきた身として。でも今日はちゃんと言います。
「わたしは変わらない。最初っからあなたが思ってるような藤田塔子なんていません。」
「ひどいこというね。」
「あなたがわたしの中にあなたが見たいわたしを見てきたことは知ってた。でも、わたしは、本当のわたしは、タケコさんと一緒に夢見てる。大地君の帰ってくるところを作ってあげたい。これから死ぬまでに無我夢中に生きて、それで、ああまだ死にたくないって思いながら生きたいの。」
高遠君が見てきた藤田塔子は、若い頃にたてつづけに家族や夫を失って、傷ついてきた女性。誰かが守ってあげないと生きていけない女の人。
高遠君はじっとわたしを見た。
「そうか、塔子はあれだ。あっち側の人間なんだ。」
しかめ面になった。
「なに?あっち側って。」
「俺と違うって意味のあっち側。」
「なにそれ?」
「俺が憧れるひとたち。」
一瞬言葉が出なかった。
「生きる意味を知ってるというのかな?何か必死になれる物を持っている人たち。」
「高遠君。」
「俺にはそういう魂がない。抜け落ちている。」
そう言ってふう~と長くため息をつきながら天井を見る。
「お前のことが気になって、一生懸命そばにいてさ。お前はつぼみだったんだな。これから咲くのか。」
そしてわたしを見た。手を伸ばしてわたしの髪のさきっぽに少しだけ触れた。
「お前が俺の店に来て、俺たちが再会した意味が分かった気がする。これがもしかしたら俺の役割だったのかもね。つまらない人生の中で一つだけ、与えられた生きる意味。」
そう言ってぱっと手を離した。
「一体どうして、そんなに自分の人生のことをつまらないなんて言うの?」
前から不思議に思っていた。この人の心の中が見えない。
「それは、塔子は知らないでいい。」
あっさりと退けられる。
「この規模の金動かすとなると、さすがに俺一人の一存でとはいかなくなる。儲からないってわかれば、続けられないよ。最初の3年で成果が見えないとだめ。」
「うん。」
「うちの奥さんはさ、塔子のこと敵視してるから。」
「え?」
寝耳に水だ。
「どうして?」
「愛人だと思われてる。」
あっさりと言われた。
「事実無根。」
高遠君はわたしを見た。
「ほんとかどうかではなくそう見える時点でこういうのは負けでさ。しかも、直接問いただしてきたりしたらそんなんじゃないって言えるけど、あの人はね、そういうことはしないの。」
「はぁ」
「勝手に思い込んで、勝手に思い詰めているわけ。」
「……」
「でも、まぁ、いろんなことに慣れてる人だから、どうにかなってたの。それなのに、今日、塔子が事務所来ちゃうから。」
「あ」
「あの人はね、塔子が塔子のテリトリーにいる間は別に大丈夫なの。それなのに、玲子のテリトリーに足踏み入れちゃったからさ。」
「……」
「宣戦布告を受けたと玲子は思ってる。たぶん。」
「んなわけない。」
「俺は、わかる。でも、あの人には通じない。そんで、こっからが大事なんだけど。」
「はい。」
「宣戦布告受けたと思った後に、この増資の話。」
「うん。」
「塔子が玲子にけんかふっかけてると、あの人は思う。」
「なんで?」
「お前が顔を出さなければ、俺が言い出した感じにできたのに。」
それからしばらく黙った。
「余計な仕事増やしやがって。」
「ごめんなさい。」
「あいつが反対すると結構難航するよ。うちは。」
「ご機嫌取りにいったほうがいいの?事実無根と申し開きに行くとか。」
「絶対やめて。」
それから一つ一つファイルをわたしが入れてきた紙袋にしまい込む。
「とにかく、損出さない。利益出す。儲かる。投資するのに妥当。少しでもそういう風に思わせるしかない。それ以外の要素は何も弁明しない。すればするほど蟻地獄にはまるみたいに悲惨なことになるのは目に見えてる。」
「まるで、今までにそういうことがあったみたいな口調だね。」
高遠君がこっちを睨んだ。
「誰のせいで俺が頭を悩ませると思ってるんだ。」
「すみません。」
「塔子が今やりたいと思ってること、本気なら、駅ビル入ってからがんばるなんて考えてないで、今から少しでも売り上げ伸ばせ。利益率あげろ。がんばる方向間違るな。それと、絶対にうちの奥さんに近づくな。ばったり出会ったりしないように気をつけろよ。」
「はい。」
誤解されているのが不本意です。名誉棄損。濡れ衣。高遠君はああいっているけど、女同士話せばわかるのではないか。
「うちの奥さんはお前が思うような人じゃないから。話せばわかるとかないからな。大地君日本に呼び戻してこっちで家具売りたいなら、絶対に近寄るな。」
考えてることが見透かされてしまった。ちえっ。




