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 一日は何事もなく過ぎてゆきます。誰も青年の家に隠された果実を知りません。だから,気づかずに言うのです。

 「今日はどうしたの,ずいぶんといい香りのする花を置いてるじゃない。私は,こんな香りが大好きでね――あら,どうしたんだい? ひどい顔色をしてるじゃないか! だめだよ,無理をしたら。――あんたはいつも真面目に働いてるんだからね,病気の時くらい休まなきゃ」

 青年は,普段かけられたこともないような優しい言葉にまで怯えました。当然です。それは,そのまま彼の罪を指摘する言葉に他ならないのですから。罵倒も称讃も同じです。

 果実はお日さまの光も受けず,星の輝きも待たずに,みるみるうちに赤く鮮やかに色づいてゆきます。

 萎縮しきっている青年は何よりもその異常に怯え,気づかない老人は今日も静かで穏やかでした。

 「ただいま,おじいさん!」

 隣で可愛らしい声が響き,老人の孫の少女が市場から帰ってきたことを告げました。

 少女は,たいそう美しい姿をしていました。

 「あの女性に,どことなく似ている気がする」

 青年はおそるおそる隣をうかがい,すでに見慣れたはずの少女を改めて見てそう思いあたり,なおいっそう怯えました。

 老人は,まだ日も高いというのに早くも店を閉める支度をはじめ,少女はいそいそと手伝っていました。

 青年にはまるでそれが「私だって心から花を愛し,仕事をしてきた。その私が受けるはずの祝福を横取りされてしまった。もう,何もする気にはなれない」と言っているかのように見えてしまいます。

 青年はたまらなくなって店の奥に逃げこみました。――すると,息が詰まりそうなほどの香りが青年を囲みました。

 あの果実でした。

 今や果実はひとつ残らず,まるでルビーやガーネットのように真っ赤に熟して,逃れようもなく香っていました。

 「――もう,だめだ」

 青年はうめくように呟きました。外では西の方から――まるで,この朝に西の空の下へと帰ったはずの全ての星たちが怒りの声をあげているかのように――どす黒い雲が流れこみ,この朝に溶けて消えた霧あっちが怒鳴っているかのように激しい風が吹き荒れていました。もうすぐ,嵐はくるのでしょう。

 「花は,どうしているだろう」

 ぼんやりと顔をあげて,外に出しっぱなしになっている花たちを思いました。

 「僕はもうだめになる。花たちは,――じきに,枯れてしまうのか」

 果実の移り香に染みこまれた,自分の罪に染みこまれた哀れな花たち。

「このままに,しておくのか?」

 あのかわいそうな花たちを。

「――そればかりは,できないだろう」

 それはおそらく,青年の心にはじめてきざした花への愛情だったのでしょう。

「連れていこうか」

 どこへ,とは思えず,けれど,愚かな人の罪の届かないどこか遠くへと。

 青年は何かに操られるようにして仕入れの時に使う荷車を出しました。そして花を挿した容れ物をひとつひとつ,ゆっくりと積みこんでゆき,最後にテーブルクロスで包んだバスケットを荷車の最奥に押しこみました。

 雨はすでに降りだしていました。隣はひっそりと静まり,きっとその家の中では暖炉に薪がはぜ,老人と少女が変わらずに静かに穏やかであることを願って。

 ぎしり,ときしむ荷車をひいて,青年は雨に打たれるまま歩きだしました。

 すぐ目の前の草原を抜けて――その森の奥,遠くへと。


 私は,コガラの羽根で,ただそれを見守っていました。

 きっと彼は「ここ」に来る。そんな,悲しい予感にも似た思いで。



 雨は,森にもあふれんばかりに降りました。

 その中を,彼はやって来たのです。

 ここに,辿り着いたのです。

 罪に汚れた人間として,ここに。

 だから私は,こう言いました。声の言葉のかわりに,葉を揺らして。

「おかえりなさい」



 すでに彼は,人とも思えぬありさまでした。

 彼はその時まだ若かった私を仰ぎ,「ああ……」とため息をもらして,その傍らに手をつきました。

 穴を……大きな大きな穴を掘るために。

 私はそれを,黙って見守っていました。


 やがて穴は広く深くなり,彼はゆらりと立ちあがりました。

 荷車におぼつかない足どりで近寄り,花の挿された容れ物をひとつ取りあげて強く抱きしめ――その腕は小刻みに震えていました――そうしてから,静かにその容れ物を穴へ落としました。それを,繰り返しました。荷車の花がすべて穴におさまるまで,最後に,果実のバスケットを押しこむまで。

 雨はとどまらずに穴にまで流れ,花をしんなりと輝かせます。

 青年は放心したようにその輝きを見つめたあと,穴の傍らに積みあげられている土をかぶせはじめました。

 彼のくちびるは,もしかしたら何か言葉をつむいだかもしれません。

 私はそれを,黙って見守っていました。


 そしてすべてが終わった時,青年の体はその傍ら,私の根元に,重い音をたてて倒れました。

 「愛しい」――そう思いました。


 悲しい。




 街のはずれでは,ひとりの少女がひとつの決意をしていました。

 「枯れない花を,探しに」


 悲しくならない花を,探しに。


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