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 その畢わりを誰ひとりとして見たことのない,果実。それを人は魔法という不思議でくくり,おさめてしまいました。

 不思議ならば,それが意味となる。魔法ならば,人の手に負いようながいと言い切って,無力を決めこんで,そうして目を瞑ることで,与えられたそのものに「何を求められているのか」を考えずに済ませられる,と。

 与えられたそれを楽しめること。それはそれで素晴らしいことでした。彼らは,間違ってはいません。

 けれどもそれは,それを侵してでもそれの意味を引き出そうとする,傍若無人ともとれる行為の前では,盲目をまとう愚かにすぎなかったのです。

 かつてある花屋が禁忌を犯しました。犯したと,言い伝えられました。彼のしたことは,確かに罪だったのでしょう。ですが,私にとっては,彼はけっして汚くはなかったのです。

 彼は,考えてしまった。考えて,消えてしまった。――この森に,果実の中で芽吹く時を待つ私たちを置いて,むせかえるような香りの中で。

 数十年を経て,コガラの伝える羽根は,それが再び巡ってくることを私に告げました。

 それこそ,汚い罪として。



 ……その街には,花があふれていました。

 そうしてここには,そんな街ならではの言い伝えがあったのです。

 新しく星が生まれる夜,それを迎えた朝に,ひとりのおばあさんが新星への祝福として,星明かりが世界中で一番早くに届くこの街に持ってきてくれるという,果実。

 それは,魔法の果実でした。

 青々として澄んだ碧色の果実が,窓辺に飾っているうちに――お日さまに可愛がられ,星に夜毎いろいろな世界の物語を教えられているうちに,ゆっくりと赤みをおびて――最後に,笑うようにはじけて消える。

 ……そう,あるいは子どもたちの,甲高い言葉以前の笑いのように。何か内側に嘲るように響く悲鳴のようにもとれる,喉につらい笑いのように――その果実にこめられているかもしれない,新星の産声かのように。

 果実はいつしかはじけて,目を瞑った人たちの誰に見留められることもなく,消えてしまって,ただそればかり。いつの間にかはじけて,あとに残るのは,ほんのりとした優しい香りだけ。

 はじけて,何も残らないので,やがて人はこう言うようになりました。

 「その瞬間を見た者は,そのあまりの美しさに,魂ごと死んでしまうんだ」




 「ただいま,おじいさん」

 クラリマが帰ると,まだ日も高いというのに,もう老人は店を閉める支度にとりかかっていました。

 「ああ,おかえり。疲れたろう,あっちへ行ってお茶でも飲んでおいで」

 「ううん,手伝う。――でもどうしたの,おじいさん? どこか具合でも悪いの」

 クラリマが柔らかい薄青のエプロンをつけながら店先の老人に声をかけると,「いや,どこも悪くはないさ」と声がかかってきました。「今日は,ひどい嵐が来そうだからな」

 「そうなの?」

 「ああ。――クラリマ,あっちの鉢植えを先に入れてやっておくれ。さっきから,どうも不安でしかたなさそうにしているからな」

 老人が指さした方には,クラリマの愛らしい手のひらに収まるほどの,これまた愛らしい鉢植えが,飾りのないテーブルに並べられていました。天気のいい日にはいつもそのテーブルで,老人とクラリマと,そして愛らしい鉢植えの花たちと午後の日射しを楽しむのです。

 「そうね,何だか元気がないように見えるわ。おじいさんがそう言うと」

 頷いて,花たちに「もう大丈夫よ」と囁きかけながらひとつずつ大事そうに運んでゆくクラリマは,まるでままごと遊びから抜けきれていない子どものようで,そんなあどけない少女を見守りながら,老人は老人の仕事をしていました。

 やがて西の方から大理石のような色合いの雲がにじみだし,温かく湿った空気を押し流すような風が吹きはじめたころには,花はすべて入れられて,老人はクラリマのいれてくれたお茶を飲みながら休んでいました。

 「おじいさんみたいに毎日空を見ていたら,こんなふうに空がわかるようになるのかしら」

 クラリマは時折そんなことを思ってみるのですが,何かが違うようにも思いました。なんとなく,おじいさんの「見る」とクラリマの思う「見る」というのは,同じ「見る」ではないような。

 「だったら,どんなふうに見れば,おじいさんのように空を『見る』ことができるようになれるのかしら?」

 そして,そのたびに,クラリマはそう思うのです。その答えはいまだに見つからないままでしたが。



 クラリマには両親の記憶はなく,憶えているかぎりの昔からおじいさんと一緒でした。まるでおじいさんそのものが一本の木になったかのようにして他の花たちとすごす,その様子を見ながらクラリマは育ったのです。その穏やかな日々を,クラリマは心細いともつまらないとも思ったことはありませんでした。

 クラリマは毎日のように花をつんできては飾り,おじいさんは毎日のように花と空を「見る」のです。

 そうやって今までは流れ,少女は,日々はただそうして穏やかに横たわって,人はその周りをとめどなく,せわしなく,おっとりと,急ぎながら,ためらいながら,それでも動いてゆくものなのだと,思っていたのです。ただ,それはあまりにも漠然とした思いで,その思いが少女を前へと押し出すことはないままでした。

 ですからクラリマはそのままで,この日の夜も,暖炉の傍でおじいさんに今日あったことを楽しそうに話して聞かせていました。

 その中で,あの魔法の果実のことが出てきたのは,ごく自然ななりゆきでした。

 「おじいさんの果実ももらってきたのよ。どこに飾るのがいいかしら?」

 おじさんは,はしゃぐクラリマの頭を優しくなでながら,「ああ,それならクラリマ,お前さんの部屋の窓辺がいいだろう。あそこは,お日さまの昇る道に一番近いからな」

 「そうするわ。でもおじいさんにも楽しんで欲しいわ。――そうだ,あたしが毎朝と毎晩,おじいさんに見てもらえばいいわ。ね?」

 「そうだな,そうしておくれ」

 「ええ。……でも,どうしておじいさんのお店にはおばあさんが来ないのかしら? おじいさんはこんなにお花を大切にしているのに。それとも,おじいさんのところにはもう来てしまったの? あたしが生まれるより,ずっと昔に」

 「いや,お前の誕生を待たずに来るなんてこと,ありはしないさ」

 おじいさんは,皺だらけの顔に優しくも深い笑みを刻んで答えました。

 「きっと,これから来るのさ。お前が,それを見つけるんだよ」

 「星の生まれた綺麗な朝に?」

 「そうだとも,クラリマ」

 無邪気な少女は,ぱあっと顔を輝かせました。「おじいさんと一緒にね!」

 おじいさんは深い深い笑みをたたえ,けれども言葉は返さずに,ただクラリマの頭を撫でていました。



 雨は長く降り続けました。朝が来て,夜を迎え,そうしてそれを二回繰り返しても雨はやまなかったのです。

 クラリマは朝が来るたびにがっかりしました。こんなに雨が降っていては,果実は熟すこともないままに腐ってしまうかもしれません! 事実,果実は碧色のまま,赤みをおびるどころか香りのひとひらさえも漂わせてはくれずにいたのです。

 それに,こんな天気では草原に花をつみに行くことさえもできないのです。これには,一番困りました。

 今までは気づかずにいたのですが,花は次から次へと開ききって,そよ風さえ吹かない部屋の中でも,はらはらと色あせたはなびらを落としてゆきます。それは,枯れるより早く,毎日のように新しい花の一番の輝きばかりをつみ集めてはちりばめていた幼い少女の心に,あまりにも無惨にうつりました。

 クラリマは,今まではただ花の色鮮やかさと気持ちのよい香りにはしゃぐばかりだったのですが,この雨の続く中で,はじめて花を悲しいと思うようになりました。本来ならば,花はいつか散り,そして後には種子の実りを迎えるのですが,クラリマの部屋いっぱいに飾られたこの花たちは,一番の輝きのすべてを少女の瞳にうつして,その部屋が世界のすべてだったのです。そんな花たちにミツバチの訪れはなく,したがって実りもありませんでした。おそらくは,それが花にとって何よりも悲しみなのでしょうが,かわいそうなクラリマは,それさえ知らなかったのです。

 おじいさんは,花を愛する花屋です。けれども,クラリマには花について何ひとつ教えてはいませんでした。

 なぜでしょうか? 花を愛しながら,なぜこの老人は花をかたっぱしからむしる少女の残虐をそのままにしていたのでしょうか。私にはわかりません。わかるのは,それでも老人はけっしてクラリマを愛していなかったわけではないということだけでした。

 五日経って,それでも雨はやみませんでした。かわいそうなクラリマの部屋の花は,すべて枯れてしまいました。

 「おじいさん,どうして? どうしてあたしの部屋の花はみんな綺麗でいられなくなってしまったのかしら」

 ぱちぱちと音をたてる暖炉の傍で,ひざを抱えて座りこんだクラリマが独りごとのように呟きました。

 「しかたないんだよ,クラリマ。花は枯れるんだ」

 おじいさんがクラリマの悄然とした横顔を見つめながら答えました。その静かな言葉は,クラリマに大きな衝撃をあたえました。

 「枯れる?」

 「そう。花はいつか必ず枯れてしまうんだ。お前さんの部屋の花のように」

 「枯れる――なのに,そんなものを街の人たちは愛しているの? どうして?」

 「枯れることを知っているからだろうよ。花は何より綺麗だろう,クラリマや?」

 「あたし,わからないわ」

 幼い心の少女は,言いきって立ちあがりました。

 「わからないわ。――今まで,ずっと綺麗だと思っていたわ。でも今はわからない。だって花は悲しいんだもの」

 おじいさんは,それには何も答えませんでした。クラリマは,立ちあがった時に肩からすべり落ちショールも拾わずに居間を出て,自分の,今では色彩をなくした殺風景な部屋に駆けこみました。その部屋は暗くてうっすらと寒く,クラリマは自分が荒野か冬の夕暮れの森に迷いこんだかのような寂しさを感じて身震いをし,両腕で自分の体を抱きしめました。

 「――行かなきゃいけないわ」

 たったひとりの部屋にこぼれた呟きは,まるで自分自身に暗示をかけるように響き渡りました。

 「行かなくちゃならない。――あたしは,探しに行くんだわ」

 言葉にしてはじめて「あたしはそう思っていたんだ」と気づかされたクラリマは,暮らし慣れていたはずの,今は変わり果てた部屋にぼんやりと視線をさまよわせました。

 その先には,枯れ果ててしなびた灯心草がみじめな束になって,あいかわらず青々と美しいままの果実の傍に横たわっていました。それは何ともいえず,儚く哀れな姿でした。

 「あたしは,探しに行くのよ,――この雨さえ,やんだら」

 枯れない花を。

 少女の最後の呟きは,突然勢いを増した雨の,窓に打ちつけられる音にかき消され,どこかに溶けて消えました。



 雨は長いこと降り続けました。市場は何日も開かれず,街はかつて滅んだ文明を思わせるがごとく,ひっそりと静まりかえっていました。この雨には,誰もが困り果て,誰もがうんざりしました。

 そして,たったひとり,この雨に怯えて,ついには耐えきれず雨の中に逃げだした人がいました。

 それは,老人とクラリマの隣に住んでいる花屋の青年でした。

 青年は,魔法の果実がつまったバスケットをその震える腕に隠していました。


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