旅立ちの朝
14年後のザクセンス王国です。
リュックサックの留め金をかけると同時に窓の外から声をかけられた。
元気のよいフィーネさんの声が早朝のエッバベルクに響いている。
「ハルト君、準備はできたの?」
「はい。もう終わりました。すぐに行きます」
僕も窓に向かって大きな声を返す。
「それじゃあ私はバイクのところにいるからね」
フィーネさんはアンスバッハ子爵家の家令をしていて、母上の重臣の中でも古株の一人だ。
今年で32歳になるというのにとっても若々しく見える。
しかも身長は12歳の僕よりも低い。
でも、そんなことは口が裂けても言ってはならないことだった。
だって本人は背丈にすごいコンプレックスを持っているようで、フィーネさんの前では身長とおっぱいの大きさの話は禁物なのだ。
もっとも、僕はあと数日で13歳になるし、同年代の友人の中では特に背が高い方だから仕方がないとも思う。
きっと父上も母上も背が高いからだろう。
母上の名前はクララ・アンスバッハ。
アンスバッハ家の現当主であり、エッバベルク、バッムス、カッテンストロクトの三領地を治める地方貴族だ。
父上のコウタ・アンスバッハは入り婿であり、異世界人だったりもする。
そして僕の名前はラインハルト・アンスバッハ。
アンスバッハ家の一人息子であり、ザクセンス人と日本人のハーフだ。
顔立ちは母上によく似ていると言われるけど、どことなく犬っぽい顔をしているらしい。
これは父から受け継いだ特性なのだろう……。
本名はラインハルトだけど皆は僕をハルトと呼ぶことが多い。
父上が僕のことを「春人」と呼んでいたからみたいだ。
母上は武芸百般の強者であり、厳しさと優しさを兼ね備えた立派な貴族だ。
父上は……なんというか、母上の家臣みたいなことをしている。
いくら入り婿でもあの態度はどうかと思ってしまうのだが、本人たちはとても幸せそうだし、夫婦仲も悪くない。
いや、むしろ良すぎるくらいなのかもしれない。
だけど、一見しただけでは夫婦というよりも主人と従者に見えてしまうこともあるから、息子としては複雑な気持になってしまう。
もっとも、二人きりの時は母上が父上に甘えているのを何度か目撃したこともある。
「割れ鍋に綴じ蓋」「蓼食う虫も好き好き」というやつなのだと吉岡のおじさんも言っていたし、僕も母上恋しさに父上に嫉妬する年じゃない。
吉岡のおじさんというのは父上の親友で大賢者ヨシオカ様のことだ。
今は世界を放浪していてどこにいるのかもわからない。
「運命のエルフを探しに行く」と言って出かけたまま二カ月がたったけど、あの人のことだから大丈夫だろう。
「ハルト君、ま~だ~?」
いけない。
物思いに耽っていてフィーネさんのことを忘れていた。
「ハルト、いきま~す!」
こういう返事の仕方をすると吉岡のおじさんやゲイリーさんがやたらと喜ぶんだよね。
なんでだろう?
荷造りの終わったリュックを肩にかけて部屋を見回した。
忘れ物はないはずだ。
僕は今日から王都ドレイスデンへ向けて旅立つのだ。
普段は父上のポータルでしか行ったことのない王都だけど、今回はバイクと馬車と船を使った旅を許された。
どれだけこの日を待ち望んだことだろう。
僕はこの春から王都の学園へと入学を許された。
その入学式に合わせての旅が今始まろうとしている。
表に出る前からけたたましいエンジン音が聞こえてきた。
CRF250L それがフィーネさんの愛車の名前だ。
小さなフィーネさんが乗ると非常に心許なく見えるのだが、本人は一向に気にしていないし、非常に上手に乗りこなしている。
「若! お気をつけて!」
エゴン爺やとユッタ婆やがエンジン音に負けないくらいの大声で見送ってくれた。
二人ともだいぶ年寄りだけど元気そのものだ。
これだけの大きな声を出せるのだからまだまだ長生きしてくれるだろう。
「行ってきます。二人とも達者でね!」
ヘルメットをかぶりフィーネさんの後ろに座る。
「ほら、ちゃんと掴まらないと危ないですよ」
そうは言われても昔みたいに無邪気に抱きつけないよ。
遠慮しながらフィーネさんの腰に手を回した。
うん、また少しだけ太った気がする。
フィーネさんはザクセンス新聞に美食コラムを書くほど食に精通しているのだ。
この新聞は父上と吉岡のおじさんが創刊したそうだけど、今はビアンカさんという女性が主筆をしている。
編集長のホルガーさんをはじめ新聞社の人々にはいつもよくしてもらっているんだ。
フィーネさんの美食コラムは非常に人気があり、近々記事をまとめた本を出版するというのだから、少しくらい太るのも仕方がないかと思う。
フィーネさんはある一定以上太ると山に籠って狩りをする。
そうやってかつてのスタイルと猟師としての鋭い感覚を取り戻すそうだ。
バイクはエッバベルクからカッテンストロクトへの道を進んだ。
この道は吉岡のおじさんの土魔法と父上のスキル「硬質化」で整備がされていて非常に走りやすい。
北の大都市であるブレーマンまではずっとこの状態でラインガ街道よりも状態がいいのだ。
「はあ~、クララ様が羨ましい。今頃日本で美味しいものをたくさん食べているんだろうなぁ……」
インカムからフィーネさんのため息が聞こえてきた。
母上は今、父上の故郷である日本国を初めて訪問しているのだ。
父上と吉岡のおじさんが大天使セラフェイム様との約束を果たしたご褒美として、母上を異世界へ連れていく許可をお与えくださったそうだ。
本当は僕も異世界を見てみたかったけど、世界の壁を超えるのはかなり特別なことなので許されたのは母上だけだった。
ちょっと残念だけど、母上と父上がいない間に羽が伸ばせるという思いもある。
父上も母上も大好きだけど、そろそろ親が煩わしくなる年頃でもあるのだ。
王都の学院に入学する時期としては最高でもあった。
二時間もかからずにカッテンストロクトに到着した。
ここはフィーネさんの生まれ故郷でもあるが、家族は誰も住んではいない。
フィーネさんのご両親は王都のアンスバッハ邸で使用人をしているし、弟のエッボさんも臣下の一人で今はバッムスの代官であるレオさんの補佐をしていた。
母上は、いずれエッボさんにカッテンストロクトの代官になってもらうつもりでいるようだ。
「少し寄るところがあるから」
フィーネさんは神殿へと向かった。
きっとシスター・エマのところへ向かうのだろう。
シスター・エマは神殿の修道女で僕の生まれる前にカッテンストロクトの村へ移り住んだそうだ。
もともとは王都在住のお嬢様だったという噂だけど詳しいことは知らない。
普段はとても質素な暮らしをしていて、村で自給自足の生活を送っている。
まだ小さい頃「一人で暮らしていて寂しくないの?」と聞いたことがあるが、シスターはにっこりと笑って僕の頭を撫でてくれただけだった。
「エマさん!」
フィーネさんが声をかけると小さな畑を耕していたエマさんが振り返った。
「あら、フィーネさん。それにラインハルト様」
エマさんはフィーネさんより年下なのだけど、年齢より少しだけ疲れた雰囲気があった。
「エマさんはまた痩せたんじゃないですか? ちゃんと食べなきゃだめですよ」
「日々のご飯は美味しくいただいていますよ。フィーネさんこそ少し貫禄が出てきたのでは?」
「うっ……」
二人は昔馴染みらしく砕けた口調で会話していた。
「畑仕事ですか?」
「ええ、先日突然にヒノハル様がおいでになって『種まき』をしてくださいました……。きっと豊作でしょう」
エマさんは微笑みながらも悲しそうだった。
まるで優しくされることが苦痛であるかのように……。
「ラインハルト様はこの春から王都の学院でしたね。しっかりと学んでください」
「はい」
フィーネさんはエマさんに一冊の本を渡していた。
「これ、コウタさんに頼まれたの。エルメ伝の聖典だよ」
「まあ、これですべての聖典の出版が完了したのですね」
「うん。エルメ伝はザクセンス語版がなかったからコウタさんが一人で翻訳したから、かなり時間がかかったみたい」
父上は凄い人だというのがみんなの意見だ。
それは理解できるんだけど、僕にとっての父親像というのは母上の尻に敷かれ、のほほんとしていてオナラが臭く、人が良くて、騙されてばかりいるというものだ。
母上に言わせるとあれは騙されているフリをしているだけだそうだけど本当かな?
「旅をすればそれまで見えなかったものが色々と見えてくるものです。私もそうでした。この旅がラインハルト様の見聞をきっと広めてくれるでしょう」
エマさんが少しだけ遠い目をした。
なぜだろう、その瞳が一瞬だけ南国の海のように見えたのは。
「それじゃあエマさん。帰り道にまた寄るから、お土産をたのしみにしててね」
「ありがとうフィーネさん」
「コウタさんが帰ってきたら私も王都へ行くけど、ペーテルゼンのご実家に手紙とかあれば言付かるよ?」
エマさんは静かに首を振った。
「もし、ハンスに会うことがあればこの薬草を渡してください。私が庭で育てたものです」
「わかった。久しぶりに古巣にも寄ってみるよ」
ハンスさんは王都警備隊の中隊長をしている人だ。
母上や父上、フィーネさんもかつては軍務で警備隊に所属していて、その時の知り合いらしい。
エマさんとも親交があったようだ。
僕らはエマさんに別れを告げてカッテンストロクトを後にした。