5.帝国の側室制度
婚約破棄がなくなってから、悪役令嬢のマルグリットと二人きりで会うことは極力避けていた。
失恋した彼女にかける言葉がわからないからだ。「残念だったわね」とでも言えば、一時的に優越感に浸れるとは思うが、それが正解だとは思えない。
それなのに、距離を保っていたのに付き合いで呼ばれた立食パーティーで出くわしてしまった。
「マルグリット……」
「ヴィオラ」
私の姿を見つけると、マルグリットはヒールの音を響かせながら近づいてくる。
(うっ……!)
完全にロックオンされた。くりんとカールした長い睫毛にエメラルドのような翠の瞳。あまりにも目力が強くて、その場から離れることを許してくれない。
マルグリットは目の前に立つと、瞼をそっと伏せて口を開く。
「……飲み物がなくなっているようだけれど、さっぱりする物でも用意させましょうか?」
気づいたらグラスは空になっていた。
「いいえ、自分で頼みますわ」
ボーイに声をかけて、お盆に用意されているジュースを適当に選んで手に取る。
マルグリットが指先でゆっくりとグラスを傾ける。リンゴジュースなのにアルコールを飲んでいるようだ。
優美な姿に見とれそう。いやいや、正気に戻れ、私。
「レオン様の婚約者という立場は非常に名誉ですけれど、強い心を保つ必要があると思いませんこと?」
「強い心……」
婚約者に決まった時点で覚悟は決めている。
だけど、わざわざ強調して言ってくるのには何か裏があるのではないか。無意識に疑ってしまう。
「聞くところによると、皇族には側室制度があるらしいわね。私でしたら他の方が寵愛を受けてしまわないか、不安で毎日眠れないかもしれませんわ」
マルグリットは繊細な透かしの入った扇で顔面を隠して、よよよと泣き崩れる真似をする。
(側室制度! ……そんなこと聞いていない!)
ショックを隠しきれずに言葉を失いそうになる。
マルグリットは扇を少し下ろして口元だけを隠す。
「寛大な心をお持ちのヴィオラがレオン様のお側にいると思えば安心ですわ」
扇の隙間から、赤いルージュを引かれた唇がニッ引き締まったのは見逃さなかった。
単純に心配されているわけではない。明らかに嫌みだ。
「……安心して見守っていただけるように努力いたしますわ」
挑発の乗ったら負けになる。笑顔でマルグリットを見返した。
私の反応が気に入らなかったようで、扇をパタンと閉じてキッと睨み付けてきた。
「皇太子の一番でいられるように、せいぜい頑張ってくださいませ」
順調な婚約生活に嫌みの一つでも言いたくなるのだろう。
マルグリットは思い出したように「大臣に挨拶してきますわ」と言って他のテーブルへ歩いていく。
緊張感から解放されると、我に返った。
ちょっと待って。側室制度があるなんて知らないのですけれど!
◇◇◇
結婚前のフィヨール家は慌ただしい。嫁入り道具としての衣装や宝石類を揃えるために、呼び寄せた商人が毎日出入りをしている。
そんな合間を縫って、レオンの母親――皇后との親交のある私の母親に結婚生活について聞こうとしたら、天然な母親は何を勘違いしたのかニンマリと笑う。
「ヴィオラらしくいればいいのよ。あとはレオン様が何とかしてくれるから」
まるで初夜のアドバイスではないか。私は知りたかったのは皇太子妃としての心構えについてなのに。天然は筋金入りのようだ。
「そういうことじゃなくて、皇后様の婚姻したばかりのときの出来事を知りたかったの……」
私の母の若き頃はたいそう美人で社交界の高嶺の花と呼ばれていたらしい。そんな彼女のハートを射止めたのは侯爵家のルードリフ。
名前が周知されていなかったため、誰かと噂になったという。公爵家に次ぐ身分の出だったが、 周囲の美男子に埋もれて完全にノーマークだった。よく眺めれば、優しげな顔立ちで包容力があるように見えなくもないが、今では恰幅の良い体からは見る影もない。
「どうしたの? まさかのマリッジブルー?」
母親は心配そうに紅茶の入ったティーカップをソーサーに置く。
無意識に溜め息をついていたらしい。
「ううん、そうじゃないの。側室制度があるなんて聞いて驚いてしまって……」
「あら、知らなかったの。私の世代では、皇帝の男子がなかなか産まれなくて、側室を迎えるなんて噂が立ったことがあるわ。わりと有名な話だったかしら……。結局、数ヵ月後には男の子――今の皇太子を出産されて、その話はなくなったのだけれど」
「そうだったのね……」
「その心配は時期尚早ではないかしら。時代も変われば制度も変わるものよ。心配しすぎると次に進めなくなっちゃうかもしれないわ」
◇◇◇
「レオン、聞きたいことがあるの」
「どうした?」
分厚い本に栞を挟んで、レオンは顔を上げる。
今さら聞くのも恥ずかしい。けれど、聞いてみなくては。不安を少しでもなくすために。
「わ、私の好きなところを教えてくれませんか」
緊張して噛んだ。
おや、とレオンは不思議そうな表情を浮かべる。
「毎日、君のすべてが好きだよ、と伝えていたはずなのに伝わっていなかったのかな?」
流し目をするレオン。
こんなイケメンがいたら、女性なら誰でも好きになってしまう。好きなんて囁かれたら天まで昇る気持ちになるだろう。
「レオンはずるいです。すべてが好きと言うのではちっとも答えになっていません。とぼけていないで教えてください」
心を鬼にして、むくれたふりをする。
レオンは私を落ち着かせるために、「わかった」と言って優しく肩に触れてくる。
「それなら、平等にお互いの好きなところを言い合うのはどうだろうか」
「……そうね」
レオンの提案に、私はこくこくと快諾の頷きをする。
見つめ合うと心地よい低音で呟いた。
「ヴィーの笑顔が好き」
「私もです……」
レオンの周りまで暖かくするような笑顔を思い浮かべて、気づいたら返答していた。
「ヴィーの真剣な顔が好き」
「わ、私もです……」
剣の模擬戦で、体格差のある相手を速さで圧倒しているときのレオンの厳しい視線。何度見ても初恋のようなトキメキがぶり返してしまう。
「ヴィーが俺の家族に会って、必死に話しているけれど挙動不審なところが好き」
「私も……って! それって好きなところなの?」
「……ずっと『私も』って言うから。たまにはヴィーからも言おうね?」
軽く叱るように、でもどこか楽しんでいるかのようにレオンは言う。
「えっと……」
期待の込められた碧い瞳で見られると、顔面に熱が集まってきた。待って、ハードル上がってない?
「いつも私のことを気にかけてくれるところが好き。家族での食事会でも、レオンが事前に家族の好みを教えてくれて安心して過ごせたよ」
言葉にしてみると、胸の中に暖かいものが落ちてくるような気がした。
「ありがとう」
「こちらこそ、いつも感謝しているわ」
綺麗な顔が近づいてきて、頬に軽くキスをしてくる。
「……レオンの言う番よ」
さら、と動く金髪は太陽の色を映したかのようだ。
レオンは「そうだったかな」と言って、目を泳がせる。それでも口元に手を添えるのは、深く考えるときの手ぐせだ。
「婚約を破棄するかどうかの話し合いのとき、ヴィーが俺に素直に謝ってきたことに好感が持てた。貴族の人が自分に非があっても謝らなかったり、お金で解決する場面を見てきたからかな。俺の妻にするならこの女性しかいないと思ったよ」
「ほ、ほんとに? ありがとう……あっ」
強く抱き締められると、胸が圧迫されそうになる。
「ごめん。あまりに可愛くて、つい力が入っちゃった」
体を離すと、レオンは私の顔色を伺ってくる。
「もしかして、側室の制度があると知って不安になった?」
「う、うん……」
言い当てられたことに驚く。いつも私のことを本当によく見てくれる。
「ヴィーとマルグリット令嬢が話しているのを見た人から話を聞いた。……確かに側室の制度はあるけれど使わない。俺にはヴィーだけだ。他の女性を娶ろうなんて考えられないよ」
言い切ってもらえたことが嬉しい。
「……子どもができない場合もあるから、約束なんてしなくてもいいのよ」
「子ども、ね。いざとなれば、姉の子どもを養子に取ることも可能だから、ヴィーの心配することではないよ。たとえ周りからの圧力があったとしても俺が何とかする」
だから心配しないで、と笑った。