月下の約束
「あのバカッ! あのバカッ! あのバカッ! 信じらんない! ほんっと最低ッ!!!!」
肩を怒らせ風を切り、麗羅が夕闇に沈んだ渓谷をあてどもなく突き進む。
その目から零れる涙の理由すら分からないまま。闇の奥へ誘われるように。
『麗羅、離れ過ぎだ』
『ここは嫌な気配がする。早く戻った方がいい』
「うるさいッ! アンタたちは黙ってて!」
式神の狐たちが炎となって麗羅の周囲を照らすが、それすらも鬱陶しそうに跳ね除けて。麗羅はさらに闇の濃い方へと進んで行こうとしたその手を、
「それ以上は行っちゃいかん」
晃助の皺だらけの大きな手が掴んだ。
「嫌っ! 離して! 離してよ!」
「しっかりせんかッ! 前を見ろ!」
「っ!?」
晃助の叱咤に我に返れば、その先に足場は無かった。
底の見えない深淵が口を開いて目の前に横たわっている。
「そんな、さっきまではちゃんと……」
「心の弱った人間に幻を見せて闇へ誘い食っちまう。アレはそういうもんだ」
ゴォォォ……と、大地の裂け目から風鳴りの音が響く。
その音はどこか悔しげに唸る怪物の声のようで、麗羅は背筋がゾッと寒くなった。
微かに振える麗羅を横抱きに抱きかかえ、近くの石柱の上へと飛び乗った晃助は、口ひげを軽く撫でつつ空を見上げて「ほぅ」と息を吐く。
「……さっきはすまんかったなぁ。晃弘があんまりガキっぽいから、ついつい面白くてからかい過ぎちまった」
返事は無かった。
やれまいったなと頭をガシガシと掻いて、晃助はまた一本葉巻を取り出して火をつけ、その場にどっかりと腰を下ろす。
「……どれ、落ち着くまでここで少しジジイの昔話でも聞いてくれや」
膝を抱えてうずくまる麗羅に聞かせるように、晃助は訥々と昔のことを語り出す。
「あれは、俺がまだ二〇歳かそこらの頃だった────……」
☆
俺にはよ、幼馴染がいたんだ。もちろん女だぜ?
ガキの頃からなにかと顔を合わせりゃ喧嘩ばっかしてたっけなぁ……。
小百合ちゃんっつう、色白の美人でなぁ。
昔っからどうにも犬猿の仲っつうか、喧嘩ばっかしてたんだが、お互いそれが不思議と心地よくてよ。
ちょうど今のお前たちくらいの頃には、自然とお互いに意識するようになってた。
俺たちとは違って家同士の仲は良かったもんだから、自然と結婚の話も持ち上がってよ。今じゃ考えられねぇかもしれねぇが、まあそういう時代だったのさ。
けど、戦争が始まって、俺は兵隊として南の島へ駆り出されちまった。
結局戦地に向かう前夜に大喧嘩して、喧嘩別れのままでな。
そんでまあ、どうにかこうにか生き抜いて、戦争が終わって国に帰れることになったわけよ。
……そしたら、何にも残っちゃいなかった。
家も、家族も、小百合も。みんなみんな、瓦礫の下で燃えちまってた。
俺ぁ唖然としたよ。
何のための戦争だったのか。これじゃあ、生きて帰ってきた意味がねぇじゃねぇかってな。笑い話にもならねぇ。
まあ結局、その後随分と長いこと独身のままフラフラ生きて、晃弘の婆さんと出会って結婚したわけなんだがな。
それでも後悔しなかった日はねぇんだわ。
どうにかして、小百合を救う道はなかったのか。
アイツを幸せにしてやれる道が、もしかしたらあったんじゃねぇかってな。
今のお前たちを見てるとよぉ、まるであの頃の自分たちを見てるみてぇで、ほっとけねぇんだよなぁ。
もう少し素直になってたら、違う未来もあったかもしれねぇって、思わずにゃいられねぇんだ。
特に晃弘の野郎は昔の俺にそっくりだからよ。
こっ恥ずかしくて本当の気持ちなんざ言えねぇし、自分でも気付かないフリして誤魔化してやがんだよ。
今までずっと喧嘩ばっかしてきた相手を、そういう目で見るのが恥ずかしいやら、照れくさいやらでな。まあ、ガキなんだわなぁ。
そんなわけだから、アイツの言葉は全部、好きの裏っ返しなんだわ。
だからよ、バカで素直じゃねぇクソガキだけど、アイツのことあんまり嫌わないでやってくれや。
☆
葉巻をちょうど一本吸い終え、晃助が麗羅の頭をクシャクシャと撫でる。
話を聞き終えた麗羅は依然膝を抱えて俯いたまま……
(嘘、嘘嘘嘘!? ア、アイツがわた、わたたたた私のことす、すすすす好き!?)
内心動揺しまくって、耳まで真っ赤になっていた。
(でも、そんな。じゃあやっぱりあの時の『アレ』ってそういう!? で、でもそんな素振り今まで一度だって! でもそれじゃ『アレ』の説明がつかないし……)
考えれば考えるほどドツボに嵌り、抜け出せなくなる。
抱えた膝の内側で目をグルグル回して、ついでに頭の中もグルグルグルグル……
ボシュンッ!
とうとう思考回路がショートして頭から盛大に湯気を噴き出し、そのままばたんきゅーと気絶してしまった。
「ん? おい、麗羅ちゃん? おーい! ……気絶してら」
『刺激が強すぎたか』
『乙女』
狐たちもこれには呆れて苦笑い。
「ガハハハッ! こりゃ、手がかかりそうだなぁ」
などと言いつつも、その声音はどこか嬉しそうで。
気絶した麗羅を横抱きに抱えた晃助は、老人とは思えぬ軽やかな跳躍で石柱の上を飛び跳ねてコテージへと戻っていくのだった。
☆
その日の夜中。
俺はコテージの外に出て石柱の上で一人静かに物思いに耽っていた。
考えるのは今日のこと。
爺ちゃんにからかわれて、ついカッとなって言い過ぎて、レイラに思い切り嫌われた。
帰ってきたらなんか気絶してたけど、出ていったときの様子じゃ明日からは口すら聞いてもらえないだろう。
「……クソッ」
ほんとバカすぎる。最低だ。
いまさら謝ったところで、きっと許してはくれないだろうし、そもそもなんと謝ればいいのか。
脳裏に浮かぶ、悪夢にうなされたレイラの顔。
アイツはまだ、消された過去と自分の思い出の狭間で苦しんでいる。
周りの誰も自分のことを覚えていなくて、自分だけがその人たちと過ごした時間を覚えているなんて、そんなの辛すぎるし、簡単に割り切れるはずがない。
だから閻魔様から大会の話を聞いたとき、これしかないと思った。
どんな願いも叶うなら、悪魔に奪われた人々の記憶を戻してやれる。
アイツの居場所を取り戻してやりたい。そう思っていたはずなのに……
「……なんでこうなっちまうのかなぁ」
「悩み事ですか?」
「うぉっ!?」
頬杖をついて月下の渓谷をぼんやりと眺めていると、背後から俺の顔を覗き込む影。シャオロンだ。
「きゅ、急に来るなよ!」
「アハハ、ごめんなさい。麗羅さんと喧嘩でもしましたか」
けろりと笑って、シャオロンが俺の隣に腰を下ろす。
「……お前には関係ねぇだろ」
「冷たいこと言わないでくださいよ。地獄まで連れ添う仲じゃないですか」
「気色悪い言い方すんな。目的地が同じだけだろ」
「つれないなぁ。あ、そうだこれどうぞ。差し入れです」
俺の態度に気を悪くした様子もなく、シャオロンは竹の水筒を渡してくる。温かい……
「ミルクティーです。今夜は冷えますから」
クソッ、なんでコイツこんなにいい奴なんだよ。邪険にされたんだから怒れよ。
……コイツがもっと嫌な奴なら、嫌いになれたのに。
「…………お前さ、アイツのこと、どう思ってんの」
「アイツって、麗羅さんですか? そうですね……裏表のない、心の綺麗な人だと思います。それと、何か人に言えない闇を抱えている」
……たった一日でそこまで見抜くかよ。
やっぱりコイツ、底知れねぇ。
「……ケッ、今日会ったばっかで何が分かるってんだ」
「ある程度は分かりますよ? 立ち居振る舞いとか、言葉遣いとか。細かいところに内面って結構現れるんです。だから、君が本当は優しい人なんだなってのも、なんとなく分かります」
俺の内面を見透かすように、月の光に濡れる澄んだ瞳が俺の瞳を覗き込む。
やめろ。そんな目で見るな。
「晃弘くんこそ、彼女のこと、どう思っているんですか?」
そう俺に問いかける瞳は、どこまでも真っ直ぐで。嘘や中途半端な答えを許さない凄みがあった。
ここでふと、棟梁の言葉を思い出す。
────諸行無常。今はそうでも、この先どうなるかなんて分かんねぇだろ。
多分、ここが天国と地獄の分かれ道だ。
ここで答えを間違えたら、俺もきっと────……
「……だよ」
「えっ?」
「好きだよッ! 気づいたら好きになっちまってたんだ。悪いかッ!」
ずっと目を逸らしてきた自分の気持ちに、今、明確な答えを出す。
あーあ、とうとう言っちまった。もう後には戻れねぇぞ。
面食らったようにシャオロンが目を見開く。
そして……
「ふふっ、あははは。やっぱり。そうじゃないかって思ってました」
どこかスッキリした顔で笑った。
「ありがとう晃弘くん。君の本心を聞けて、ようやく決心がついたよ」
「あ? なんのだよ」
「今度の大会で優勝したら、僕、麗羅さんに告白するよ」
「ぶーっ!?」
予想の斜め上をゆく答えに、思わず口に含んでいたミルクティーを吹き出して咽返る。
「ゲッホゲホ! オエッ……おまっ、なんでこの流れでそうなる!?」
「一目惚れってやつです。この気持ちが恋なのだとしたら、初恋ってことになるのかな。……でも、だからこそ、晃弘くんの思いを聞く前に告白したらフェアじゃないじゃないですか。だから先に君の思いを聞けてよかった」
そう言ってシャオロンは俺に拳を突き出してくる。
「今度の大会で、どちらが彼女に相応しいか決着をつけましょう」
ニッと口角を吊り上げ挑発的に笑うその表情は、歳相応の少年のもので。
……へっ。なんだよ、そんな顔もできるんじゃねぇか。
「ハッ! ぽっと出のカンフー野郎には絶対負けねぇ!」
拳を突き合わせ、俺は自分の勝利を宣言する。
前に進むと決めたんだ。もう後戻りはできない。
絶対に勝つ!!!!
さあ、盛り上がってまいりました