幕間 蠢く影
路地の暗がりを這うように、ズルズルと黒い影がどこかへ向かっていた。
どこに向かっているのかは彼女自身も分かっていない。ただ、少しでもあの場所から離れようと必死だった。
人間に擬態するために着こんでいたコートはすでに焼け落ちており、その下に隠されていた髪の毛の身体も半分以上が消失してしまった。
こうしている今も焼け焦げた毛先が霊子へと分解され、淡い燐光を発しながら徐々に空中へと溶けだし始めている。
「はぁ……はぁ……ぐうっ!?」
畜生、話が違うじゃないか。
口裂け女は苦痛に呻きながら心の中で悪態を吐いた。
力に目覚めたばかりの霊能力者のガキを一匹殺すだけで、生きた人間を腹いっぱい食わせてもらえる。
霊能力者の肉も食えて、さらに食後のデザートもたらふく食える。
そういう美味しい話だった筈だ。
だが、実際にはどうか?
こちらの被害は甚大で、ターゲットの死亡確認もできていない。
あの時、直感を信じてすぐに逃げていなければ今頃自分は完全に消滅していた。
これほどの傷を治すとなると、普通の人間を一人二人喰らった所で足しにはならない。強い霊力を持った能力者の肉が必要だ。
「くくく……っ、これはまた、随分と手酷くやられたものじゃないか」
どうにか傷を治す方法を考えていた口裂け女の背後、電柱の影から仕立ての良いスーツ姿の、背の高い男がぬらりと姿を現す。
厳めしい鬼の面を付けておりその素顔は見えないが、声の張りから恐らく二〇代前後であると分かる。
このただならぬ気配を漂わせた不気味な男こそ、口裂け女に取引を持ち掛けてきた人物だった。
「おい、お前! あれのどこが目覚めたばかりよ!? そこらの雑魚とは比べ物にならないじゃない!」
口裂け女が残っていた全ての触手の先端を男の喉元に突き付けて、怒りを顕わにする。
「俺は一言も弱いとは言ってないぞ? 油断したのはお前の責任じゃないか」
が、男は喉元の刃などまるで気にする様子もなく、おどけたように飄々と肩を竦めるだけだ。
「あんまり調子に乗ると殺すわよ、人間」
ナイフの刃先を血が出ないギリギリの加減で押し込みながら、口裂け女が男をギロリと睨む。
しかし、それでも男は全く怯えた様子を見せず、逆に自ら刃に喉を差し出してきた。
次の瞬間、口裂け女の呪いの力が発動して、男の喉に付いた傷が一気に開き「バンッ!」と音を立てて男の皮の残骸だけがヒラリと地面に落ちた。
「おいおい、短気は止せよ。俺なんか食っても中身が無いから美味くないぜ?」
「……チッ」
そして何事も無かったかのように口裂け女の背後から再び姿を現す仮面の男。
あらゆる意味で食えない男だ。
「それより、死に掛けのアンタに復活のチャンスをやろう」
「……何?」
「じゃーん! これ、なーんだ?」
男が慎重な手つきでスーツの裏ポケットから、白い布に包まれた何かを取り出す。
男の片手に収まるサイズのソレからは、凄まじいまでの霊力と呪いの気配が漂っており、その異様なまでの存在感に口裂け女は思わず息を呑んだ。
「なによ……これ。こんなもの、一体どこから……?」
「それは企業秘密。ま、なんにせよ、これだけあれば傷を治すには十分だろ?」
十分どころの騒ぎではない。これほどの呪物を取り込めば、こんな傷など一瞬で回復し、更なる力を得る事すら可能だろう。
「……目的は何? これほどのモノ、まさかタダでくれる訳はないでしょう?」
「当然。アンタにはまだまだ働いてもらわなきゃならないからな。これは前払いの報酬だと思ってくれればいい」
はっきり言って、この上なく怪しい。
だが、それ以上に今は切羽詰まっているし、なによりこれほどの呪物が手に入る機会などもう二度とないかもしれない。
それを思えば話の裏にある男の思惑など些細な事だった。
「……まあいいわ。それで? 何をすればいいのかしら」
「ああ、アンタにやってもらいたいのは────」
男の話を聞いた口裂け女は目を見開き、それから大きく裂けた口を釣り上げて笑う。
「いいわねぇ、それ。そういう分かりやすいの、好きよ?」
「交渉成立だな。それじゃ、これはアンタのもんだ。有意義に使ってくれ」
男は口裂け女に呪物を渡すと、挨拶も告げずに闇の中へと溶けるように消えていった。
口裂け女は我慢できないとばかりに、貰った呪物を布ごと口の中に放り込み、鋭い歯でゴリゴリ噛み砕いて一気に飲み込む。
すると、ボロボロだった身体に活力が漲り、失われた部位が瞬く間に再生を始める。
「アハハハハハ! いいわぁ! いいわコレ、最っ高!!」
身体が完全に再生されてもまだまだ有り余るエネルギーが、まるで行き場を求めるように口裂け女の身体をメキメキと膨張させ、悍ましい異形の怪物を更なる化け物へと変質させていく。
「ちょ、何コレ!? 制御しきれな……ガボォ!? グギ、ゴギ、ガギギギギィィ!?」
体内で暴走するエネルギーに意識を漂白され、化け物はさらに大きく、醜く、弾けんばかりに膨れ上がる。
髪の毛の触手が濁流のように夜の路地を覆いつくし、その間から赤子の手足が生えては大量の髪の毛に押しつぶされ、また生えてを繰り返す。
やがて見上げるほどに大きく育った毛の塊は、その隙間から真っ赤な両目を爛々と輝かせ、夜空に向かって大きく吼えた。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォ!!!!
まるで痛みから逃げるように影の中へと消えた化け物を、仮面の男はふらふらと片足でバランスを取りつつ、少し離れた電柱の上から眺め、一人呟く。
「さぁて、お手並み拝見といこうか」