コロとナナ
小川結衣の家で飼われているウェルシュ・コーギーのコロと猫のナナが、窓辺で日向ぼっこをしている時だった。
「引継ぎをしなきゃいけないね」
ナナはコロに突然言った。ナナが身に着けている赤い首輪の鈴がチリンと鳴る。
「え? 引継ぎ?」
コロは何の事か分からず、気の抜けた声で尋ねた。ナナは少し呆れた顔で口を開いた。
「あんたに猫の作法を教えるんだよ」
「えっ? 何で犬の僕が覚えるの?」
「決まっているじゃない。ご主人の家に新しい猫が来たら、あんたが色々と教えるんだよ」
「それはナナの役目なんじゃ……、痛い!!」
ナナの猫パンチがコロの鼻にヒットする。
「生意気な事言うんじゃないよ。それじゃあ今日からでも始めるかね。時間もそう無いから」
ナナが首輪の鈴をチリンと鳴らし、意地悪く笑った。
ナナが『引継ぎ』を口にしてから一ヵ月の間、コロは毎日が猛特訓の日々だった。
ナナが家の柱で爪を研げば、コロも見様見真似で爪を研ぐ。ナナが前足と後ろ足を折り畳んで香箱座りをする、いわゆる猫座りをすれば、コロも短い足を必死に折り畳んで座った。
家のご主人である小川結衣は、2匹のそんな姿を見るのが大好きだった。何せ仲良く遊んでいる様にしか見えなかったからだ。だが犬のコロには厳しい訓練でしかなかった。特に苦労したのは、最後に教えてもらったキャットタワーの上り方だった。お尻が大きく重いコロは上手く登れず、業を煮やしたナナが本気で鼻を引っ掻いた事もあった。結局半分の高さまでしか登れず、コロはナナの強烈な猫パンチを覚悟したのだが、代わりに優しく頭を撫でられた。
「コーギーにしちゃあ、あんたはこの一ヵ月良くがんばったね。できた犬だったよ。これからは自分でしっかり忘れないように練習するんだよ、新入り猫が来た時のためにね。コロ……、今までありがとね。ずっと楽しかったよ」
そう言って微笑んだナナは、寝床であるキャットタワーの頂上まで登り、そこで永い眠りについたのだった。
「もうナナの真似はやめて! コロ!」
結衣は大きな声を張り上げた。コロはその声に驚き、家の柱で爪を研ぐ仕草を止めた。すすり泣く音がコロの耳に痛く刺さる。
チリンという音に、コロは俯いていた顔をパッと上げた。結衣がナナの首輪をごみ袋に入れようとしていた。
「ワン!」
「コロ!! 離しなさい! あっ!」
首輪を咥えたコロは結衣から急いで離れた。
「コロ、もう……二週間だよ。ナナは、戻ってこないんだよ!」
結衣が首輪を取り返そうとコロに近づいてくる。コロは咄嗟にキャットタワーを登り始めた。無我夢中で目の前の段へ段へと飛び移る。猫の様なしなやかな動き。チリン、チリンという鈴の音。まるでナナが登っているかの様で、結衣はコロに釘付けになった。そしてコロはついに頂上までたどり着いた。
初めて来たナナの寝床。ナナの匂いがする、コロはそう思った。日を追う毎にご主人と自分の匂いだけが強くなるこの家に、まだこんな場所があったんだ。
『コーギーにしちゃあ、あんたは良くがんばったね。できた犬だったよ』
ふとナナの最後の言葉が耳に蘇り口が少し震えた。チリンと鈴の音が鳴る。もう少しここにいたくて、コロはゆっくりと座った。
「コロ……、 ぷふ。ちょっと、その座り方」
猫座りをしたコロが結衣の声に振り向く。結衣はお腹を抱え、涙目で大きく笑っていた。
コロがキャットタワーの頂上に登った日から一週間後、結衣は突然、ロシアンブルーの子猫を一緒に連れて自宅に帰って来た。玄関で出迎えたコロはびっくりした、小さいけれどナナにとても似ていたからだ。あと赤い首輪が少し大きくて不格好だ。
「コロ。えっとこの子……、うん、ナナちゃん。ナナちゃんに色々と教えてあげてね」
結衣の楽し気な声音に嬉しくなったコロは
「ワン!」
と大きな声を響かせた。その声にビクッとしたナナちゃん。赤い首輪の鈴がチリンと音を奏でた。