相抜・5
ウォンが歩を進めようとした、その時。
フェイが突進していた。
絶妙のタイミングだった。間を外されて、ウォンの足が止まる。
(前へ出るんだ。待っちゃ駄目だ。僕から動いて、ウォンさんの反応を引き出すんだ。その反応の中に、必ず隙がある)フェイにとっては分かり切ったことだった。それを改めて自分に言い聞かせなければならないほど、ウォンの氣圧は強かった。
そして・・・もう、ウォンに手が届く・・・と思ったその時、ウォンの左足が高く跳ね上がった。
こちらも絶妙のタイミングだった。ウォンの蹴りは、フェイの鼻先をかすめていた。
いや、これは蹴りではない。ウォンが外したのでも、フェイがかわしたわけでもない。
もし、ウォンが「当たる」タイミングで足を上げれば、フェイは反応して捌きにくる。だからウォンは、わざと当たらないタイミングで足を上げたのだ。
フェイも、当たらないタイミングだったからこそ、減速せずに突進を続けた。
そしてこの突進が、フェイには仇となった。この形からは、もうフェイは退がれない。
ウォンは高く上げた左踵を、フェイの脳天に叩き落とすつもりだ。退がっても、止まっていても避けられないし、ましてや受け止めるなど論外だ。
この場合のフェイのセオリーとしては、前へ出るのが一番だ。ウォンが打ち下ろす踵に充分な加速が付く前に、止めてしまえばいい。・・・だが。
(普通なら、それでいい。でも相手はウォンさんだ。彼の蹴りに、距離も加速も関係ない。均衡の取れた体勢から繰り出されたなら、全てが必殺の蹴りになる筈だ)だからフェイは、真っ直ぐに前進するのではなく、右斜め前にずれ込むように踏み込んだ。(これで、ウォンさんの左側面を取れる・・・)
だが、フェイの思惑は外れた。
ウォンは左足を、外に開くように下ろし、フェイの眼前を塞いだのだ。
「えっ?」フェイは思わず叫びながら、反射的に右掌を伸ばし、ウォンの左膝に粘り付いた。
(いくらウォンさんでも、この体勢には無理があり過ぎる。この左足では、蹴ることはできない)
だがフェイは油断せず、慎重にウォンの左足を封じながら、左拳をウォンの顎めがけて突き上げた。
・・・ところがウォンの顎を狙った筈の拳は、大きくそれて・・・ウォンの右耳をかすめ、フェイの体はぐらりと泳いでいた。
「捌きってのは、こうやるんだよ・・・ま、右耳にかすったのは愛嬌だ」
フェイはウォンの左足を封じたつもりでいたが、そうではなかった。ウォンのほうが、左足でフェイの右掌に粘り付き、その動きを封じていたのだ。
ウォンは、ただ蹴りが速いだけの男ではなかった。相手の攻撃よりも先に、自分の蹴りを当てる・・・そのために相手を崩し、安全なポジションを確保する技術も持っていた。・・・いや。
(そんなことは、さっきの攻防で・・・相抜けが起こった時点で、分かっていた筈だ。迂闊だった・・・?いや、ウォンさんが一枚上手なんだ)フェイは焦った。
もっとも、ウォンが相手を「崩してから蹴る」ことなど、滅多に無い。殆んどの者は、ウォンの蹴りに反応できないからだ。
(ただ蹴るだけでは、フェイの奴はきっちり反応して、迎撃してくる)ウォンはフェイの実力を、そこまで認めていたのだ。
フェイの体はウォンの左足に転がされるように回転し、完全にウォンに背中を向けていた。
突然、フェイの右肩が重くなる。
ウォンは、フェイの右腕の上で左足を滑らせて、肩に粘り付き、その上に立ったのだ。
今、ウォンはフェイの体を地面の代わりにして、左足を軸足に、右の蹴りでフェイを眠らせるつもりでいた。
フェイからは、ウォンが何をしようとしているのかは見えない。ただ、グズグズしてはいられないということだけは分かる。
(ウォンさんは、決めに来る。僕がウォンさんの立場でもそうする。時間が無い。手掛かりは・・・ウォンさんの足が載っている、右肩のみ・・・)
フェイはすかさず右膝を上げると、そのまま地面に踏み下ろした。
ズム、という鈍い地響きが起こり、フェイの氣が大地の氣と共振する。そして・・・ほんの僅かだけ体を捻り、氣の共振によって発生した勁力を一本に束ねて、ウォンが載っている右肩から打ち出した。
苦し紛れの靠なので殺傷力は無いが、ウォンの体勢を崩すのには充分だった。
「うおっ?」ウォンの蹴りはフェイの頭をかすめ、その勢いと靠の勁力で、5メートルほど吹っ飛んでいた。
だが今度も、ウォンは上体をブレさせずに、涼しい顔をして着地していた。
フェイのほうは右膝を地につき、汗びっしょりになっている。
「また、相抜けになったな」ウォンが、空中で少し乱れた後ろ髪を、さっとかき上げて直しながら微笑んだ。
「ええ・・・まあ・・・」フェイには余裕が全く無い。
「相抜け・・・ですか。随分尖がった相抜けですねえ。まあ、フェイさんとウォンさんのスタイルなら、らしいと言えばらしいですが・・・」
「おいおい、ラウの旦那。あんたは芸術家だろ?批評家になってどうするよ」
「批評じゃありません。感想ですよ。何なら、もっと美しい『相抜け』を、体験させてあげましょうか?」ほんの僅かだが、ラウの周囲で華炎がきらめいた。
「あーっ!ラウさんまで、何てことをっ!」パイは両腕を振り回して、大慌てだ。
「安心してください、お嬢さん。俺は、ラウの旦那とやるつもりはありません。・・・少なくとも、今はね」
「え?・・・今?」
「ラウの旦那は錬武祭に必要な人材だと、はっきりしてますからね。怪我をさせるわけにはいかない」
「ほう・・・私が、あなたに怪我を負わされると?」
「ご不満かい?『勝負は何があるか分からない』んだろ?」
「その通りです・・・だから・・・まだ、僕にもチャンスはある筈です」フェイが、息を整えながら立ち上がった。
「ん?チャンスってなぁ、何のことだ?」
「今の、二度の攻防は・・・形こそ、相抜けになりましたが・・・これが・・・もし、採点制の試合だったら、僕は完全に負けています。でも、これはそういう試合ではありません。僕が、ウォンさんに認めてもらえるか、どうか。そういう試合です」
「ああ。そうだ」
「僕はまだ、ウォンさんに認めてもらってません」
「・・・ああ、そうだ」ウォンの顔に、笑みが広がる。
「それじゃ、困るんです。・・・僕達は、仲間になって、戦わなければ・・・」
「実行委員に、勝てないとでも?」
「勝負に、絶対はありませんが・・・負ける可能性は、高くなります」
いきなり、ドン、という地響きが起こり、ウォンの周囲の空気が震える。
「よし。じゃ、次の一合で・・・お前を認めるかどうかを、決めてやろう」
ピリピリと波打つような風が、ウォンの長髪を巻き上げた。
「うわっ・・・まさか、ウォンさん・・・」パイが後ずさりをする。
(来る・・・風刃脚!)フェイの心拍数が、一気に跳ね上がった。
ウォンの代名詞ともなっている技、風刃脚。
それは、人の領域を超えた蹴りの速さを誇る、ウォンならではの技だ。
その蹴りは、あまりの速さ故に、空気を切り裂くことさえ可能だった。その、空気を切り裂かれた空間は真空地帯となり、そこにはすぐさま大量の空気がなだれ込み、風の刃となる。それが風刃脚の正体だ。