相抜・3
だが、ウォンは違う。
「風刃脚」という名を冠した技を持ち、それが異名ともなっているウォンの蹴りの速さは、常人の域を遥かに超えているからだ。
つまり、相手の攻撃が届くよりも先に、蹴り飛ばす。いってみれば、それがウォンの武術の全てだ。
そしてこのシンプルなスタイルを活かすためには、両手を掲げることも、半身になることも、不要・・・というより、余計なことだったのだ。
フェイは、かつてないやりにくさを感じていた。とにかく前へ出るのが身上の彼が、珍しく出遅れていた。
強者に特有のプレッシャーに圧された、というのも勿論ある。
だがそれ以前に、ウォンのスタイルに戸惑ったのだ。
フェイは基本的に、相手と正面からぶつかるような真似はしない。必ず、相手の側面や背後などの死角に入りながら攻撃(入ってから、ではない)をするように心掛けている。
そうでなければ、身長が150センチそこそこという極端に体の小さい不利をカバーできないからだ。
そしてそのフェイの工夫は、結果的に武術の極意に限りなく接近していた。
だが、それがウォンには当てはめられない。
正確には、間合いを詰めつつある段階では、フェイからは動きようがなかった。
相手の側面を取ったり、背後に回るためには、右か左のどちらかに、斜めにズレ込む必要がある。そして、左右のどちらにズレ込むかは、相手が左右のどちらを前にして構えているかによって変わってくる。
フェイはまず、相手が前に出している手や足を(それが構えであっても、攻撃であっても同じこと)手掛かりにして粘り付き、橋を渡るようにして間合いを詰め、死角に貼り付きながら攻撃するのだ。
ところがウォンは正面を向いたままで、両手も腰の後ろで組んだまま、普通に歩いて距離を詰めている。これではフェイは、右か左かどちらにズレ込むかを決められない。
これはちょうど、シュウがフェイと散手をしている時に感じている戸惑いに近いものがある。いってみれば、ウォンとフェイにはそれほど地力に差があるのだ。
「ああ、あのウォンさん、待ってください!フェイだって、好きこのんで私と契約したわけじゃないんですよう。もう、どうしようもない状況で・・・」またパイが、戦いを止めようとして叫ぶ。
その声に合わせるように、ウォンはピタリと歩みを止めるとパイに向き直った。
フェイの全身から、どっと汗が噴き出す。(助かった・・・)フェイは咄嗟に、本気でそう思った。手足が重く、だるく感じる。ウォンはフェイのみに対して、ピンポイントで氣圧をかけていたのだ。
ウォンは、垂らした前髪を指先でサッと払いながら、さも残念そうに目を伏せた。
「知っています。ティエン国の錬武祭で、何があって、フェイとあなたが・・・パイさんが契約をしたのか。その辺の経緯も・・・それに、そもそも何故白仙である彼が、銀衛氣なんてものを編み出したのかについても・・・こちらの、チュアン国の警備隊で聞きました」
「だったら・・・」
「だから、場合によっては、余計に許せんのです」
「へっ?」
「フェイは、大切な人を理不尽に奪われる痛みを、よく知っている筈です。その彼が、実行委員やシバを倒すためとはいえ、結果的にあなたを・・・戦う力の無い者を、危険に巻き込んでしまった。これでもし、あなたにもしものことがあれば、あなたを大切に思っている誰かが、とても辛い思いをすることになる」
「いや、そんな人、いるかなあ・・・あーそれより、その『戦う力が無い』って、何気に失礼じゃありませんか?そりゃまあウォンさんから見れば、私の戦闘力なんて無いも同然でしょうけど」
「お、これは失礼。それじゃ『戦う力が不足している』ということで」
「んー、ま、いいかな・・・あーいやいや、そんなことより、無駄な争いは止めましょうよ」
「無駄じゃあない。フェイがあなたと契約したのは、確かにやむを得ない状況だったからでしょう。だが、フェイ自身はどう思っているのか。本当にやむを得ない状況で契約してしまって、パイさんにすまないという気持ちがあるのかと。・・・それとも、シバへの復讐が果たせるのなら、・・・その目的のためなら、何を、誰を犠牲にしても構わないと思っているのか」
「いやいやいや、フェイはそんな人じゃありませんって」
「そんな人じゃあないかどうか、そこの所を俺自身で確認する必要があるんだな・・・だから、この手合わせは無駄じゃあないってことだ」そしてウォンは、再びフェイに向き直った。
「あーもう!ちょっと、ラウさんも何とか・・・」そのラウは、車の屋根に腰掛けたまま、ウォンの言葉に黙ってフンフンと頷くのみだ。
とうとうパイは、ウォンを止めるのを諦めた。
これはパイが、ウォンの氣圧をそれほど感じていないために、(まあ、潰し合いにならない程度に収めてくれるでしょう)と、高をくくっているからだ。
だが実際にはウォンは、もしもフェイが、復讐のためには手段を選ばないような男だったら・・・殺しはしないが、潰すつもりでいた。
特にウォンにとっては、パイのような若い女性を巻き込んだという時点で、マイナスポイントが大きかった。ウォン自身も言っていることだが、もし、フェイがむさ苦しい男と契約していれば、こんな手合わせなど不要だっただろう。
ウォンはそういう、優しいが、ある意味では軽い男だった。
さてフェイのほうは、一息つきはしたものの、再びウォンの氣圧に当てられて身の縮むような思いをしていた。
だが、先刻よりは大分マシだ。パイの横槍で戦いが一時中断している間に、気持ちを上手く立て直せたのだ。
(ウォンさんが、どんなスタイルだろうと関係ない。元々僕は、予定を立てて動くタイプじゃないんだ。相手の動きに反応し、変化を続ける。そのためには、まず前に出る。僕にはそれしかない。ウォンさんだって、ずっと正面向きでいるわけじゃない・・・蹴る時は、右か左か、どちらかが前になる。その動きに対応するんだ。落ち着いて。よく見て・・・守りに入るな。攻め続ける意志を保つんだ)そしてフェイは、歩き始めた。自分にできることを再確認し、腹をくくったのだ。
「ふん、マシな顔になったな。では・・・」まだ二人の距離は3メートルちょっとあるというのに、いきなり、ウォンの右膝が跳ね上がる。
フェイは驚いたが、冷静さを失ってはいなかった。(まだ、遠過ぎる。普通の蹴りなら届く筈がない。これはフェイントか・・・いや、考えるな。分析するな。ただ感じて、反応するんだ)
フェイは、ウォンの右膝に囚われず、視野を広く持った。
と、ウォンの体が急に巨大化して、その視野一杯に広がる。
(違う。巨大化したんじゃない。危ない!)フェイが左斜めに踏み込むのと同時に、ウォンの右前蹴りが放たれていた。
ジャッ、という音がして、フェイの服の胸の部分が裂けていた。
ウォンは片足立ちのまま、上体を全くブラさずに、3メートルの距離を一気に詰めたのだ。もし、フェイがウォンの右足だけに囚われていたなら、ウォンの蹴りはフェイの胸板に突き刺さっていただろう。
だがフェイは全体をバランスよく見ることで、ウォンの蹴りに反応することができた。・・・いや、かろうじて反応はしたが、ウォンの歩法のあまりの見事さに、ウォンが巨大化したかのような錯覚をしてしまったのは、実力差もさることながら、フェイが平常心を保てていない証拠だ。