絵本・3
実際ツァイには、レンが自分の気持ちの張りを持続させるために、わざと父親のことを聞かずに出たことも含めて・・・レンも、本当は父親のことを知りたいだろうに・・・それよりも、僅かでも母親の命を繋ぐことに賭けた。・・・そんなレンの気持ちが、とても嬉しかったのだ。
そしてその喜びは、レンに父親のことを伝えておきたいという使命感よりも大きかった。それが、ツァイの死に顔を穏やかにしたのだ。
だが、レンの喪失感もまた、大きかった。
ツァイを弔い、山小屋の荷物を整理した後、レンはウーミィ国の施設に引き取られることになった。
レンの持ち物はごく僅かだったが、その中には、あの絵本が・・・ツァイが初めて、レンの父親について語った日に買ってくれた、仙人の絵本があった。
・・・この年。ペイジ国では、シバの警備隊本部への襲撃があった。
レンにとって、施設での生活は楽しいものだった。
同年代、年下、年上と、色々な年代の子供達と過ごす毎日は、レンにはとても新鮮だった。
この世界の子供を預かる施設は、かなり守備範囲が広い。レンのように、親がいないので施設に寝泊りして生活する子供もいれば、両親が共働きで、子供の面倒を見られない間だけ施設に預けられる子供もいる。
いわば孤児院でもあり、保育所でもあり、ということだ。
レンはツァイから充分過ぎるほどの教育と躾を受けていたし、元々気配りもできる子供だったので、集団生活にもすぐに馴染んでいた。
勉強などは、周りの誰よりもできるぐらいだったし、それでいてそれを鼻にかけるでもない。施設での雑用もよく手伝い、そんなレンに、周りの大人も良くしてくれた。
ただ一つだけ、レンには不満があった。
レン以外の誰もが、人間が空を飛べるとは思っていなかった。・・・レンはそれが不満だった。
レンは施設から学校に通い、教師に空を飛ぶ方法について質問した。
教師は、レンほど勉強のできる子が、空の飛び方について真剣に訊ねるのに驚いたが、誠意を持って・・・「それは無理だと思う」という見解を述べた。
レンは学校の図書室や、街の書店、図書館で、空を飛ぶ方法がないかを調べた。
暇を見つけては氣を練り、空を飛べないかと色々試したりもした。
レンにとって、「空を飛びたい」という気持ちは、もはや使命感に近かった。
白仙を探しに出たあの日に、もし、飛べたなら・・・今更飛べるようになったところで、ツァイが生き返る筈もないことは、レンにもよく分かっていた。それでも、飛ぶ努力をせずにはいられなかった。
もし、飛べるようになったら・・・空の、高い高い所まで昇れたなら、その分だけ、母親の近くに行けるような気もした。
これも別に、レンは死にたいと思ったわけではない。ただ、母親の魂が今、天上界にいるというイメージが、レンの「飛びたい」という気持ちを後押ししていたのだ。
レンは10歳になる頃、遂に・・・氣で自分の体を「吹き飛ばす」のではなく、「浮かせる」ことに成功した。
だがそれも、ほんの1メートルほどで、数秒もすれば姿勢の安定を維持できず、クルリと回転して落下してしまう。
勿論、これだけでも凄いことには違いない。そんなレンを見て、周囲の大人達は親切にも「なぜ、そこまでするのか」「それほどの才能があるのなら、もっと現実的な利用法を考えるべきだ」と、口々に忠告してきた。
その都度レンは大切な絵本を見せながら、自分が「飛びたい」と願う理由を説明した。その説明を聞いた者は、二度とレンにお節介な忠告をしたりはしなくなった。
だが、レンには分かっていた。(みんな、僕に気を遣って口に出さなくなっただけで・・・本当は、人間が空を飛ぶなんて、無理だと思ってる)
それからレンは、人前で空を飛ぶ練習をしなくなった。
そして今度は、暇を見つけては街に出て、皿洗いなどの仕事をするようになった。レンは要領が良かったので、店が忙しい時には給仕もこなしたし、そればかりか、ツァイから料理も教わっていたので、調理場に立って簡単な惣菜を作ることさえあった。3ヶ月もすると、10歳の子供の小遣いとしては、過分なほどの現金が貯まっていた。
そして突然、レンは施設から出ていってしまった。
どうやらレンは、皆が寝静まった深夜にこっそりと出発したらしく、朝になってから皆がレンのいないことに気付いた時には、もう彼の寝台の上には、整理された僅かばかりの持ち物と、書き置きと・・・今までの宿代のつもりなのか、それまでにレンの稼いだお金の殆んどが残されていた。
書き置きには、こう記されていた。
「僕はどうしても、空を飛べるようになりたいんです。だから、山か森で仙人を探して、空の飛び方を教わろうと思います。今まで色々とお世話になりました。多謝。再見」
当然、施設は上へ下への大騒ぎとなり、捜索隊が組まれて、レンを探し出そうとした。
だが、レンは見つからなかった。物心のついた頃から山の中で暮らしていたレンは、街を生活の拠点にしているような大人よりも、ずっと速く、上手く、山や森を移動し、生活する力があったのだ。
レンは携帯できる最低限の食料や薬、着替えと・・・あの、大切な絵本を持って、山の中へ戻った。
どこかに定住するつもりはなかった。必要なことを教えてくれる仙人を探し出すまでは、常に移動するつもりだった。
持参した食料は、すぐに食べ尽くしてしまったが、勘が戻ってくると、生きていくのに必要なものは自然から分けてもらえた。特にレンは、五行の氣の全てを上級の黒仙レベルで扱えるので、刃物や着火用具、照明、縄などといった、野外生活に必要な物は、全て氣で代用することができた。
レンは山や森を彷徨いながら感覚を研ぎ澄まし、なるべく質の高い、精錬された氣を・・・仙人を探した。そして仙人は、意外と簡単に見つかった。
それも一人や二人ではない。
俗世との関わりを断ち、隠遁しながら功を積む生活をする者は、実は結構たくさんいるのだ。
また、仙人のほうからもレンの超人的な氣を感じ取り、興味を持って近付いてくる者がいた。とにかく、色々な能力の仙人がいた。
レンは山に戻ってから、一ヶ月ちょっと経った頃に、最初の仙人に出会った。
この仙人はムンヂェという名で、水の上を歩くことができた。氣で身体能力を上げ、高速走行する勢いで、水上を駆け抜ける・・・のではない。自身の氣を水の波動と同調させ、地面を歩くように、静々と水の上を歩くさまを見て、レンは驚いた。
だが、それが人間に可能な技術だと知った瞬間に、レンは既にその技を8割方修得してしまっていた。その3日後には、レンも水の上を歩けるようになっていた。
ムンヂェは、さも愉快そうに笑った。「大したもんじゃ。ワシが30年かけて完成した技を、たった3日で覚えてしまうとは」
「いえ。老師のお導きのおかげです」
「そいつは、謙遜が過ぎるのう。ワシは、ただやって見せただけじゃ」
「そんなことは・・・」
「よい、よい。しかし、お前がやりたいのは、もっと他のことじゃろう?」
「・・・はい」
「何をしたいのじゃ?」
「僕は、空を飛びたいんです」
ムンヂェは、いよいよ愉快そうに目を細めた。