絵本・2
レンは8歳の時に、ツァイに質問をした。
「ねぇ、お母さん・・・人間は、空を飛べるの?」
「さあ、どうかしら・・・少なくとも私は、聞いたことがないわね」
「じゃ、無理なの?それとも、空を飛ぼうって思う人がいないの?」
「空を飛ぼうとした人は、たくさんいるわ。それこそ人間が乗れるような鳥を探したり、土氣を調節して人間が乗れるような雲を具現化しようとしたり。それから、鳥をよく観察して、大きな翼を作ってみたり。・・・でも、誰も飛べなかったわ。・・・氣の力で、自分や他人を吹き飛ばすだけなら、できる人はたくさんいるけど。安定した姿勢で、空中を自由に飛行するとなると、話は全然別ね」
「どうしてだろう?だって、紙で作った鳥を、氣の力で鳥そっくりに飛ばすことなら、できるでしょう?」
「そうね・・・でもあれは、やっぱり紙だから・・・人間とは、重さが全然違うしね。それにあんなに軽いものでさえ、安定して飛行させるとなると、人間の力だけでは制御しきれないのよ。ああいうものには、鳥の魂魄を複写した氣を、込めるというよりは憑依させてあるの。言ってみれば、あれは紙の体を持った鳥なの」
「じゃ、人間も鳥の魂魄を取り込んだら、飛べるようになるんじゃないの?」
ツァイは静かに首を振った。「そう考えた人は、大勢いたわ。でも、駄目だった・・・人間と鳥とでは、基本的な心と体のバランスが、全然違うの。それを無理に取り込んだり、同化しようとした人達は、みんな・・・心も体も壊れてしまったわ。そもそも紙の鳥だって、あれは、軽い紙だから飛べるのよ。鳥と同じ大きさと重さだったら、とても飛ばせないの」
「そうなの?どうして?」
「鳥の魂魄を複写するといっても、完全に精確に複写できるわけじゃないからよ。そのぐらい、鳥と人間は違うの」
「そうなんだ・・・じゃ、人間は飛べないんだ・・・」
「今はね。・・・でも、分からないわよ。そうね・・・あなたのお父さんなら、もしかしたら・・・」
「え?お父さんって、仙人なの?」レンが目を輝かせる。
ツァイはクスッと笑いながら、首を振った。
「いいえ。・・・でも、似たようなものかな・・・」
レンが9歳の冬に。
ツァイは薬草の採取の道中に、斜面で足を滑らせて沼地に落ちてしまった。
何とか地力で這い上がりはしたが、全身が濡れてしまい、身も凍るような思いだった。しかも、足に浅からぬ傷を負ってしまっていた。
その足の怪我はどうにか氣でふさいだが、白仙の力では、濡れた服を乾かすほどの熱は出せない。
ツァイは寒さに震えながら、痛みの残る足を引き摺るようにして、山小屋に戻った。
その晩に、ツァイは発熱した。風邪を引いたのだ。そしてそのまま風邪をこじらせて、寝込んでしまった。
いや、最初はただの風邪だったのだが、山の中で母子だけで暮らし、レンを教育するために無理を重ねて溜め込んできた疲れが、ここにきて、風邪をただの風邪では終わらせなかった。
ツァイは高熱にうなされ、食事も喉を通らなくなり、起き上がることもままならなくなった。
ツァイの呼吸は乱れ、氣の制御も思うようにならない。
レンも懸命に母の治療を試みたが、いかに優れた才能を持っているとはいえ、まだ9歳になったばかりのレンでは経験値の絶対量が少な過ぎた。
ツァイが起き上がれなくなってから、一週間が経った。衰弱はいっそうひどくなり、意識が朦朧としてきた。
レンは意を決し、一人で山を下りてウーミィ国に入り、白仙を呼ぶことにした。
ツァイにそれを告げると、彼女は弱々しく首を振った。その動きは確かに弱々しかったが、目の光は・・・覚悟と諦めを湛えて、強く、真っ直ぐにレンを照らしていた。
「ここにいて頂戴、レン・・・あなたに、話しておきたいことがあるの・・・あなたの、お父さんのことを・・・」
「いやだ」
「レン?」
「聞きたくない」
レンは、母親の死が近いことを・・・ツァイ自身がそれを覚悟していると、気付いていた。今のツァイの目の光の強さは、炎が消える直前の、一瞬の輝きに過ぎない。
「お父さんのことを話したら、お母さんは安心して・・・そのまま、死んじゃう・・・かもしれない」かもしれない、というのは単なる希望だった。ツァイの死は近い。レンには、それを感じ取るだけの力があった。
「僕、行ってくるよ。ウーミィ国で、白仙を連れて来る。だからそれまで・・・待ってて」レンはそう言うなり身を翻すと、もう振り返らずに走り出した。
「レン、待って・・・」ツァイの声が背中を掴んだが、振り払うようにして走り続けた。
(こんな時、空を飛べたら・・・!)レンは強く思った。
(空を飛べれば、ウーミィ国まで一直線に、ひとっ飛びで行けるのに。それから、白仙の先生を担いで、ひとっ飛びでお母さんの所に戻れるのに・・・!)
だが、それはかなわぬ夢だった。レンは跳ぶように走り続けたが、飛べはしなかった。その両足が、地から完全に離れることはなかった。
レンは何度も転倒し、倒れこむようにウーミィ国に入った。全身が擦り傷と痣だらけになっていた。
そんなレンを見てウーミィ国の関所の役人は仰天し、そのままレンを車に乗せて、病院へ駆け込んだ。
車の中で一息をついたレンは、すぐに母親を診てくれないかと、目の前の白仙に頼んだ。
「お願いします。すぐに戻らないと・・・」
「分かったから、じっとしていなさい。君もかなりの怪我をしてるんだ」
その白仙はレンの怪我の手当てをしながら、ツァイの状態を聞き、助手に薬と治療道具を用意させた。
同時に防災隊に連絡して、特に軽身功に優れた者を10数人ばかり要請する。山の中であれば、車で行くよりも彼らに担いでもらうほうが早いからだ。
準備が済むと、包帯だらけのレンと、手荷物を抱えた白仙とその助手は、数人ずつの防災隊員に担ぎ上げられて、ツァイの待つ山小屋へ向かって走り出した。
レンは、そのスピードに驚いた。登りだというのに、レンが駆け下りてきた時よりずっと速い。
(でも・・・走っていることに、変わりはない)レンは唇を噛んだ。
(いくら速くても、道に沿って移動していることに、変わりはない・・・空さえ、飛べたなら・・・)
そんなレンの思いをよそに、防災隊員達は草や泥を蹴散らし、木々の間をぬって、風を切り裂くように走り続けた。
だが。・・・間に合わなかった。
一行が山小屋に到着した時、ツァイは既に事切れていた。・・・これで、レンが父親のことを知る手掛かりは、失われてしまった。
だがそんなことよりもレンは、母親の最期に、一緒にいられなかったことを悔やんでいた。
(僕に、伝えたいことがあるって・・・その思いが、お母さんの命を繋ぎ止めてくれれば・・・そう思ったのは、やっぱり、甘かった)良かれと思ってしたことが、結果的に母親を一人で死なせることになってしまった。レンの心は沈んでいた。
だが、ツァイの死に顔を見ると・・・果たして、自分の行動はそれほど的外れではなかったような気もしてきた。
「苦しかったろうが・・・思いのほか、穏やかな死に顔だな。見方によっては、嬉しそうにさえ見える。・・・きっと、坊やが・・・自分のために危険な山道を、一人で白仙を探しに行ってくれたのが、嬉しかったんじゃないかな」レンと一緒に来た白仙が、ツァイを見て呟いた。