絵本・1
ウーミィ国の国境沿いの山中に、一人の男の子が暮らしていた。
男の子の名は、レン。
サラリとして、少し青みがかったおかっぱの黒髪と、知的で大きな瞳。一見して童女のような、細くて柔らかな顔立ちと身体つきをしていた。
彼は母親と二人暮しの、無国籍民だった。
母親の名は、ツァイといった。
肩まで伸ばした黒髪は、レンと同じく、少し青みがかっていた。知的で大きな目も、レンとよく似ていた。
彼女がいつから山の中で暮らすようになったのかは、分からない。
少なくともレンは、物心のついた頃には既に、母親と山で生活していた。
ツァイは、月に一度はレンを連れてウーミィ国に入り、山で採取した高価な薬草や果実、宝石などを売り、その現金で生活に必要な物を購入していた。
レンは街の中を歩く度に、人の多さに驚き、色々な発見をしていた。
まず、女の子と、大人の男性。どちらも、普段は見られない存在だった。
そのうち、人間の組み合わせによって、いくつもの集団の単位があることにも気付いた。
男性ばかりの集団。女性ばかりの集団。若者ばかりだったり、年寄りばかりだったり、色々な性別と年齢がごちゃ混ぜになっていたり。
その中でもレンは、大人の男性と女性が一人ずつと、何人かの子供で構成されている集団が、特に気になっていた。
レンが4歳の秋に。
ツァイは街での用事を済ませてから、屋台で饅頭を買い、近くの公園でレンと二人で長椅子に並んで座って食べた。
向かい側の長椅子に、レンが気にしている集団の単位があった。
大人の男性と女性が一人ずつで、レンと同じぐらいの年の子供が二人。彼らも、饅頭を食べていた。
「ねえ、お母さん。あの人たちは、何をしてるの?」
「見たとおりよ。みんなで饅頭を食べてるわ」
「えーと、そうじゃなくて・・・どうして、あの人たちは、一緒にいるの?」
レンがそう聞くと、ツァイはハッとしてレンを見つめた。
「・・・家族だからよ」
「家族?」
「そう。・・・あの女の人が、お母さん。子供達が・・・その子供。私とレンと、同じね。それから・・・あの男の人が、お父さん」
「お父さん?」
「そう。・・・お父さんと、お母さんと、子供の・・・家族」
「家族って、みんなそうなの?」
「そうでもないわよ。お父さんかお母さん、どちらかがいない家族もあるし、子供がいないこともあるし・・・反対に、お父さんのお父さん、お母さんや、お母さんのお父さん、お母さんが一緒にいる家族もあるし。色んな形があるの」
「うちには、お父さんがいないね」
「そうね」
「どうして?」
「一緒にいられなくなったの」
「・・・死んじゃったの?」
「いいえ・・・遠いところにいるわ」
「じゃあ、どうして一緒にいられないの?お父さんのこと、嫌いなの?それとも、お父さんが僕たちのこと、嫌いなの?」
「そんなことは、ありません。ただ・・・」
「ただ?」
「私が側にいると、お父さんに迷惑がかかるんです。だから・・・離れることにしたんです」
「・・・お父さんには、会えないの?」
「いいえ・・・時期が来たら、あなたはお父さんに会いに行けばいいわ」
「それって、いつ?」
「まだまだ先よ。あなたがもっと、大人になってから・・・あなたはそれまで、もっと勉強して、色々なことを知っておく必要があるわ」
「どうして?」
「あなたのお父さんは、とても立派な人なの。だから・・・レンがお父さんと会った時、もし、・・・あなたが何もできない、何も知らないような人だったら、お母さんが恥ずかしいもの」
レンの父親のことを話すツァイは、ひどく悲しそうな顔をしていた。
だが・・・それ以上に、幸せそうでもあった。
レンはそんなツァイを見ながら、少し寂しく、けれども少しホッとした気持ちになっていた。
その日の帰り道に、ツァイは書店に立ち寄ると、一冊の絵本を買い、レンに与えた。その絵本には、様々な術を駆使する仙人の姿が描かれていた。
水の上を歩いたり、とても速く走ったり。
すごい力で、大きな岩を持ち上げたり。
幾らでも食べられたり、全然食べなくても平気だったり。
遠くのものを見たり、聞いたり。
・・・そして、空を飛ぶ術。雲や黄鶴に乗って、自由自在に空を駆け巡るのだ。
レンは、その絵本がすっかり気に入ってしまった。
ツァイは、或いは良家の子女だったのかもしれない。その物腰は柔らかく、仕草は優雅で、気品があった。
住んでいる山小屋自体は質素なものだったが、卓や椅子などの調度品は、素朴ながら、さり気なく装飾的な意匠が施されていたし、食事もただ食べられればいいというものではなく、素材の切り方、火の通し方、味のつけ方に、一手間二手間かけたものが多かった。
そもそも、いくら簡単な造りとはいえ、黒仙でもないツァイが女手ひとつで山小屋を建ててしまうというのが驚きだ。
これはつまり、事前に現地の下見をして、女性でも扱えるような道具を自分で運んだということだ。となると、車や相応の資金も必要だった筈だ。
彼女は教養も高く、レンの読み書きや計算、科学、歴史などは、ツァイが一人で教えていた。
そしてレンはというと、これがまた天才的な頭脳の持ち主だった。
ツァイがレンに学問を教え始めたのは、レンが3歳になった頃からだが、レンが7歳の頃には、一般に国家が採用している・・・普通なら15歳までかけて学ぶような基礎教育のカリキュラムを、ほぼ修得してしまっていた。
だが、レンが一番得意なのは、読み書きや計算ではなく、氣の制御だった。
ツァイは実は上級の白仙でもあったので、こちらの指導もしていたのだが、レンの才能は並外れていた。訓練らしい訓練などしなくても、一度見せた技術はすぐに覚えてしまうのだ。
それだけではない。レンは8歳の頃には、上級の黒仙レベルの攻撃的な氣を扱いながら、同時に上級の白仙レベルの緻密で繊細な氣の制御能力を、両立させて持っていた。
もはや、一種の超人といってよかった。
だがレン自身は、自分の才能には無自覚だった。比較する人間が近くにいないということもあるが、それよりもただ、ツァイから色々なことを学ぶ毎日が楽しかったのだ。
そして、「よくできました」とツァイに褒められることが、ただ嬉しかったのだ。
レンは、本を読むのも好きだった。ツァイは少ない現金収入をやり繰りして、できる限りたくさんの本を購入した。
小説、歴史、科学。色々な本をレンは読み、理解していた。
だが、レンが一番好きだったのは、4歳の時に・・・「家族」のことを聞いた、あの日に買ってもらった絵本だった。
レンは一日に一度は、その絵本を眺めていた。その中でも特に、空を飛ぶ仙人が大のお気に入りだった。
そして自分でも空を飛べないものかと、練習まで始めていた。氣を足元で爆発させてみたり、自分の氣を大地の氣と同調させて、反発させてみたり。
だが、せいぜいが2〜3メートルばかり体が浮く程度で、しかも持続しなかった。そもそも、頭を上にしたままで、真っ直ぐに浮くこと自体が至難の業だった。