襲撃・1
ユエは、シュウが朝練に出掛けてから、昨日のあれこれを思い出しつつ氣功をしていた。
卵のことで、シュウと口論になったことや、シュウの上司のお宅でご馳走になった強いお酒が、まだ体に残っていないかな、とか・・・少々雑念に駆られながら、氣を練っていた。
・・・ちょうどその頃。
ペイジ国の元軍人で、白兵戦の専門家だった・・・「旧時代の遺物」シバは、そのペイジ国の宿屋の一室で、練功をしていた。
上半身は裸で、拳術の套路をゆっくりと・・・一見して、止まっているのではないかと思えるほど、ゆっくりとした動きで練っていた。
その体は、63歳とは思えないほど鍛え上げられ、引き締まった筋肉をしていた。無駄な肉がついていないので、決して筋肉が隆々としているわけではない。
だが、2メートル近い巨躯と相まって、その肉体は圧倒的なボリューム感をかもし出していた。・・・とはいうものの、腰まで届く長髪や、胸まで伸びた髭などは、もう真っ白だ。
その長髪が揺れないくらい、シバの動きはゆっくりだった。
その髭がそよがないほどに、呼吸は静かだった。
しかし、その肌には玉の汗がにじんでいる。
それほどシバの筋肉は、激しく活動し、躍動感に満ちている。
それでいて、緊張はしていない。
だからその拳足・・・いや、全身のいたる所が、敵に触れた瞬間に勁力を発することができる。
逆に、敵の攻撃が触れた瞬間に、その力をいなして吸収することもできる。
シバの技には、獰猛さと精妙さが同居していた。
そしてその技と同様に、シバの目の光は・・・野性的でもあり、知性的でもあった。
シバが泊まっているのは安宿なので、練功に使える空間は、せいぜい2メートル四方だ。だがシバは、そんな狭さなど意に介さず、手足を伸びやかに動かしていた。
「拳打臥牛の地」という言葉がある。牛が一匹寝るだけの広さがあれば、拳術の練習はできる、という意味だ。シバの動きは、この言葉を見事に体現していた。
彼にとって、「場所がないから練習できない」などというのは、ただの言い訳に過ぎない。
シバは、子供の頃に老師について武術を習い始めてから、殆んど毎日、休まずに練習をしていた。彼にとって、練習は習慣以上のものだった。
練習を休むことは、弱くなるということだった。強くなることに憧れ、軍人となり、戦場を経験してきた彼にとって、弱くなることは恐怖だった。
実際に、戦場では強くなる工夫を怠ることは、死を意味した。
だから毎日練習をした。それが、軍隊が解隊されてこの年になってからも、ずっと続いていた。練習のない日常など考えられなかった。
シバは拳術の套路を練り終えると、自然体で立ち、腕をダラリと垂らしたままで、両手を無造作に握ったり開いたりした。
すると手が開くたびに、氣が掌の中で、雷、炎、引力、光、凍気・・・と、目まぐるしく属性を変えた。
シバは、特級の黒仙でもあった。
練功を終えたシバは、汗を拭いて服を着ると、髪を丁寧に上げて、頭の天辺で丸く結った。それだけでシバの目が、知性の光を増したようだった。
だが、寝台に乱暴に腰をかけて・・・荒々しく息を吐いた瞬間、その目は鬼気迫るような焦燥感に占拠されていた。
吼えるような吐息に、部屋の空気がビリビリと響き、カーテンが揺れた。
気合いでも、呼吸法でも何でもない。
ただ、イライラして吐いた息だ。
(今日も、何の発見もなかった・・・)これが、シバの焦燥の原因だった。
シバは、単なる趣味や健康維持のために練功をしているのではない。強くなるためにやっているのだ。
だから、練習の中で自分の成長を実感できることが、彼には必要だった。
ほんのちょっとしたことでいいのだ。
拳を握る時に、指を曲げるタイミングとか。
立った時の、足底にかかる体重の配分とか。
動きを切り返す時に、股関節にかける意識の割合とか。
そんな小さな発見の積み重ねが、大きな強さにつながるのだ。
若い頃は、毎日いくつもの小さな発見があった。それが楽しかった。実際に、気付きひとつで拳速が上がったり、相手の動きが見やすくなったりした。
だが、最近は何の発見も、気付きもない日のほうが多くなった。
戦場で戦うことのない今、強くなっていることを実感するのは、日々の練習の中の発見や気付きに因るところが大きい。それを感じられないのなら・・・強くなれない練習なら、そんなものはシバにとっては無意味だ。
「今が・・・ワシの強さの、頂点かもしれん」シバは、寂しそうに呟いた。
彼にとって「頂点」とは、「極めた」という建設的な意味を持たない。
もう、これ以上は伸びない・・・強くなれない、という意味だ。シバにとって、これは生きる意味を奪われたに等しい。
そしてまた・・・シバの中で、黒い欲望が頭を持ち上げた。
(これ以上、強くなれないのなら・・・せめて、今の力を試してみたい・・・)シバはハッとして頭を振り、湧き上がった闇を追い払った。
寝台から立ち上がり、洗面所で顔を洗い、水を飲んで・・・鏡を覗き込む。
すっかり年老いた自分がいた。
「今更、何を考えている・・・この国は、ワシ自身が命をかけて守ったのだろうが・・・ワシだけじゃない。ワシと戦った、他の国の兵士達も・・・生き残った者も、死んだ者も・・・たくさんの犠牲の上に、今の世があるのだ。それを今になって、かき乱すなど・・・」押し殺した声で、鏡を通して自分に言い聞かせた。もう、何度繰り返したか分からない。
シバはイライラした気分を抱えたまま、外套を羽織ると、宿の勘定を済ませて街へ出た。
爽やかな筈の朝の空気も、気持ちを軽くしてはくれない。
頭の中で、呪文を唱えるかのように(山へ戻ろう)と、繰り返した。
だがその足は、どこへ向くでもなく、ただブラブラと早朝の街をさまよい歩いた。
ペイジ国での・・・というより、人里での用事は、昨日のうちに済んでいる。
シバは年に2〜3回、こうして山から人里へ下りていた。
目的は、山で集めた宝石の原石や薬草を売って現金に換え、その現金で新しい衣類や刃物、充氣器などの生活用品を購入することだ。
人工宝石が開発されたとはいえ・・・いや、むしろだからこそ、天然の宝石の価値は上がっていた。
人工宝石は品質こそ安定しているが、癖がなさ過ぎるので、飛び抜けた性能は期待できない。そこへいくと天然の宝石は、品質にはバラツキがあるものの、最初から特定の能力を持っていることが多く、加工次第でその性能に特化させることが可能になる。
薬草も同様だ。人里で栽培できる薬草の品種は限られている。深い山や森の中にしか生えない薬草には、常に高値が付く。
昨日は、少し商談に手間取ってしまったが、その甲斐あって予想以上の現金が手に入った。その金で、充氣器や塩、砥石や衣類などを購入すると、もうすっかり日が暮れていた。
普段なら、すぐに山に戻ってしまうのだが、金に余裕があったのと・・・ほぼ30年振りの故郷に、もう少し居たいような気がしたのとで、珍しく宿に泊まった。
だから、こうして人里で朝を迎えるのも、実に久し振りだ。
公園で氣功をする者。拳を練る者。仕事に出掛ける者。夜の仕事から帰る者。道端で饅頭や麺を売る屋台。