口論・1
フェイとシュウが、珍しく貸切状態の格技室で朝練を始めた頃。
ユエはアパートの一室で、氣功をしていた。足を肩幅に開いて、腰をやや落として立ち、大木を抱えるように両腕を丸く伸ばして、静かに呼吸を繰り返し、氣を練る。
18歳になったユエは、身長が170センチちょっと・・・つまり、兄のフェイよりずっと大きくなっていた。
顔はだいぶ大人びてきたが、相変わらず丸顔だ。肩まで伸びた髪は、フェイよりも濃い茶色をしている。
ユエは氣功を終えると、軽く体を揺すって氣を整えた。
両手を胸の前に揃えて、掌を上に向ける。意念を凝らすと、掌の上で雷が弾けた。
雷を見つめながら、大きく息を吸って・・・また、静かに吐きながら・・・雷を炎に変える。
同じように呼吸に合わせて、炎を引力に、引力を光に、光を凍気に変化させ・・・その凍気を天に還すと、空気中の水分が凍結してキラキラと輝いた。
軽く掌を合わせて、氣を収める。
「・・・よし(昨日はシュウの上司のお宅で、かなり強いお酒を頂いたけど・・・飲み過ぎなくてよかった)」ユエは氣の調整を終えると、部屋の片づけを始めた。
ここは元々、シュウが一人で住んでいた部屋だ。
フェイもシュウも、学校を卒業してからは家を出て、通勤に便利な街で部屋を借りて暮らしていた。
ユエは中級の白仙になって、フェイと同じ病院に勤めている。
白仙の学校を卒業する頃には、もうシュウとの結婚が決まっていたので、そのままシュウの部屋に引っ越してきたのだ。
あまり広くはないし、ユエもシュウも部屋を飾ることにはあまり興味がなく、生活に必要な道具がポンポンと置いてあるだけなので、少々地味な新居ではある。
しかし、きちんと整理されていて清潔感があるので、居心地は悪くない。
ユエは洗濯機を開け、氣功をしている間に済ませておいた洗濯物を干し、掃除機をかけた。
家事はシュウもこなすが、細かく分担を決めたりはしていない。気が向いた方がやるだけだ。それでも今のところは、どちらか一方に負担がかかるでもなく、部屋もきれいに片づいている。
この世界にも、家事のための色々な道具がある。ただし、それらは電気やガスではなく、氣で動いている。
調理台は火氣の炎で。
冷蔵庫は水氣の凍気で。
掃除機は土氣の引力を吸引力にしている。
洗濯機は土氣の引力を、水と洗剤と洗濯物に込めたり抜いたりを繰り返して、揉み洗いをしている。
空調は火氣と水氣を切り替えて使う。
照明器具は金氣の光を灯す。
これらの氣の源は、太陽だ。
この世界のあらゆる建物の屋根には、太陽の光の「金氣」を取り込む呪符が備え付けられている。この呪符によって取り込まれた金氣は、相生の理を利用して水氣に変換され、充氣器に蓄えられ、保管される。
・・・停滞・休息の性質を持つ水氣は、保存に最適なのだ。
この水氣を用途に合わせて、属性を変換させて使用する。
氣の保存や変換、発現のための充氣器や呪符を作るには、宝石が欠かせない。
氣はあらゆる物に込めることができるが、長期保存と出力時の安定性において、宝石に勝る素材はないからだ。
勿論、どんなに高価な宝石でも、原石のままでは役に立たない。
専門の職人が磨き上げ、細工をし、呪術を施して、初めて実用に耐えうる部品となる。
ところで、宝石は限りある資源だから、掘り尽くしてしまったらどうするのか、という問題がある。
しかし、宝石は部品としての効力を失っても、呪術をかけ直せば再利用できる。
また、近年になって、炭に強力な土氣・・・引力を込め、人工宝石を造りだす技術が開発されたため、当面は宝石不足の心配はない。
ユエは部屋の片づけを終えると、椅子に座ってコップ一杯の水を飲み、一息をついた。
フェイとシュウが朝練をする日は、ユエも朝食を摂らずに家を出る。練習を終えた二人と落ち合って、外で食べるからだ。
「さっ・・・てと」ユエは弾みをつけて立ち上がると、コップを洗って部屋着を脱ぎ、衣装掛けの前で少し迷ってから半袖の服を選び、白と青でまとめて、軽く化粧をして家を出た。
(今日は・・・兄さんに、会いたいような、会いたくないような・・・)
ユエは歩きながら、どんな顔で朝食に臨もうかと考えていた。
いや、考えても無駄なのは分かっている。フェイの観察眼は、その冴えを更に増しつつある。
(私とシュウの様子を見れば、すぐに気が付くだろうな・・・うーん、ひょっとしたらもう、シュウを見ただけで勘付いてるかも・・・シュウは隠し事が下手だから・・・ま、それならそれでいいかな)
ユエはフラフラと定まらない思考を抱えつつ、(自白前の犯人って、こんな気分かもね)と、締まりのない笑顔を浮かべた。
もっとも停留所の近くまで来れば、だんだん人が増えてくるので、あまりだらしない顔もできない。
ユエは指の腹で、片頬を2、3回ぺたぺたとはたいて、表情を作り直した。
朝食抜きで家を出たので、乗合氣車はやや空いている。勿論ユエのお腹も空いている。
空腹を抱えながら座席につき、取り澄ました顔を作っていると、何だか昨日のイライラが再燃してきてしまった。
ただ、今はもう怒りよりも、自分の心の揺れ具合が滑稽で、可笑しさがこみ上げてくる。
ふと、外を見ようとしたユエは、うんざりしたような自分の笑顔が窓に貼り付いているのに気が付き、また片頬をはたき直して表情を締めた。
この世界では、車といえば四輪車のことだ。二輪車や一輪車は、雑技などの特殊な職業に就いている者しか乗らない。
その代わりに?馬車や牛車が普通に公道を通行している。
また、汽車や電車のように、線路の上を走る乗り物もない。
この世界の車の駆動機関の構造は、いわゆるガソリンエンジンにかなり近い。
ただ、シリンダーの中でガスを爆発させるのではなく、土氣の引力を発生させたり消したりを繰り返すことで、ピストンを動かしている。
もっともスピードはあまり出ない。最高速度は時速80キロぐらいだから、動物は勿論、人間でさえ氣で身体能力を向上させれば、氣車よりも速く走れる者が大勢いる。
つまり、この世界での車は、「速く移動する」というより「長時間、一定以上の速度で楽に移動する」もしくは、「大量の物や人をまとめて運ぶ」ためのものなのだ。
ユエは、警備隊本部の最寄の停留所で乗合氣車を降りると、いつもの食堂に向かって歩いた。
フェイとシュウは、まだ来ていない。
入り口の側で待っていると、少し肌寒くなってきた。
(んー、半袖にはまだ早かったかな?)周囲を見渡すと、半袖と長袖が半々か・・・少し長袖の方が多いか。
ユエは体を揺すって氣を練り、体温を軽く上昇させた。肌寒かった腕周りがポカポカして、気持ちがいい。それに空腹なので、氣がよく巡る・・・が、余計にお腹が空いてきたので、すぐにやめた。
この、「氣を練ると余計にお腹が空く」のは、ユエがまだ中級の白仙だからだ。中級までの術者が氣を使うと、自分の氣やエネルギーをどんどん消費してしまう。
だから、あまり大きな氣は扱えない。
これが上級以上の術者だと、天地から氣を取り込み、変換しながら練る技術に長けているので、自分の氣はあまり減らないし、より大きな氣を扱うこともできる。