朝練・7
実は、シュウの狙いはこれだった。
フェイは子供の頃の喧嘩を除けば、打ち合いはシュウとしかしていない。
それでも高い実力を身につけたフェイの才能は並ではない。この才能を、このまま埋もれさせるのは惜しい。
もっとシュウ以外の、色々なタイプの実力者と経験を積めば、まだまだフェイは伸びる・・・シュウはそう考えたのだ。
後方回転をして立ち上がったシュウは、バネがはずむようにフェイに向かって突進し、火氣を込めたままの右拳を振りかぶる・・・のはフェイントで、左拳を突き出して牽制しながら、左足をフェイの左肩近くまでハネ上げ、外へ振り回す。擺脚(外回し蹴り)だ。
フェイは軽く退いてこの蹴りを見切る。
(フェイはここからすぐに踏み込んでくる)シュウはそう判断して、振り回した左足を床に下ろさず、空中で切り返して里合腿(内回し蹴り)に変化させた。
(これがフェイに当たればよし。フェイが踏み込んでこなければ、左の踹脚(横蹴り)か、一回転して右の裏拳に繋いで追い打ちを・・・)
シュウがここまで考えたところで、フェイの右足刀がシュウの軸足を蹴り抜いた。
シュウの里合腿はフェイの手前で止まり、シュウはまた尻餅をついた。
「擺脚への繋ぎはよかったんですが、里合腿への切り返しに無理がありましたね」
シュウの読み通り、フェイの武術の実力は、講師を務めることで更に伸びていった。
色々なタイプの人間との散手は、即ち色々な人間の観察でもあるので、白仙の修行にもなっていた。警備隊の訓練は荒っぽいので、怪我人も多い。その治療もいい勉強になった。
ただこの頃から、フェイとシュウの実力差が開き始めた。フェイとシュウが散手をすると、フェイが三本取る間に、シュウはやっと一本取れるかどうかだった。
二人は休日には、よくお互いの家を行き来していたが、話題は大抵武術のことで、興が乗るとすぐに練習が始まった。
ある夏の日、シュウがフェイの家を訪ねて、いつも通りに武術の話から、庭に出て散手が始まった。
ユエはそれを二階の部屋の窓から、半ば感心し、半ば呆れつつ見ていた。
白仙の学校に通っている兄のフェイはともかく、シュウは警備隊の学校で毎日訓練を受け、更にフェイと朝練までしている。(その上、たまに遊びに来たかと思ったら、また練習してるんだから・・・)
そんな想いが、つい口から出た。「ねえシュウ、そんなに頑張っちゃって、疲れない?」万事において淡々とした態度のフェイと違い、ユエは気持ちが表に出るタイプなのだ。
「うん?いや、そんなことはないな。俺は元々頑丈だし、こうして練習するのが楽しいし・・・それに、フェイには随分差をつけられちまったからな。頑張らなきゃ追いつけねえよ」そう言ってシュウが笑う。
「いや、差なんて・・・そんなにないよ」フェイが否定する。フェイにとっては武術の腕とは関係なく、まだまだシュウは頼れる兄貴なのだ。
「頑張って追いつくって、武術のことだよね」窓枠に肘をついて、ユエが尋ねる。
「そうだよ」
「武術って、強くなるためにやってるんだよね」
「そりゃそうだ」何を今更、という顔でシュウがまた笑う。
「でもさ、強いって一体何なの?」
「・・・んーっ・・・?」シュウの笑顔が固まる。
実はユエは本音では、強いだの弱いだのといったことには、あまり興味はなかった。
ただ、武術を通して「強さ」にこだわる兄とシュウを見て、(この二人にとって『強い』ってどういうことなんだろう)という素朴な疑問が湧いたのだ。
ところが、フェイもシュウも絶句してしまった。
武術とは、敵を倒すための技術だ。それが「強さ」の形のひとつなのは間違いない。しかし、それが「強い」ということの全てではない・・・フェイにもシュウにも、そのぐらいは分かる。
かといって、それなら「強い」ということを、どう定義づければいいのか?
ユエの単純かつ根本的な問いに、二人は軽い放心状態に陥ってしまった。
「・・・ごめーん。何かややこしいこと聞いちゃった?」謝るというより、二人の狼狽が可笑しくてたまらないような口調だ。
「ハハ・・・面目ないな」シュウが頭をかく。
「ねえ、シュウは兄さんに追いつきたいの?」
「ああ、そうだ」
「あのさ、私にも『強い』って、どういうことなのかよく分かんないけど・・・そうだなあ、正直言って『ただ打つ』ってことだけなら?兄さんのほうが上手いかもしれない。でもね、『強い』ってことなら、私にはシュウのほうが、兄さんより強く見えるよ」
「・・・へえ?」シュウは意外そうな顔をした。
「そうなんだ、シュウ。僕も上手くは言えないけど、周りから見れば、君のほうが強く見えるんだよ」フェイもユエの言葉に同調する。
実際、ユエの見方は間違っていない。
シュウは武術の腕で、かつては自分よりはるかに劣っていたフェイに追い抜かれ、逆に大きく差をつけられても、決して卑屈にはならなかった。
それどころか、親友の成長を自分のことのように喜び、謙虚にもフェイから学べるところは学ぼうとしている。
これは、シュウが自分を信じているからできることだ。そしてこの自信は、シュウの優しさと不可分の関係にある。
自分を信じているから、卑屈にならず、人を妬まずにいられる。だから分け隔てなく人と接していられる。自分も他人も同じように大事にできる。
これがシュウの「優しさ」だ。そしてこの優しさこそが、シュウの強さ・・・「人を惹きつける力」の源になっている。
そもそも、人が一人でできることなど高が知れている。集団の力というのは、間違いなく「人間という生き物」が持つ「強さ」のひとつだ。
そういう意味では、シュウの「人を惹きつける力」は、確かに強さだといえる。
これがフェイの場合、彼の才能は、時には卑屈に、時には人を羨むことで伸びてきた部分がある。これはこれで技術の向上には役立つが、「人を惹きつける力」にはなりにくい。
・・・優しさにも色々な形があるが、往々にして優しさを発揮するのは容易ではない。他人に優しくするには、まず自分にそれだけの余裕が必要なことが多いからだ。これがいわゆる「強さの裏付けがなければ、優しくなれない」という考えを生む。
だが、シュウは別に何かの根拠があって自分を信じているわけではない。
ただ、信じたいから信じているだけだ。それがシュウの優しさになり、ひいては強さになっている。
いわば、シュウの強さは「優しさの裏付けがある強さ」なのだ。
この強さを感じているのは、ユエやフェイだけではない。
訓練学校の教官も学生も、シュウとフェイの散手を見て、「フェイのほうが技術は高い」と思っても・・・それでも、「シュウがフェイより弱い」などと思う者は、殆んどいなかった。
もっとも、当のシュウにはピンと来ない。シュウの強さを一番理解していないのは、実はシュウ自身なのだ。
ただ、この日のこの瞬間から、シュウのユエを見る目が変わった。
以前から見慣れている筈の丸顔や、少し茶色がかった髪や、大きな瞳などなどが・・・急に可愛らしく感じられてきた。
早い話が、シュウはユエに恋をしたのだ。
シュウとフェイが18歳、ユエが14歳の夏だった。