朝練・1
シバが世界に錬武祭の開催を告げる、それより5年前に遡る。
この世界で最大の国家、ペイジ国の・・・警備隊本部の格技室に・・・フェイがいた。後ろで無造作に束ねた栗色の長髪。袖も裾もゆったりとした空色の服。黒の布靴。
季節は初夏だったが、まだ早朝でもあり、室内はややひんやりしていた。
フェイは自然体で立ち、ユラユラと体を揺らしながら、氣を練っていた。丁寧に、陰と陽の変化を確かめている。
この世界は、「氣」で満ちている。
氣は万物の源であり、虚無であり、具象であり、現象であり、それらを動かし、止め、変化させる「力」そのものだ。
氣があるとか無いとかいう議論は、この世界では意味を持たない。
それはこの世界では、人々がごくありふれた日常生活のための力や道具として、当たり前に氣を使っているからだ。
そしてそもそも、氣には「無い」ということも含まれているからだ。
氣の変化は、まず「陰陽」からだ。無極渾沌が二つに分かれ、陰陽が生じる。
陰の氣は、休息し、寒冷で、暗く、下降する性質を持つ。
陽の氣は、活動し、温熱で、明るく、上昇する性質を持つ。
陰陽とは相対的なもので、絶対ではない。
例えば、お湯は水と比べれば陽だが、火と比べれば陰となる。
例えば、夕暮れは昼間と比べれば陰だが、夜と比べれば陽となる。
ただ実際には、陰陽は人間を基準として判別されることが殆んどなので、例えば暖かいお湯は素直に「陽」に分類し、わざわざ「火と比べれば陰だ」などということは、実用上はしない。
また、陰陽は常に混じりあい、変化する。陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる。
例えば、夜に陰が極まった後は、陽に転じて朝になるように。
例えば、燃え盛る炎が陽を極めた後、いつかは燃え尽きて陰となり、冷たい灰となるように。
陰陽の変化は、氣の変化を表す理の基礎だ。
そして、人が日常生活で利用する氣は、その多くが「五行」の理に則った属性を持つ氣だ。
五行とは、木、火、土、金、水で表現される。五行とは、五つの要素ではない。あくまでも氣の変化の一部を便宜的に捉えたもので、固定されてはいない。
木氣は、伸びやかで、生長・発育しようとする性質を持ち、物理的には「雷」となる。
火氣は、より活動的で、温熱の要素が強まった性質を持ち、物理的には「炎」となる。
土氣は、広がった力が頂点に達し、まとまって安定・成熟しようとする性質を持ち、物理的には「引力」となる。
金氣は、より安定し、これから収斂しようとする性質を持ち、物理的には「光」となる。
水氣は、収蔵・停滞し、寒冷の性質を持ち、物理的には「凍」となる。
フェイは両掌を向かい合わせ、氣を集中させた。
掌の間に火花が散り、それが次第に大きくなって、拳大になる。木氣の「雷」だ。そのまま両掌で雷球を転がすように練りながら、ふっ、と息を軽く吐く。
たちまち雷球が崩れて赤くなり、炎となって揺れる。火氣の「炎」だ。
今度は炎をかき混ぜるように揺らすと、炎が消え、両掌に挟まれた空間が歪んだような気配を放ち、空気がざわめいた。土氣の「引力」だ。
五行は相生関係にある。
木が燃えて火となる。木生火。
火が燃え尽きて土となる。火生土。
土から金属が掘り出される。土生金。
金属に結露して水が付く。金生水。
水は木を育てる。水生木。
フェイは掌の中で、この相生現象を演じているのだ。
土氣を捏ねるように練り、金氣に変化させる。窓から差し込む朝日がかすむほどの強い光が、掌から溢れる。
掌の間隔を狭めると、光が水蒸気に変化していく。水氣の「凍」が空気中の水分を凍らせたのだ。
この世界の人間は、意念によって氣を制御したり、任意の属性を持たせることができる。しかし、誰もが五行の氣全てを自在に扱えるわけではない。フェイの才能は特別なのだ。
格技室には、男がもう一人いた。
短く刈り込まれた髪。鋭い眼光。精悍な顔つき。骨太で筋肉質の体に、白の上下、青い帯、黒の長靴・・・警備隊の訓練着を着ている。身の丈は180センチと少しか。
男は黙々と、体を折り曲げ、反らし、腕を回し、軽い跳躍を繰り返していた。皮膚がうっすらと汗ばみ、赤みを帯びている。
頃合を見て、男は自然体で立つと、両拳を握り締めて氣を集中させ始めた。
男の両拳の周囲にバチバチッと火花が散る。フェイの雷より派手で荒っぽい。
そのまま両拳を胸の高さに上げ、腕を伸ばして・・・息を口から静かに吐いて・・・雷を炎に変える。
「そろそろ始めましょうか」フェイが男の方へ歩み寄る。
「んっ・・・」男がいきなり炎を纏った右拳を、フェイに突き出す。
フェイは右掌に木氣を込め、男の拳をトスでも受けるかのように掴んだ。途端に炎の勢いが上がり、小さな爆発を起こして弾ける。
「熱いじゃないですか、シュウ・・・もうちょっと手加減してください」
「だったら、水氣で受ければいいだろう」シュウと呼ばれた男が、歯を見せて笑った。
フェイの身長は150センチそこそこだから、こうして二人が並ぶと大人と子供ぐらいの体格差がある。しかし、フェイはその抜群の安定感からかもしだされる佇まいのおかげで、シュウと比べても小ささを感じさせなかった。
このシュウという男は、22歳の若さで警備隊の機動部隊の部隊長を務めていた。
機動部隊は、警備隊の各支部に4〜5部隊、本部であれば10部隊ほどあり、部隊ひとつが10人前後で編成されている。
シュウは、ペイジ国警備隊本部の第九機動部隊の部隊長だ。
彼は格闘戦に優れたタイプで、氣弾は撃てないが、機動部隊のひとつを束ねるだけあって、格闘の実力はかなりのものだ。
シュウが炎の拳を繰り出したのも、フェイがあえて木氣で受けたのも、勿論冗談だし、二人とも充分に手加減をしていた。ただし、少々危険な冗談だ。
フェイとシュウがやったのは、五行の相生関係の戦闘への応用の一例だ。この場合は木生火の理を使っている。
シュウの炎にフェイが木氣を重ねることで、火氣が木氣を吸収して急激に膨張したのだ。
炎で攻撃してきた者を自滅させるための技術だが、タイミングや氣の制御を誤れば、木氣で受けたほうも巻き込まれてしまう。それどころか、相手のほうが氣の制御に長けていれば、膨れ上がった炎で一方的に押し込まれるだけだ。
「じゃ、無難にやりましょう」フェイは呼吸を整え、掌の木氣を水氣に変化させた。
「っしっ!」シュウが鋭く、しかしどこか抜けた感じで、歯の隙間から息を吐き出しつつ、フェイの顔面に炎の拳を左、右と続けて放つ。
フェイは軽く退いて左を見切り、右を左掌で掴む。
すがさずシュウは、フェイの腹を狙って左拳を振り回す。フェイはこれも、右掌で掴む。
火氣が水氣にかき消されて、ジュッと一筋の煙が立ち昇る。
これも、二人にとってはただの遊びだ。特にフェイの場合、本気であれば右拳を掴んだ時点で、それを手掛かりにして死角に入り、反撃をしている。相手の次の攻撃を待ったりはしない。
そもそも、正面から拳を「掴む」こと自体が、フェイの流儀ではない。彼が相手の攻めを捌く時は、常に側面から粘り付くように封じるのだ。
「熱くなかったかい?」また、シュウが笑う。
「はい」フェイも笑った。