交渉・5
ムイは数秒ほど呆然としてから、我に返って拳を握ると、呼吸を整えて氣を練り、拳との連絡を確認した。その表情に、懐かしさと歓喜と、凶悪さの混じった笑みが浮かび・・・すぐに消えた。
「お前・・・何のつもりで、こんなことをした?」
「あなたと拳の勝負をするためです」
「フン、そんな気がしたわい・・・嫌味な奴だな。これ以上、ワシをなぶり者にする気か?ワシの拳にあるのは、破壊力だけだ。当てる技術が無い。とてもお前には命中せんよ」
「かわしませんよ」
「・・・何だと?」
「かわさないと言ってるんです。普通の打撃戦をやるつもりはありません。お互いに、相手の拳を狙って全力で打つんです。これなら純粋に、拳の力だけを比べられます・・・あなたの信念を賭けた拳と、僕の・・・復讐を賭けた拳の、勝負です」
「なぜだ?何のためにそんな・・・」
「そうよフェイ!そんな面倒なことしていないで、早くトドメを!」
「女、お前は黙っとれ!」ムイの怒声一発で、パイはまたフェイの背後に座り込んだ。
「理由は簡単です。あなたの拳では、シバを確実には倒せないんでしょう?」
「う・・・むっ・・・」
「それなら、まずはあなたの拳より強くなければ、シバを倒すのは難しい・・・シバを倒せない拳なら、要らないんですよ」
フェイを呆れ顔で見ていたムイが、次第に強気を帯びてきた。その体の周りの黒鎧氣は、一層勢いを増している。
「お前、自分が何をしようとしているか、分かっとるのか?」
「勿論です」
「いいか、ワシの拳に閃飛角以上の破壊力があったのは、ワシが黒鎧氣を纏う以前からだ。分かるか?今、ワシは黒鎧氣を纏っとる。その分、拳の破壊力は桁外れに上がっとるんだ」
「そうでしょうね」
「しかもだ。いくらワシの攻防技術が拙くても、黒鎧氣で高められた身体能力は、それを補って余りあるぞ。・・・はっきり言おう。今のワシを取り押さえられるのは、ワシと同じレベルで黒鎧氣を纏った者か、シバか、あとは風刃脚のウォンに、華炎嵐舞鞭のラウ。それから・・・」
「僕ぐらいでしょうね」フェイが微笑する。
「・・・そうだ」ムイは苦笑した。
「・・・ねえ、ちょっと・・・あのオッサン、今もそんなに強いの?」パイの声が震えている。
「そうです」
「そうだ。もし、この男が・・・この、馬鹿げた拳の競い合いに、負けでもしたら・・・この場にワシを止められる者は、いない」
パイは気が遠くなった。
「パイさん、気を失ったりしないでくださいね」フェイが振り返って笑う。その笑顔が神経を逆撫でする。
「うるさい。いっそ気を失った方が楽よ」
「でも、死にたくはないでしょ?」
「当たり前よっ」
「じゃ、起きててください。あなたの『助けを求める心』がないと、僕の銀衛氣は消えてしまいますから」
フェイはムイの方に向き直り、左拳を突き出す。
ムイも同じように左拳を突き出す。
両者の拳から放たれた氣が、空中でスパークした。
「では、ここを狙って打ちましょう」
「承知した」
二人は呼吸を整え、氣を高める。
フェイの体内で銀衛氣が、ムイの体内では黒鎧氣が、パンパンに張り詰めるように膨張し、細胞を活性化させる。
ふと、ムイがパイを見る。「よう、お嬢ちゃん。そういえばさっきから、色々とつまらんことをほざいてたな」
「えっ?そうでしたっけ?いやそんな、悪気があったんじゃなくて、つい本音が・・・いやいやいや、気分を悪くされたのなら、本当にごめんなさい」
「・・・もういい。・・・もし、この打ち合いで勝てたら・・・真っ先にお前を打ち殺してやる。楽しみにしていろ」
(やっぱり逃げればよかった)パイの全身から脂汗が噴き出た。(いや、今からでも遅くは・・・駄目だ。私が離れたら銀衛氣が消える。そうなったらフェイは瞬殺されて、ムイが走って追いかけてきたら、とても逃げ切れない・・・どうしても、フェイに勝ってもらわないと)
「パイさん」フェイが、ふと思いついたような顔をする。
「・・・はい?何?(必ず勝つから大丈夫、とか言ってくれー)」
「あの、ついでですから、打つ合図をしてくれませんか。『構えて』『用意。打て』って感じで」
「ついでかっ?あーもうっ・・・」パイは惨憺たる気分を抱えて、二人の側面に移動した。・・・それでも、何かやることがあれば気が紛れる。そして、これがフェイなりの気遣いだということも、かろうじて分かっていた。
「で、準備は?」
「いつでも構わん」
「お願いします・・・あの、パイさん」
「何よ」
「大丈夫、勝ちます」
「・・・頼むわよ」パイは苦笑して右手を上げる。「構えて」
フェイが左足を半歩踏み出す。
ムイは両足を左右に揃える。
両者の距離は2メートル弱か。周囲の氣が、揺れながら二人の体に粘りつく。
「用ー意っ、・・・てぇーっ!」パイが右手を振り下ろした。
ムイの右足が前蹴りの如く跳ね上がり、フェイの左足が滑り出す。
ムイが急激に腰を落とし、右足を踏み降ろす。地響きと共に、石畳が砕けて凹み、大地からの反作用がムイの体を駆け巡る。
フェイは左足で石畳を掴む。並進運動がいきなり回旋運動に転化され、絞り込まれた勁力が錐のように鋭く右拳へ向かう。
「呀!」ムイが気合いと共に、体内の黒鎧氣を爆発させる。その衝撃を、体術で発生させた勁力に乗せ、右拳に凝縮して打ち出す。
「啍!」フェイも鋭い吐気と共に、銀衛氣を爆発させて勁力を増幅し、右拳に徹して打ち込む。
バキンッと鉄の塊り同士をぶつけたような音を立てて、二人の拳が衝突した。
拳の間から、闇と閃光が飛び散る。だが闇は次第に、銀色の光に呑まれて勢いを弱め・・・そして闇がかき消された瞬間、フェイの勁力がムイの腕を貫き、その体内で反響した。
ムイの右肩の肉が弾けて、血煙が上がる。右腕の皮膚のあちこちが裂けている。血をゴボリと吐き、左膝がガクリと落ちる。
だが、その顔には微かに笑みが浮かんでいた。
「最高の一撃だった・・・」ク、ク、と力無く笑う。
そこには、最高の一撃を繰り出せたという満足感と、それでもなお負けてしまったという自嘲感が混在していた。
「フェイ・・・あの・・・そいつ、もう動けないよね・・・」
「はい」髪と目が栗色に戻っていく。
「じゃ、あとは警備隊の方で処理するから・・・」パイの額の光も消えていく。
「気にするな、女。こいつには・・・ああ、フェイ、だったな・・・フェイには、まだやることがある」
フェイがゆっくりと歩を進め、ムイの前に立つ。フェイの目は、いよいよ凍りつくような光を発していた。
ムイは右膝も地につけ、血だらけの右腕を押さえながら、苦痛に顔を歪める。顔を上げて、チラリとフェイを見て・・・すぐに俯いた。
「さ、今度こそ・・・討て。その先にシバがいる・・・」
「・・・さっきは言い損ねましたが」言っても言わなくても、どうでもいいことなのだが・・・そんな口調で、フェイが切り出した。「僕が交渉に使った交換条件は、もうひとつあるんです」
ムイが(え?)と(それがどうした?)という二つの思いを貼り付けて、顔を上げた。