覚醒・1
パイはピリピリと痛む頬を押さえながら、殆んど地中に埋もれている九節鞭の先端を見て、背筋が冷たくなるのを覚えた。
(何よ、これ。・・・こんなのがまともに頭に当たったら、死んでたわよ・・・)
頬の傷の痛み。紙一重ですり抜けていった死。
その、リアルな痛みと死のイメージが、パイの感情を揺り起こす呼び水になった。
「感じる・・・」
「え?」ランはまだ虚ろな目でパイを見る。
「感じるのよ。恐いって・・・ちゃんと・・・だから、今、シバを見れば・・・」だが、まともに感じれば心が壊れてしまうかもしれないほどの恐怖を受け入れる勇気は・・・湧いてこない。
(勇気?違うでしょ。私の行動原理はそんなのじゃない・・・今、フェイの銀衛氣が発動しなけりゃ、みんな死んじゃうかもしれないんだから・・・そんなの御免だわ。私は生き延びたいのよ。だから・・・!)
パイは意を決して、顔をシバのほうに向けた。その目に、もはや半分以上「魔」そのものと化したシバが映る。
「フェイ・・・!」助けて、という言葉は続かなかった。
フェイはもう、シバに手が届く所まで来ていた。
(銀衛氣が使えない以上、僕の本来の戦い方をするしかない・・・とにかく死角に回って、点穴でも何でも・・・)
だが、フェイが考えをまとめるよりも先に、シバの右拳がフェイを襲っていた。
フェイは咄嗟に左へ滑りながら、シバの拳を捌こうとして・・・自分の体の変化に気付いた。
フェイはシバの拳を捌くのを止めて・・・
右拳を。
固く。
握って。
思い切り打ち抜く。
ごきごき、という音に少し遅れて、「んんあっ?」というシバの叫びが響く。
シバの右手は後方に大きく弾かれ、その五指はあらぬ方向に曲がっていた。
・・・完全に骨が砕けていた。
「がっ・・・フェイ、貴様・・・!」シバの目に、初めて怒りの炎が点る。
新しく手に入れた玩具を、取り上げられた子供の目だった。
「どうですか、シバ。恨みのこもった拳の味は・・・何はともあれ、あなたも不死身じゃないってことだけは、よく分かりましたよ」フェイが右拳をシバに向けて突き出しながら、冷たく言い放つ。
その右拳には、シバの拳を砕いた生々しい感触が残っていた。
「さて・・・あなたの心配に、今のような状況は想定されてましたか?」フェイは拳を下ろしながら、シバを真っ直ぐに見た。
その目は・・・銀色に輝き、髪は・・・後ろで髪を括っていた元結が切れて、銀色に輝きながら逆立っていた。
「確かにあなたの巨大な殺氣は、パイさんの『恐怖心』ひいては『助けを求める心』を封じることができていました。でも・・・人間の心というのは、そう簡単なものじゃありません。きっかけひとつで・・・何がきっかけになったのかまでは、分かりませんが・・・とにかくパイさんは、自分を取り戻しました。その結果、あなたの発している巨大な殺氣は、銀衛氣発動のために必要な、僕とパイさんの距離を飛躍的に伸ばし、かつ銀衛氣そのものの威力も大幅に上昇させることになったんです。今、僕とパイさんの距離は、20メートル以上あるのに・・・いまだかつてない程に、銀衛氣の氣勢が上がっています。今なら、どんなものでも打ち砕けそうな気分ですよ。それとも、これも嬉しい誤算ですか?」
「ぬぐ、ぐ・・・」
「フェイー!解説はいいから、早く片づけちゃってよ!もう、頭が変になりそう・・・」シバの殺氣に当てられて、精神に過剰な負担が掛かりっ放しのパイは、木の幹にもたれかかって息も絶え絶えにフェイを急かす。
「了解しました・・・終わりだ、シバ!」
フェイは更に氣勢を上げ、右拳を固めると、シバの懐目がけて大きく踏み込む。
シバの目が、焦りで大きく見開かれた。
(行ける・・・!)フェイの自信に満ちた動きを見て、ランの心に希望の光が射す。その「希望」が、シバの殺氣に縛られていたランの心を自由にした。
ランは目が覚めたような・・・自分の体を取り戻したような気分になって、呼吸を整える。
その両掌が明るく輝きだす・・・氣を練る力が戻ったのだ。
「パイさん、あなたも雷を・・・」そう叫びながら横を向いたランの目の前で、パイがずるずると木の幹を滑り落ちながら、ゆっくりと倒れた。
自信を持って踏み込んだフェイは、迷わず右拳をシバの胸目がけて打ち込む。
ぼん、と・・・鈍い衝撃が、フェイの拳から全身に広がった。
シバの体にではない。フェイの体に、その鈍い衝撃が広がっていた。
フェイの放った拳の勁力が、そっくりそのまま返されたのだ。
「そんな・・・?」フェイはやっと、銀衛氣が消えていることに気付いた。
振り返って見るまでもなかった・・・シバの巨大な闘氣が醸し出す「恐怖」を感じ続けることに、精神が耐え切れなくなって・・・パイが意識を失ったのだ。
「・・・はあっ、はあ、はあ・・・ふ、うぶ、ふ、ふはは・・・」
シバは荒い吐息の後、すぐに高笑いを上げてフェイを見下ろした。
「嬉しい誤算か。全く、そうかもしれん。ここまで激しく興奮したのは・・・本当に久し振りじゃよ・・・」
二人の足元に魔が集まり、草が闇色の波を打つ。
「ぬん!」シバが叫びながら右足を踏み降ろし、フェイが慌てて後方に跳ぶ。
魔吼砲が炸裂し、フェイの鼻先をかすめ、髪の先端が爆ぜる。
着地したフェイは・・・がっくりと、左膝を地に着けた。
「う・・・」フェイの左膝から下が、血塗れになっていた。
魔吼砲をかわしきれなかったのだ。
後方に跳んだ時、最後まで地に着いていた左足が、「魔」に捕まって切り刻まれていた。
「ふ・・・ふふ・・・ウォンか、フェイか・・・どちらを先に殺してやろうか・・・」シバはまた、新しい玩具を・・・それも二つの玩具を与えられて、どちらで遊ぼうかと迷う子供のような顔をして、フェイとウォンを交互に見比べた。
その時。
シバを目がけて、光の帯が襲い掛かった。
槍光穿だ。
「むっ?」シバは慌てて右腕を掲げると、右肘の一点に黒鎧氣を集中させて耐久力を上げ、光の槍を受け止める。
闇と光が火花を散らす、その遥か上空で、ボーンという爆発音が響き、続けてピイイイ・・・という風切り音が鳴った。
フェイが見上げると、空に真っ赤な雲が・・・いや、狼煙が上がっていた。ランが信号弾を打ち上げて、待機中の救援隊を呼んだのだ。
「フェイさん、もうすぐ助けが来ます・・・けど、ここに来たら、彼らも危ない・・・だから、レン君だけでも連れて、逃げてください。急いで!」ランが槍光穿を撃ち続けながら、声を枯らして叫ぶ。
「そんな・・・!」
「迷うな、フェイ!早く走れ!」ウォンも怒鳴り声を上げる。
「ぬっ・・・ぐ・・・この、小娘が・・・」
シバの右肘は、槍光穿によって確実にダメージを受けていた。
だが、充分な溜め時間を得られずに放たれた光の槍は、早くも先細り始めている。