油断・4
「あっ・・・はあっ・・・特殊な・・・はあっ・・・操作?」
「はい。僕が点穴したのは、肘の内側にある肺経の尺沢穴、心経の少海穴、心包経の曲沢穴という三つの合穴です。分かりますか?肺と、心と、心包。ここへ全ての氣が集中するように、合穴を操作したんです。だから今、あなたの心肺機能は異常に亢進して、心拍数と呼吸数が跳ね上がっているんです。ひどい動悸と息切れがするでしょう?」
「はあっ、はあっ・・・なるほどな。ふざけた・・・はあっ、真似を・・・」
「その代わり、それ以外の部分には気は通っていないし、通わせることもできません。いくらあなたの手が鍛え上げられているといっても、氣が通わなければ枯れ枝同然です。だから僕の蹴りでも砕けたし、僕の腕力でも折れたんです。・・・もう、あなたは戦えません。大人しく降参したほうが賢明ですよ」
「はあっ・・・冗談ぬかせ。誰が・・・はあっ・・・お前なんかに・・・」ヘイユァンは会話で時間を稼ぎながら、何とか氣の流れを回復させようと試みたが、上手くはいかなかった。
「まだまだ・・・はあ、はあはあ・・・勝負はこれから・・・」ハッタリだった。
「まあ、そう言うとは思いました」フェイがウンウンと頷く。
「・・・え?」
「いやね。いくら敵とはいえ、両手が使えない人を殴りつけて追い打ちをかけるなんて、ちょっとひどいかなと思いまして。だからまずは、あなたの体に起こったことをちゃんと説明して、その上であなたが戦意を失っていないようなら・・・まあ、殴ってもいいかな、と」
「・・・何か、フェイの気遣いもあそこまでいくと、嫌味っぽいわね」パイが苦笑する。
「と言うより、あれはもう最初っから嫌味でやってると思うぞ」ウォンも苦笑する。
「どうやら僕の期待通り、あなたはまだまだやる気満々のようですから・・・遠慮なく、殴らせてもらいますよ」フェイの髪と目の銀色が強く輝き、氣勢が上がり、右拳を握り締めて、ゆるゆると歩き出す。
「ちょっ・・・おい待て。そんな、氣の流れが偏った状態の俺を打ったら、殺しちまうんじゃねえのか?そしたら、お前の銀衛氣は・・・」
「大丈夫です。言ったでしょう?あなたの氣は今、心臓と肺腑に・・・つまり胸に集中しています。だから胸だけは極端に耐久力が上昇していて、ちょっとやそっとの攻撃ではびくともしません」その言葉が終わるや否や、フェイは右拳をヘイユァンの胸に向かって突き出す。
ヘイユァンは咄嗟に両腕を上げて、胸の前で交差させる。
だが氣の通っていない腕など、構えたところで何の役にも立たない。交差させた両腕は、フェイの圧倒的な拳圧の前になす術もなく、自身の胸に押し付けられていた。
それと同時にヘイユァンの胸の中で、勁力が爆発・反響する。
拳が直接触れている筈の両腕には、ダメージは無かった。
ヘイユァンは一年前に、山の中でヨウと戦った時のことを思い出していた。
(あの時は・・・ヨウの奴は、俺の胸に拳を当てて、勁力を、俺の胸を素通りさせて・・・俺の背中に当たっていた木に徹して、へし折ったんだったな・・・今回は、この白仙は・・・俺の腕に拳を当てて・・・勁力を素通りさせて・・・胸だけに、集中させたんだな・・・)
「・・・え?」フェイの一撃をまともにくらったというのに、吹っ飛ばずにその場に立ち尽くしているヘイユァンを見て、パイは少し拍子抜けしていた。これは、フェイがヘイユァンを吹っ飛ばさないように勁力を運用したためだ。
今、ヘイユァンの氣は胸だけに集中している。もしも派手に吹っ飛ばして、転倒した時に頭でも打ったりしたら、死んでしまうかもしれない。
だから吹っ飛ばさずに、勁力の全てが体内で爆発するように調節して打ったのだ。
「うわ・・・こりゃ効くぜ」フェイの打撃の意味を理解しているウォンは、胸を押さえながら舌を出した。
フェイはスッ、と拳を離すと、ヘイユァンに背中を向けて、ウォンとパイのほうに向かって歩き始めた。
「がっ・・・おおごぼ」だらしなく開いたヘイユァンの口から、呻き声と大量の血がこぼれた。
出血と共に、意識がゆっくりと遠のいていく。だが・・・この出血は、あくまでも意識を失うかどうかという程度に抑えられていて、命に別状はないと、ヘイユァンには分かっていた。
屈辱だった。
(くそっ・・・俺が・・・数多の実戦を潜り抜けてきた、百戦錬磨のこの俺が・・・こんな、甘ちゃんの白仙なんかに・・・手加減されて、負けるなんて・・・嫌だ。負けたくない。勝つんだ・・・まだ、戦える・・・負けねえ・・・勝つんだ・・・!)そして、ヘイユァンの自我が吹き飛んだ。
ヘイユァンが血を吐くのを見て、勝負がついたと思ったパイは、ほっとしてその場に座り込んだ。
額の光が消えて・・・フェイの髪と目も、元の栗色に戻る。
だが銀衛氣が消えるのと入れ替わりに、フェイは背後で急激に黒鎧氣が膨らむのを感じて、慌てて振り返った。
「あなたは・・・誰ですか?」
そこに・・・ヘイユァンが立っていた場所に・・・姿形こそはヘイユァンだが・・・別の、生き物がいた。
ヘイユァンは、黒鎧氣の本質の「魔」に取り込まれていた。
その目には白目がなかった。眼球全体が黒く染まっている。
フェイの点穴の効果も吹き飛んで、全身に黒鎧氣が漲っている。
もはやヘイユァンが黒鎧氣を纏っているのではなく、黒鎧氣がヘイユァンを操っていた。
その・・・ヘイユァンは、大きく前に・・・重力を無視したように、不自然に傾いてから・・・いきなりビャッ、とフェイに襲い掛かった。
「パイさん!」フェイが叫ぶ。
「パイさん!前見て!」ウォンもパイをせっつく。
「・・・へ?」パイは脱力していて、目の焦点が定まらない。
ヘイユァンは右腕を横殴りに振り回して、フェイに打ちかかる。技巧的というよりは、野性的な力任せの一撃だ。
肘が折れている筈だが、「魔」はヘイユァンの「戦いたい」という欲求の具現化だから、そのために体がいくら壊れようとお構いなしだ。
(駄目だ。銀衛氣は・・・間に合わない)フェイはやむを得ず、横に大きく跳んでヘイユァンの右手から逃げた。フェイの力で捌けるような打撃ではないからだ。
「わわっ?なな何?」ここでようやくパイが、「魔」のヘイユァンに気付く。
おかげでフェイは着地とほぼ同時に、銀衛氣を発動していた。
だがヘイユァンはフェイを相手にせず、ウォンとパイに向かって走り出していた。もうヘイユァンの意識は無かったが、「魔」はヘイユァンの「知識」を利用していた。
銀衛氣の発動したフェイと戦うのは、厄介だということ。
それよりもパイを殺せば、フェイの銀衛氣は発動しなくなるということ。
今、パイの前にいるウォンは、右足が使えないので戦闘力が著しく低下していること。
(つまり、今の俺はフェイより弱いと見られたってわけかい)ウォンは不機嫌そうに舌打ちをして、フェイを見た。
そのウォンの目を見て、ヘイユァンを追おうとしていたフェイは足を止めた。
(俺に任せろ、フェイ。・・・ヘイユァンは元気そうに動き回っちゃあいるが、壊れかけているのは間違いない。今、お前の拳で殴ったら、死んじまうかもしれんぞ。それじゃ困るだろうが・・・だから、こいつは俺が倒す)ウォンの目は、フェイにそう語っていた。