油断・2
「そうだ。よく気が付いたな。ま、白仙なら当然だよな・・・気付かずにあのまま打ち込んでいたら、俺は死んでたぜ」
「って・・・それじゃ、あの人、右手以外は・・・攻撃力は勿論、耐久力もゼロってことじゃないですか!もう、どこを打ったってフェイの勝ちですよ!」
「この勝負に限ってはな」ウォンの片頬が不満気に歪む。
「・・・え?」
「確かに今のヘイユァンなら、どこを打っても倒れるさ。銀衛氣を込めた拳なんていらんよ。パイさんが打っても倒れるだろうね。・・・ただ、倒れるだけじゃなくて、死んじまうんだよ。今のあいつの耐久力は、それほど低いんだ」
「ちょっと、それじゃ・・・フェイがあいつを打ったら・・・」
「そうだ。間違いなくヘイユァンは死ぬ。そしたらフェイの銀衛氣は、二度と発動しない。それじゃ・・・シバとは戦えん」
「あなたは・・・自分の命を、何だと思ってるんですか?」フェイは静かな怒りを込めて呟いた。
「あん?そうだな。強いて言えば、賭けの元手ってとこかな」
そう。ヘイユァンの恐さとは、その冷静さでもなければ、鋭い貫手でもない。
この、もはや怨念と言ってもいいほどの勝利への執着心と、狂気を孕んだ危険な勝負への渇望感・・・これこそが、ヘイユァンの真の恐さだ。
彼と戦う者は、その綱渡りのような勝負の展開に、「付き合いきれない」という感情が湧いて、腰が引けてしまう。その瞬間、ヘイユァンは大きなアドバンテージを手にすることになる。これがヘイユァンの強さの本質だった。
「さあ・・・どうした、打って来いよ。来ないんなら、こっちから行くぜええ・・・」えええ、という音を無意味に引き伸ばしながら、ヘイユァンが突進して右の貫手を突き出す。
フェイはこれを、左へ大きく跳んで余裕を持ってかわす。・・・いや、逃げたといったほうが正確だ。これでは移動距離が大き過ぎて、即反撃に移れないからだ。
当然ヘイユァンは勢いを緩めずに、追撃を仕掛ける。
「おら、どうした?『当てる技術』があるんじゃなかったのか?」叫びながら、今度は右掌を横薙ぎに振り回す。
フェイはこれも後方に大きく跳んでかわす。
と、勢いのつき過ぎたヘイユァンの右手が大きく流れて、体の正面ががら空きになる。
それを見て反射的にフェイが突進。
ヘイユァンの右手は流れたまま・・・だが、代わりに左の貫手がカウンターで飛ぶ。
ところがフェイはこの左を予想していたかのように、右に大きく跳んで大きくかわす。
「ひゃはは・・・どうした?逃げてばっかりじゃ、俺は倒せんぞ?来いよ。一発当てりゃあ、俺は終わりだあ!」命を無防備に晒す危険な攻防が、ヘイユァンの中で快感に変わり、彼を陶酔させた。その陶酔感が深まるほどに、ヘイユァンの表情は禍々しく歪み、品の無い笑い声が上がる。
その高笑いの度に黒鎧氣が高まり、ヘイユァンの手をどす黒く変色させていた。
「フェイ!何やってんのよ!逃げてばかりいないで、とりあえずそいつの手を叩き壊しちゃいなさいよ!」パイが苛々しながら怒鳴る。
「いやあパイさん、そりゃ無理だよ」
「え?何で?」
「勁力ってのは打ち込んだ体内で反響して、全身に広がっていくものだからな。確かにフェイが銀衛氣を込めた拳で殴れば、奴の手は壊れるだろう。だが、余った勁力が少しでも内臓に届いたら、ヘイユァンは死んじまう」
「あーもうっ・・・じゃ、せめて捌くとか封じるとかできないわけ?」
「それも無理だね。ヘイユァンが攻撃に使ってる手を見ろよ。溜め込んだ黒鎧氣で、真っ黒に染まってやがるだろ?それに引きかえ、フェイの銀衛氣は耐久力には転化できん。そんな・・・武術家としては『並』の耐久力しか持たないフェイじゃ、あの攻めは捌ききれん。力の差があり過ぎて、技術でカバーし切れんのだ」
「ちょっと、それじゃ打つ手は無いの?」
「いや、そうでもねえよ。ヘイユァンは攻撃力を最高にするために、黒鎧氣をいちいち攻撃に使う手に集中させてるんだ。もしこれが、両手両足に均等に配分されていたら、単純に考えて攻撃力は四等分されちまうからな。それならフェイでも捌けちまう。奴はそれが分かってるから、あんな面倒臭いことをしてるんだ」
「それって、やっぱり打つ手が無いんじゃ・・・」
「だから、そうでもないって。例えばさっき、ヘイユァンが黒鎧氣を右手から左手に移して攻めた時なんか、フェイはそれが分かってたみたいによけたろ?あいつはあの時、ヘイユァンが左右の連打を出すのにどれぐらいの時間を必要とするかを計ったんだよ」
「・・・時間?」
「そう。武術には、均衡を保つっていう大切な基本があってね。氣だって全身に均等に、偏らずに循ってるのが理想なんだ。ヘイユァンはそれを、わざわざ必要以上に一極集中させてる。右手なら右手だけに、だ。だから左右の連打を出そうと思ったら、手を出す度に氣を移し変えなきゃならん」
「あ、そうか。その分連打の回転速度は遅くなる、と」
「そういうこと。その上でフェイは、奴の攻撃をギリギリで見切らずに、わざと余裕を持ってかわしてるんんだ。だから見てみな。ヘイユァンの奴、だんだん攻めが荒く、大振りになってるだろ?」
「言われてみれば・・・あ、そうか。つまり、大振りが過ぎて隙ができた所を攻めると?」
「その通り」
「でも、打ったら死んじゃうんでしょ?」
「打つ必要なんてねえよ。大振りの隙を狙って、奴の腕に貼り付いて封じたら、そのまま肘でも肩でも折っちまえばいいんだ。フェイは白仙だから、骨格や関節の構造の知識もある筈だしな」
「おおっ!そんな手が!」
「ただ、問題もあるけどね」
「・・・え?」
「まず、黒鎧氣で強化された腕が、フェイの力で折れるかということ」
「・・・あ」
「それから・・・打撃が駄目なら投げでも関節でもってのは、武術家としちゃあ割と当たり前の発想なんだよ。恐らくは実戦経験において、ヘイユァンはフェイに勝っているだろうからな。その辺を警戒してない筈がない。下手をすりゃ、わざと腕を捕らせて返し技をかますなんてのを狙ってるかもしれん」
「あの、それってすごくまずいんじゃ・・・他に方法は無いんですか?」
「いや、俺もそう思って、さっきから狙ってるんだけどね・・・」
ウォンは風刃脚でヘイユァンの足を撃ち、動きを止めようと考えていた。
だがヘイユァンは、常に自分とウォンの間にフェイがいるようなポジションを維持していた。勿論、攻防の中で立ち位置は目まぐるしく変化しているから、ウォンとヘイユァンを結ぶ線上からフェイが外れる瞬間が無いわけではない。
だがその時間は、あまりにも短過ぎた。
(くそっ・・・あの野郎、しっかり俺のことまで考えて動いてやがる。撃つチャンスがあるったって、こんな短時間じゃ撃てるのはせいぜい一発か二発だ。そんなもんこの距離じゃ、あの黒鎧氣を集中させた手で捌かれちまう)
ウォンとヘイユァンの距離は、15メートル前後。
これは同時にフェイとパイの距離でもあり、それは銀衛氣が発動できるギリギリの距離だ。
フェイはこれ以上パイから遠ざかるわけにはいかないが、不用意に近付くような真似は、もっとできない。パイを危険に晒すことになるからだ。