序章・1
パイは、震えていた。
左腕が焼けるように痛む。涙でぼやけた視界に・・・彼女自身の、切断された左腕が映った。
「いやあああ!」無意識に叫んでいた。
自分の叫び声が、更に恐怖をあおった。ショートカットの黒髪が、白く染まっていくような気がした。
叫んでいたのは彼女だけではない。あちこちで、悲鳴と怒号、それに槍や刀や剣のぶつかる音が混じり合い、殺氣が充満していた。
「助けて・・・」彼女がそう呟いたとき、空が降ってきた。
いや、空色の服を着た人間が、彼女の前に立ったのだ。
「もう、大丈夫ですよ」男の声だった。
それが意外に思えるほど、その男は女性的な顔立ちをしていた。
明るい栗色の瞳と髪。髪は長く、やや無造作に後ろで束ねてある。
その男は、素早くパイの左胸の中府穴、左脇の極泉穴、左肘の尺澤穴、曲沢穴を指先で点穴した。瞬く間に血が止まり、傷みが和らぐ。
そのまま男はパイを肩に担ぎ、石畳に転がっていた左腕を拾うと、ゆったりとした空色の服と栗色の長髪を翻して、風のように走り出した。
驚いたのはパイだ。彼女の身長は180センチちょっとある。
男の方は、座り込んで震えていたパイが、一応は見上げる格好になったが、せいぜい150センチそこそこだろう。それがパイを担いでなお、常人以上の速度で走り、あっという間に警備隊の本館前まで移動していた。
パイが座り込んでいた場所からここまで、50メートルはある。この男はそれを数秒で、それも自分より大柄な人間を担いで移動したのだ。
すぐに人が集まってくる。ほとんどが顔馴染みの、警備隊の救護班の者だ。
「敷布をお願いします」男が言った。落ち着き払った声だ。落ち着き過ぎて、少々緊張感に欠けるような気さえしてくる。
すぐに敷布が用意され、パイはその上に寝かされた。助かった・・・そう思った瞬間、額から脂汗が噴き出し、笑いがこみ上げてきた。
「あはははは!」笑いながら、彼女の意思とは関係なく体が起き上がろうとした。
しかし、男が片手でパイの肩を押さえると、それだけで動きが止まった。力ずくで押さえつけられているというよりは、起きようとしても力が入らない、もしくは力が吸い取られるような感じだ。同時に脂汗と興奮が引いていった。
救護班の誰かが「他には?」と問うと、男はパイの左腕を渡し、淡々と「じゃ、この腕の消毒だけお願いします。後は止血も鎮痛も終わってますから。すぐに接合処置をしましょう」と答え、パイのほうに向き直った。
「僕はフェイといいます。民間の白仙です。あなたの名前は?」問いかけながら、パイの肘の遠位15センチほどの切断面を氣で消毒する。
「・・・パイ」
「パイさん、もう大丈夫です。切断面はきれいだし、切られてすぐですからね。元通りにくっつきます」そう言いながらフェイは消毒の済んだ腕を受け取り、切断面を合わせると両手で傷ををおさえて固定し、氣を送り込んだ。フェイに言われるまでもなく、パイは傷の痛みが引くのと、指先の感覚が戻っていくのを感じていた。
「みっともないとこ、見られちゃったね」パイはうなだれた。「はあ・・・こんなことなら、『錬武祭』になんか参加しなきゃ良かった・・・」
錬武祭は、「祭」などと謳ってはいるが、勿論「楽しいお祭り」などではない。
ペイジ国の軍隊で、白兵戦の専門家だった・・・いわば、旧時代の遺物だ・・・シバという男が、世界に対して売りつけた「喧嘩」を、彼が自ら「錬武祭」と名付けたのだ。
「志願して参加したんですか?どうりで、随分若いと思いました。警備隊に勤めてどれぐらいですか?」フェイは、患部を見つめたままでパイに質問した。
「この春に入ったばかり。まだ半年ぐらいね」
「それで参加が認められたんですか?大したもんですね。『錬武祭』の参加者は、経験豊かな中堅をメインに構成すると聞いてましたが」
「これでも一応、上級の黒仙だから・・・木氣しか使えないけど。・・・それにね、志願したのは手当てがガッポリ付くからよ。絶対こっちが有利だと思ってたし。だってあいつら・・・実行委員は5人で、こっちは100人いるのよ?それがこのザマだもんね」
「いやあ、あなたの氣弾の連射は、中々見事でしたよ。惜しかったです」あまり本気で惜しいとは思ってなさそうだが、かといってお世辞でもなさそうだ。
「惜しいったって、当たらなきゃ何にもならないわよ」パイは苦笑いを浮かべた。
「あなただけじゃありません。誰も『実行委員』の4人に攻撃を当ててはいません」
「4人?5人いたでしょ?」
「戦っているのは4人だけです。委員長だとか言ってた、あの髭面の男は・・・ホラ、正門のそばに立ったままです」
なるほど赤茶けたレンガ造りの壁に、大男が腕組みをしてもたれている。
「あ、・・・本当だ」
「さて、取りあえず腕は繋がりました」唐突にフェイが顔を上げ、まっすぐにパイを見た。
「え?もう?」戸惑いながら、左腕に目をやった。血で汚れてはいるが、痛みも傷も残っていない。指も自然に動くし、力も入る。
試しに呼吸を整えて、掌に意識を集中すると・・・パチッ、と小さな火花が弾けた。木氣は伸びやかに広がる性質を持ち、物理的には「雷」として作用する。・・・ちゃんと氣も練ることができる。
「まあ、後でしっかりと調べ直しますが、多分大丈夫でしょう。運も良かったですね。あなたの氣の波長は、僕の氣とよく似ているので、治療もしやすかった」
「あ、いや、その、ありがとう・・・あなた・・・特級の白仙でしょ?こんな、ロクに設備も無い場所で、氣だけで腕をくっつけちゃうなんて」
「だから、大丈夫だって言ったでしょう」フェイは、ニッコリと微笑を浮かべた。笑うとパッチリした目が急に細くなって、とても人なつっこい印象になる。パイは、少しドギマギして・・・強引に話題を変えた。
「・・・で、戦況はどうなってるの?何か、怪我してここまで連れ戻されたのって、私だけみたいだけど・・・」
「ええ。あなたは、いわば『見せしめ』にされたんですよ。ついてませんでしたね。・・・で、戦況ですが、悪いですね」あまり悪そうには聞こえない。どうもこのフェイという男の口調は、淡々とし過ぎている。
「今は実行委員と警備隊が、睨み合って動かず、膠着状態にあります。ただ、実行委員達が余裕たっぷりで『動かずに』様子を見ているのに対して、警備隊のほうは、あまりの実力差に『動けずに』います」
「う〜っ、何でこうなっちゃったのよ・・・」
話は一ヶ月ほど前に遡る。
この世界には、大小取り混ぜて18の国がある。その中で最大の国家であるペイジ国の元軍人で、白兵戦の専門家だったシバという男が、突然各国に録画符を送りつけてきたのだ。
「軟弱になった警備隊を、鍛え直してやる」そんな大義名分・・・大義というよりは、言いがかりだが・・・から、メッセージが始まった。
この世界では文明の発達と文化の成熟につれて、戦争は無駄な行為だと、ごく自然に人々が考えるようになっていた。だから32年前、最初はペイジ国からだったようだが、正確にはどの国からなのか、よく分からない・・・つまり、それほど「誰からということもなく」軍隊は解隊されてしまったのだ。
もっとも、日常の犯罪やトラブルについて対処出来る機関は必要だった。そこで、それまでにも存在していた「警備隊」・・・ほぼ、警察と同じものだ・・・これの武装を若干強化することになったのだ。
世界中の軍隊が解隊されてから、シバは突然その消息を絶った。
当時で36歳だったというから、今では68歳のはずだ。しかし録画符の映像のシバは、白髪も見当たらず、髪も髭も瞳も吸い込まれるような黒い色をしていた。
映像の中のシバは続けた。
「ついては、来月から毎月一度、18ヶ国のうちから1国を無作為に選び、『錬武祭』を開催する。錬武祭当日には、指定した国の警備隊本部に、こちらから『実行委員』を5人派遣する。この者達と本気で戦ってもらおう。そちらは何名でも構わない。武器の使用に制限はないし、民間から応援を頼んでもいい。無論、こちらの5名を殺しても結構だ。ただし、こちらも殺すつもりで戦うから、そのつもりでいるように」ここで、軽く咳払いをひとつ。
「・・・さて、錬武祭の細かい手順について説明しておこう。当日、指定した日の正午に、指定した国の警備隊本部の正門前へ、実行委員の5人を集合させる。ここから錬武祭が始まるのだ」