泳げ、殺し屋、泳げ!(こんとらくと・きりんぐ)
読者のみなさまへ。
本作、最後の仕上げにご協力を。
本作を最後まで読みましたら、本作のタイトルを殺し屋に叫んでやってください。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
そこは東西南北の果てまでつながる五つの街道が始まる大きな橋でのこと。
その侍は橋をひとっとびにして駆けていく。
贈答品を運ぶ人足や八百屋の荷車、馬に乗った武士のそばをかすめるようにして駆けていく。
あまりに風を巻くものだから、道沿いの薬種問屋、帳面問屋、仏具屋の暖簾がバタバタはためき、葦簾の掛け小屋がぐらぐら揺れた。
空は気持ちよく真っ青で、夏の風物詩たる巨大な入道雲がどこに膨らめばいいか分からず右往左往しているのが、大きな見物。
この風のように走る剣士はひょっとすると、風の眷属では?
そう思うのは、この侍に髷がなかったからだ。月代も沿っていない。
それもそのはずで、疾風のごとく駆けるのは尼削ぎの少女、または長髪の少年に見える殺し屋だったからだ。
殺し屋はたすき掛けにした木綿着に青の袴、履き物に脚絆、手に手甲、おまけに鎖帷子までつけていた。刀は打刀一本と脇差一本の二本差しでしっかり角帯で締めてある。
殺し屋が走っているのは仕事を仕上げたからだった。ややヘマをして、斬った悪代官の手下たちがぎゃあぎゃあわめきながら、殺し屋の後を追ってきていた。
だが、殺し屋の俊足に無頼漢たちの足はついていけず、おまけにぎゃあぎゃあ騒ぎながら走っていたから、あっという間に息が上がって、道の真ん中に次々と蒼い顔をしてぶっ倒れていった。
今や、殺し屋を追うものはいなかったが、あまりにもはやく走り過ぎたため、記憶の一部が殺し屋に遅れてしまい、どうして自分が走っているのか分からなくなってしまった。
それで走り続けている。
殺し屋が走っているのは国でも一番栄える大通りで、大きな店が左右に並び、焼いた味噌や真っ赤なスイカ、反物、軸物、刀の拵えが売られている。
人々の目はこの風の生まれ変わりに釘付けだった。負けず嫌いの飛脚はどうせすぐに息が上がって、半里も走れはしないさと皮肉を言い、水干姿の竃払いはあれこそは妖怪かまいたちだと言い、その両手が鎌のようになってないか目を凝らした。
暴れ馬が横道から現われて、殺し屋としばらく走ったが、殺し屋のあまりにも走りに夢中になっているのを見て、暴れ馬は馬鹿らしくなり、暴れるのをやめてしまった。
その馬の鞍に座るのは若き少年剣士だったが、実はさるお大名家のお姫さまが男装をし、馬にまたがっていたのだ。
が、殺し屋はお姫さまに助けてくれたものの名をきくヒマも与えさせず、走り去った。
とにかくがむしゃらに走った。左手は刀の鍔のすぐ後ろを押さえたまま、右手をぶんぶん振り回す。足のはぐるぐるまわるよう。
そのとき、誰かが甲高い声でわめいた。
「あっ、危ない!」
材木問屋の材木置き場に立てかけられた巨大な杉丸太がぐらりとよろめき、大通りへと倒れる寸前だった。
このまま走れば、殺し屋は丸太にぶつかってしまう。
疾風の申し子が丸太の下敷きになったと思った次の瞬間、二尺の太さの丸太が真っ二つになって、殺し屋の左右に落ちた。殺し屋の右手が柄に触れたのを見たと思ったら、もうその刃はしまわれて、丸太が斬られていたのだ。
その腕前を見ていた人々はさぞどこぞの大きな道場で小天狗の名を冠しているに違いないと感心したが、その本人はあっという間に砂ぼこりの遥か向こうへ消えてしまうので、顔を確かめることができなかった。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
殺し屋は西国へとつながる街道を選んで、走った。
もう町を離れ、一里塚が律儀に並ぶ道をかけていた。青い山に囲まれた盆地には田畑や茅葺きの百姓家、藁笠をかぶって豆畑に突っ立った案山子、遠くには小さな社があるのか鳥居が見える。いくつかの田舎道が村から水場へと伸びて消えていくのが見える。道には地蔵が並び、そのお供え物に猫がちょっかいを出していた。
殺し屋はこうしたものをゆっくり見るヒマもなく、がむしゃらに走っている。なんだか走っていることが非常に面白くてしょうがない様子だった。疲れも空腹も殺し屋の足の速さについてこれず、ただ夏の空に掻きたてられた高揚だけが殺し屋の四肢に力を与えていた。
まるでこの世の全てが殺し屋に走られるために投げ出されたようだった。
もちろん、事実は違う。
殺し屋はあまり気にしていなかったが、殺し屋の走る街道の一里先には伊森藩八万石の大名行列がまさにこちら向かおうとしていた。
先頭の露払いが長い棒を持って、行列の前を遮るものは誰でもぶん殴ってやるといった様子。
そこに殺し屋は全速力で突っ走ってきた。
驚いたのは露払い役の侍たちのほうだった。彼らは自分たちの職業は棒で脅かして人をどかすことであり、まさか本当に大名行列を遮る命知らずがいるとは夢にも思わなかった。
それでも二人の露払いが殺し屋に殴りかかろうとしたが、殺し屋の手が刀の柄に触れた途端、棒が真っ二つになって露払いは道際の泥に尻餅をついた。
驚いたのはすぐ後ろの弓組藩士たちも同じことだった。組頭から三十名が綾藺笠をかぶり、古式に則って矢を差した箙を腰にかけ、弓を肩に担っていたのだが、まさかその弓を本当に使うことになるとは思わなかった。
が、殺し屋がまた抜き様に飛び跳ねると、矢の弦が激しい音を立てて切れていった。別のものは笠を切り飛ばされ、箙が飛んでいったものもいた。刀を抜こうという発想はなかった。その柄は紫色の袋に包まれていたから、咄嗟に抜刀が出来る状態ではなかった。
殺し屋は大名行列を屁とも思わず、走り抜けた。次の鉄砲組は火縄銃を袋に入れていたから、そもそも話にならなかった。殺し屋は左右に身をずらしながら、鉄砲組藩士たちを避け、その後ろの騎乗の藩士を軽々飛び越え、その後ろにいた合羽籠の下をくぐりぬけた。
すると、やけにえらそうな箱を二人がかりで駕籠持ちにして運んでいる一団が目の前に迫りつつあった。御刀持、つまり、黒漆塗りに食い違いイモリ紋を描いた箱には藩主の愛刀が納められている。
刀役の藩士たちが止まれ、止まれ、と叫びながら、手でこんがらがった柄袋を何とか取り外そうと必死になっている後ろで、藩主の刀を入れた箱がちょうど殺し屋の行く手を阻む形に横っ腹を見せたので、殺し屋は箱ごと藩主の刀を斬ってしまった。
殺し屋の刀は無銘の束打ち物だから、そんな刀に真っ二つにされるようでは、それほど凄い刀ではなかったに違いない。
が、怒れる藩士たちがそんな説得をきくようには見えず、殺し屋を追いかけ始めた。
ちょうど良かった。殺し屋は藩主の刀を斬ったことを謝るために立ち止まるどころか、振り返るつもりもなかった。
今、最高にいい気分で突っ走っているのだ。
藩主の刀が運ばれているということは藩主の乗る駕籠が近いということである。さすがに藩主の駕籠を守る御徒組ともなると、剣の腕の特によいものを集めているから、他の藩士のように柄袋にあたふたすることはない。もうみながみな抜刀し、殺し屋を斬り捨てるつもりでいる。これよりもっと大人しい邪魔をしたものでも首を刎ねられたのだから、殺し屋の大名行列に対する挑戦は万死に価するということだ。
「きぇええい!」
気合の入った声とともに刃が次々に振ってくるのを全て弾き返し、受け流し、滑り込んでかわして、バネのように飛びあがって立ち上がり、選りすぐりの剣士たちの必殺の刃をあっという間に走り抜け、いよいよ藩主の乗る駕籠へ。
側衆二人の横薙ぎの払いと唐竹割りを跳躍してかわすと、その足が藩主の駕籠の上に降りた。藩主の乗り物を足で踏むなど言語道断で、藩主自身、驚いて横の窓を開けて、殺し屋を見上げた。
まだ若い、少年と言ってもいい藩主と殺し屋の目がわずかな時間だが、ぱちんと合った。
なぜか、殺し屋は微笑み、藩主に会釈をしながら、駕籠を踏んでいる足に力を入れて、また軽々と飛びあがった。
そして、茶坊主や医者、それに褌一丁で駄馬を引く中間たちのあいだを次々と走りぬき、ついにとうとう大名行列を走り抜けてしまった。
殺し屋は最後尾のお役藩士が瞬きする間に山道へと消えていった。
あれだけの騒々しさが静けさに取って代わられ、平和な田舎の盆地にはぽかんとした四百人の武士が残された。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
峠の道の茶屋が見えると、殺し屋は銭を五枚右手でつかみ、茶屋に放つと、店先においてあった団子を一串かっさらっていった。
団子にはきな粉がたっぷりふられていて、とてもおいしく、あと百里は余裕で走ることができそうだった。
逃げるために走っていたのが、いまでは走るために走っている。
峠から尾根沿いの道を下り、山林のなかに入った。
昼でも蛍が光るような深く暗い森で、熊笹を踏み分けながら、獣道を走る殺し屋は知らず知らずのうちにくノ一とともに道をともにしていた。
髪に赤い風車を差したくノ一は驚いた様子だった。忍びの足にかなうものなどそうそういるものでもない。
殺し屋はというと、横にくノ一が走っていることを全く気にかけていなかった。そのくらいの肝っ玉がなければ、大名行列のなかを突っ切ることはできない。
くノ一は任務である藩の秘密を持ち帰る途中で、その道の途中には秘密をくノ一ごと闇に葬ろうとしている敵方の忍びが待ち受けている。
もちろん、このまま一緒に走っていれば殺し屋も闇に葬られるだろうが、今の殺し屋はとにかく走ることが壮快でそこまで気がまわらなかった。
手裏剣が飛んできても、殺し屋は紙一重で避けて、抜刀はしなかった。刀を手に持つよりは鞘に納めたほうがずっと走りやすいのだから、できることなら抜刀はしないほうがよいのだ。
杉の枝の頭上から殺し屋とくノ一目がけて、二人の忍びが飛び降りたときには仕方なく抜き打ちをして、相手の刃を弾き、左へいなした。いなされた先にはくノ一がいて、苦無を一閃させて、忍びの喉を切り裂いた。
それからというもの、忍びたちは二人へ奇襲を仕掛けるが、殺し屋が弾き、それをくノ一が素早く仕留めると繰り返し、ついにとうとうくノ一は無事、任務を達成し、帰路へとつくことになった。
二人は並びながら走り、森を抜けた。熊笹の生えた高地が広がっていた。くノ一の帰るべき道はそのまま左に折れた山の下り道である。
この風変わりな殺し屋がいなければ、任務遂行が危うかった。そう思ったくノ一は感謝の気持ちのつもりで、髪に差していた赤い風車を殺し屋の襟首に差し込んだ。風車はカラカラと気持ち良さそうにまわっていた。
半刻もしないうちに二人は谷一つを挟んだ異なる道を走っていた。殺し屋はくノ一からどんどん遠ざかっていく。あるいはその逆か。
殺し屋が見えなくなる最後の曲がり角でくノ一は立ち止まり、どうせ見てはいないだろうと思いつつ、道をひた走る殺し屋に手をふった。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
海沿いの街道から黒船が見える。故郷の港から遠く離れた異国の海までやってきて、煤を吐くこの船を一目見んと物見高い連中が集まっている。
上陸を許されない黒船の水兵たちは何か刺激を求めて、甲板をぶらついている。すると、海岸に沿った松の並木道を物凄い速さで走る人影を見つけた。すぐに当直士官のもとへ水兵たちが集まって、走る殺し屋を指差した。
その存在を真鍮の望遠鏡で確認した士官は面白そうだと思い、船長の許可を取った。
「抜錨!」
士官の命令が飛び、屈強な水兵たちが巻き上げ機に飛びついた。ガラガラと大きな音を立てながら、索具が巻き寄せられ、錨がぶらぶらと宙に浮いた。
すでに機関長が石炭を罐に放り込み、船長が巡航速度での航行を命じた。外輪が動き、水がドドッと流れ落ち、船が進み始めた。
殺し屋は知らず知らずのうちに黒船と競走をすることになった。
黒船の異人たちはみなこんな勝負、勝つのは分かりきっている。まあ、いい気分転換だと思っていた。殺し屋の走る街道は海と山に挟まれていて、ジグザグになっている。それに対し、黒船は海の上を真っ直ぐに走れるのだ。
というよりも、そもそも石炭で動く船と人間の足が競走して、人間の足が勝つ道理がない。
そう思ってはいたものの、望遠鏡のなかの殺し屋はずっと黒船に背を見せている。
つまり、黒船は殺し屋に追いついていないのだ。
「機関長にもう少し多く石炭をくべるよう命じろ」
「アイアイサー」
巡航速度からやや本気の速度に上げてみたが、相変わらず殺し屋が前を走っていることが気に食わなくなり始めた船長はついに命じた。
「全速力!」
甲板の下の機関室ではシャツを脱いだ火夫たちが前進を真っ黒にして、地獄の業火もびっくりの罐のなかへ石炭を放り込んだ。蒸気機関はガツガツ石炭を食らい、煤まみれのゲップを噴き出しながら、殺し屋を追った。
いつまで経っても追い抜けないことにカッカした船長は水深を測ることを忘れてしまった。突然、船がガクンと大きくゆれ、足元の下のさらに下の船底から、ガリガリと物凄い音がした。
船が座礁したのだ。
船長は麦藁帽子を甲板に叩きつけ、ボタンを引きちぎり、顎鬚をかきむしって悔しがった。
殺し屋はそんなことは露知らず海沿いの街道を走っていった。
駆ける。
駆ける。
立ち止まる。
目の前には茫洋たる海。そして雪山のように巨大な白い雲が水平線の上に湧いている。
殺し屋は立ち止まった。
道はなくなっていた。
砂浜の先には青い海だけがあった。
襟首では風車がからからまわっていた。
「どうしたら、いいかな?」
殺し屋は一人つぶやく。
そして、急に思い出したように振り向いた。とても久しぶりに振り向いた。
殺し屋は待っている。
あなたが言葉をかけるのを。
もう一度、彼を高揚たる世界へと導く魔法の言葉を。
ねだるように微笑み、あなたの言葉を待っている。