宴の準備は丹念に
新年は静かにやってきた。寒さはまだ厳しいものの、雪もいつのまにか解け、セトの花壇には小ぶりの赤い花が点々と咲いた。
フィービは花を眺めてひどく喜んだ。今までいろんな球根や種を植えたものの、妨害もあってろくに花が咲かなかったからだ。ずっと眺めていたいですけれど、と前置きをしてから彼女は言った。
「謝肉祭の前後は、どうしても来られなくなるのです。なにしろ、大役をいただいてしまったので」
「お祭りの準備は大変そうだね」
シドは少し拗ねて、花壇の縁に腰を下ろした。
「台所方の先輩が、今年は街の市に遊びに行くのです。だから私が、謝肉祭のお料理の毒味役になったのですよ」
どうしましょう、という言葉とはうらはらに、フィービはにこにこしていた。
「毒味とはいえ、王様より先にごちそうを食べるなんて……きっと今までにないくらいおいしいでしょうね!」
「うん、きっと頭が落ちるくらいおいしいよ」
「それを言うなら頬ですよ」
フィービが今にも落ちそうだといわんばかりに頬を押さえた。
謝肉祭。それは冬の終わりを告げ、春の始まりを祝う昔ながらの祭である。
タクト神教では女神が目覚めた日を記念すると定められているが、謝肉祭はタクト神教などなかったころから春を祝う祭として連綿と続いていた。
王族は一堂に会して晩餐をとり、春の始まりに感謝する。その晩餐は一際豪華なものだ。
このときとばかりに商人がひきもきらず訪れて、珍しい果実や香辛料を売りつけていった。
山で生け捕られたイノシシや七面鳥が連れてこられ、台所の裏手の小屋で文字通り最後のときを待っていた。葡萄酒の樽が地下倉庫から引き上げられ、味見と称して飲み交わされた。台所方はにわかに忙しくなり、見習いのフィービはおろか薪割りの老人までが準備に駆り出されている。
シドはその様子を楽しげに眺めていた。台所の近くに彼の花壇があったこともあり、すでにシドは台所にいてもなんの不思議もない人物となっていた。
忙しくなったのは台所方だけではない。城の内部は煌びやかな金色のリボンで彩られ、灰色の廊下は光がさしたように明るくなった。
召使い達は荷物をまとめ始め、そわそわとその日を待ち受ける。休日すら外出のままならない王宮だが、謝肉祭ばかりは特別だ。兵士や召使いは少数を残し、生まれ故郷へ帰るための休暇が与えられる。家族水入らずで肉料理を囲み感謝する、という祭りの趣旨にのっとった休暇だ。
奴隷達はさすがに帰らせるわけにはいかないが、それでも街へ外出する許可は出る。気の毒な少数の台所方をのぞき、彼らは深夜まで祭りの市を満喫する計画を練っていた。
ハルピュイアの城中には、謝肉祭を待つうきうきとした気配が漂っていた。
「右斧のリボンの端が外れていてよ。きちんと巻いてちょうだい。大事な紋章なのですから」
王妃は、祝祭の飾りについて細々と指示を言いつけていた。斧が交差する紋章はハルピュイアの家紋だ。それを再現するように、美しく飾り付けられた斧が食堂の壁に取り付けられた。
と、誰かに袖を引かれ、王妃は怪訝な顔をして見下ろした。はにかんだような顔をしたシドがこちらを見ていた。
内緒のお話なのです、という言葉に微笑んで彼女は腰をおろし、耳に手を当てた。
話を聞くうちに、また笑いがこみ上げた。この天使のような子がいじらしくてたまらなくなった。
「まあ、祭りの日、城に残っている人達に葡萄酒を?」
「そうです、母様」
真剣そのものといった調子で、シドは答えた。
「残っている人たちは、帰る場所もない奴隷がほとんどです。
それに、宴の準備で街の祭りにも参加できない人達だって。
せめて、謝肉祭の晩餐を作り終えたときに、ささやかなお祝いをしてあげたいのです」
「あなたは本当に優しい子なのね」
王妃はシドの黒い髪を撫でながら微笑んだ。
「もちろん、そうさせましょう。あの人達も乾杯くらいはしてもよいはずだわ」
侘びしい夕暮れがティルキア城を包んでいた。どんよりした灰色の霧が僅かに赤く染まっている。
整然とした部屋で、ティルキア女王は王子について思いを巡らせていた。
ここは王子の部屋だった。帰ってこない主を待ち続けている、色あせた部屋だ。
主は行ってしまっても、この部屋のものはひとつとして動かしてはいない。
薄暗がりのなかで、女王は一人椅子に腰掛け王子がいたときのことを思い出して懐かしんでいた。
ため息をついたとき、絨毯の端が裂けているのがふと目に止まった。どうもすり切れているようだ。こんなにことになるまで城を顧みなかったなんて、と女王は情けなくなりながら、屈んでその部分をなでた。ごつっとなにかが指にひっかかり、彼女は驚いて絨毯をめくり上げた。
四角い大理石を敷き詰めた床だが、その部分だけ僅かに隙間が空いている。隙間に手を入れ、敷石を引っ張ると簡単に持ち上がった。そこには、敷石一枚分の空洞があり、黒い箱のようなものが収められていた。
女王は手を入れ、それを取り出した。箱ではない。薄く埃を被った本だ。開いて女王は首を捻った。本の形はしているが、文字が読めない。他言語でびっしりと書かれた分厚い羊皮紙の古本だ。植物の精巧な挿絵がついているところをみると、図鑑かもしれない。
王子が読めるはずがないので、誰かが置いていったに違いない。女王は少々むっとした。この部屋は、絶対に荒らしてはいけないと命じているはずなのに。
と、ピューイ、と高いさえずりが聞こえ、女王は霧にけむる窓の外を見上げた。
窓辺に、茶色い鷹がちょこんと停まっている。
あの姿には見覚えがある。
「パルなの?」
思わず鳥にそう聞くと、鷹は再び鳴いて返事をした。
そのとき、彼女は気付いた。鷹の足に、小さな紙切れが結びつけられている。
女王はその紙切れの結び目をとき、震える手で小さく折りたたまれたそれを広げた。
目を通すやいなや、彼女は蒼白になって部屋から転ぶように出て叫んだ。
「大臣! すぐに来て!」
謝肉祭当日は、お祭りにぴったりの晴天だった。召使いも兵士達も少なくなり、いつもよりもっとがらんとした城の中、台所方だけは忙しく走り回っていた。
血抜きされたイノシシや七面鳥が運び込まれ、新鮮なうちに様々な香辛料をすり込まれる。七面鳥には香草と野菜と挽肉が詰め込まれ、巨大な石窯に入れられた。イノシシはもっと厄介だ。頭から尻尾の先まで通された串をそれこそ大人二人がかりで持ち上げ、直火の上に吊される。焦げないようにハンドルをぐるぐると回し続け、全体が飴色になり、油が垂れるまで焼かなくてはならない。
おまけに誰かが飲みつぶしたのか、葡萄酒の樽が空いてしまっていた。樽を地下から出すには人手が足りない。
そんなとき、シドがふらりと台所へやってきた。
手伝おうか、と申し出たシドに、台所方の人々は遠慮しつつも感謝した。小さいながら、彼は葡萄酒樽を地下から出すのを手伝い、熱い石窯を覗いて七面鳥の焼き加減を料理長に伝え、舶来のガラスの皿を磨いて曇りをとり、と目まぐるしく働いた。
フィービは、真剣な様子で出来上がった料理を毒味していた。しかし時折、どうしても堪えられないらしく、おいしい、と呟いてにこにこしていた。
最後の焼き菓子が湯気と共に台所方のテーブルに並べられたころ、シドはまた地下室に降りた。しばらくして、彼は小さめの葡萄酒樽を腕に抱きかかえて上がってきた。樽の蓋には、葡萄と碇の紋章が焼き付けられている。
「皆、ご苦労様。王様からの贈り物だよ! 兵士の人達も呼んできて!」
わっと、台所中が熱気に包まれた。大役を終えた料理長は丁重にそれを受け取ると、口笛を吹きながら葡萄酒の栓をあけた。
台所方の悪い連中は既に料理長の目を盗んで相当飲んでいたが、堂々と飲める機会はそうそうないので、余計に盛り上がった。
ハルピュイア城の地下に収められているのは、全てティルキアン・ワインだ。庶民の飲むエールとは違い、滅多に口にすることができないワインの中でも、とびきりの高級品である。木の粗末なカップに一杯ずつ配られた葡萄酒は、それでも高貴な香りを放っていた。
「われらが王様に乾杯!」
兵士長が声を上げると、彼らは一斉に杯をあおった。
「ねえ、フィービ。仕事も終わったでしょう? 一緒に花壇へ行こうよ」
そう耳打ちされて、彼女はシドと一緒に外に出た。あれだけ晴れていた空だったが、もう夕暮れの帳がおり、一番星すら見えている。忙しすぎて、ときが経つのも忘れてしまっていた。
シドがこっちへ、とせかすが、今から彼は晩餐会のはずだ。花壇で遊んでいる暇はないだろう。
フィービは丁重に礼を述べた。
「今日はありがとうございました。とても助かりました。
でも、シド様。もうすぐ晩餐会ですよ。食堂にいらしたほうがいいのでは?」
「君にこれをあげようと思って」
シドはいつの間にか小さなコップを手に持っていた。コップの中身は暗い夜のような色だ。
「なんです、これ?」
「花壇で育てていた花の根を煮詰めて抽出したんだ。大丈夫、図鑑を見て作ったから毒ではないよ。味はどうかな? 台所方のフィービなら、いい意見が聞けると思って」
妙に香ばしい臭いがするそれを一口飲んでから、フィービは首をかしげた。
「……ふしぎな味ですね。でも、甘くておいしいです。結局、これはなんなのでしょう?」
「中和剤だよ」
「中和? 何をです?」
言った瞬間、フィービがふらっとよろめいて膝をついたので、シドはその頭を支えた。
「どうしたんでしょう、私……」
最後まで言えずに、彼女は意識を失った。
中和剤の他に、睡眠剤も入っていたことを、彼はあえて言わなかった。
シドは彼女をずるずると引っ張っていき、台所の裏手の小屋へ入った。イノシシや七面鳥を一時的に飼っておくためのその場所には、もはや料理となってしまった獣はおらずがらんとしている。その隅にフィービを寝かせ、上からたっぷり藁を乗せて隠した。
「フィービはここで眠っていて。眠っている間に全て終わるから」
彼はそっと小屋の扉を閉めた。そして、うきうきとする心を押さえるように、ゆっくりと食堂へ向かった。




