単調な日々、季節は巡る
夏になっても、彼は熱心に草花の世話を続けた。フィービの言ったことは正しかった。
花壇の植物達は立派に成長した。葉や茎は濃い緑色となって風にそよぎ、数本の植物の先にはピンク色のつぼみがついている。
もうすぐアネモネの花がさく。
シドは足しげく花壇に通い、フィービと会って話をした。
台所方の役割、王室の人々の味の好み、どこに水瓶があり、商人達はいつ何の食材を持ってくるのか。
そういった世間の細々としたことを王子は知りたがった。フィービも話すのは好きだったので、鳥に餌をやりがてら喜んで喋っていた。
ときにフィービに歌って欲しいと頼むこともあった。そういうとき、彼女は透き通った声で故郷の歌を歌った。
シドは花壇の縁に腰掛けて、にこにこしながら聴いていた。
日差しが陰った夕方、シドは王のいる書斎へと向かった。謁見の時間が終わった直後、王はそこにいると彼は確信していた。書斎の扉の鍵穴から除くと、予想通り王の姿が見えた。
ハルピュイア王は書斎の壁に掛けられた絵を取り外し、その裏にこそこそと手を回している。
「王様、よろしいでしょうか」
扉の向こうから声をかけると、王は急いで絵を戻し、入るがよい、と重々しく答えた。
失礼します、と言ってシドが現れると、王は勿体ぶってうろうろと歩きながら尋ねた。
「なんのようかな?」
「王様、ささやかなお願いです。……実は、僕もこれが欲しいのです」
そう言って、彼は書斎の隅に置かれたテーブルを指さした。テーブルには升目が書かれていて、白い象牙と黒い黒檀の駒がそろいで置いてある。カチーフ、と呼ばれる盤上ゲームの一種だ。
王が目を見開いて尋ねた。
「カチーフが好きなのかね?」
「大好きです。でも、あまり強くはないのです。練習相手がいればいいのですが」
「そうか」
王はまんざらでもない笑みを浮かべた。
何しろ彼の一人息子はカチーフなんて爺さんのする趣味だ、とてんで興味を持たなかったからだ。
カチーフは外国の遊びであり、知る人ぞ知る盤上の戦いだ。王とて同好の士に会うことはなかなかない。もっぱら、一人で本を見ながら対局していた。
「うむ。そうだな……夕食の後、この書斎に来るがよい。わしも相手がいたほうがよいしな」
「ありがとうございます」
にこっと笑い、シドは答えた。
それから、夕食後は王とカチーフをするのが日課になった。シドはなかなか手強く、王も首を捻るような手を次々と繰り出した。しかし、最後にはいつも王が勝った。やはり子どもだな、と王は思ったが、対戦相手のいるゲームを想像以上に楽しんでいた。
昼過ぎの暑いさなかに、フィービがけげんな顔をしながら古い手鍋を手に携え、花壇へやってきた。シドは手を振りながら彼女に駆け寄った。
「頼まれたものを持ってきましたが……古くなった手鍋で、何をするんです?」
「花が終わったこの草を煮込んでおくんだ。後で役に立つ薬になるんだよ」
「シド様はなんでも知っていらっしゃいますねえ」
花壇の脇で、フィービとシドは根を掘り出しながら話していた。
「……残念でしたね、アネモネの花が咲かなくて」
「いいんだ」
もう少しで咲くだろう花が乱雑に摘み取られていたことに気付いたのは、今朝だった。
シドの花壇はまた荒らされていたのだ。仕方ないんだよ、とシドはフィービに言い聞かせた。
「グルジオ王子は僕が嫌いだから」
「そんな……」
と、べちゃっと泥が飛んできて、シドは振り向いた。
馬の手綱をとったグルジオがにやにや笑いながら立っていた。
そして足もとのぬかるみから泥をすくい取り、再びシドに投げつけた。
「何をなさるのですか、グルジオ様! シド様はまだこんなにお小さいのですよ」
「奴隷のくせに口答えするな!」
庇ったフィービにグルジオは傲慢な態度で叫んだ。
シドはグルジオの方を向いて、無邪気に首を傾げた。
「どうして僕を嫌うの? 僕はグルジオ様が好きだよ」
「おまえ、気色悪いんだよ!」
グルジオは吐き捨てた。
「どうして皆がおまえに親切にしているか教えてやろうか? おまえは人質なんだよ!
ティルキアと戦争が始まったら殺されちまうんだ。だから同情されてんだよ!
それも知らずにごますりやがって、ばっかじゃねーの?」
「グルジオ様!」
フィービが咎めるように名を呼んだが、彼はふんと鼻をならすと馬に跨がり、蹄の音を響かせて城の裏手から去って行った。
「……気を落とさないで下さい、シド様。私は優しいあなた様が大好きなのですから」
シドは笑みをたたえてフィービの困ったような顔を見た。
「大丈夫。僕はちゃんと知っているよ」
収穫のときが近づき、城の窓から見える麦畑は金色に色づいている。
しかし城の中は相変わらず単調な日々が続いていた。
そんなある日のこと、王とシドがカチーフで対戦をしているときに、大臣が困ったような顔をして書斎に入ってきた。
大臣に目配せをされた王は、少し待っていてくれ、と外に出た。
「どうした、大臣」
「グルジオ様のことですが……」
「グルジオがどうした? 何かあったのか?」
言いよどんだ大臣に、王は詰め寄った。
「その……お気に入りのレムナード馬が死んでしまい、かなりご立腹されているようです」
「あの馬が死んだ? まさか、まだ寿命でもないだろうに」
王は信じられなかった。あの馬はとびきりの貢ぎ物だった。レムナード馬といえば、丈夫でよく走る最高級の馬だ。とても一年で死ぬようには思えない。
「一体なぜだ?」
「わかりませんが、厩番の話では、なにか悪いものを食べたのではないかと」
ふむ、と王は考えるふりをした。しかし考えても答えは決まっている。死んだ馬は元に戻らない。
「とにかく、係の厩番を解雇せよ。そしてグルジオには新しい馬を手配してやれ」
王はため息をついてそう言い、書斎の扉を開けた。シドは足をぶらぶらさせて椅子に腰掛け、カチーフの黒檀の駒をじっと見つめていた。
「さて、シドよ。よい手を打ったかな?」
王が聞くと、彼はこくりと頷いた。どれどれと向かいに座り、王はまたカチーフへと戻った。
季節は巡る。ヴェルナースに初雪がふり、灰色の雲が連日重く垂れ込めた。城の庭は真っ白な雪で埋め尽くされ、花壇も例外なく埋もれた。
「そんな、シド様、もったいない。あなたのようなお方がする仕事じゃありませんので」
「ううん、僕がやってみたいだけだよ」
目の前の薪を真剣に見つめてシドは斧を振り上げた。斧の重みで少しよろけるが、それでも薪は音を立てて真っ二つに割れた。
薪は冬の必需品である。老人は以前この王子の気まぐれにつき合い、少年の腕では重い、花壇の土を運んでやったことがあった。それ以来、シドは時折台所方の老人を訪れては、城の薪割りや水汲みなどを進んで行っている。
冬の薪割りは重労働だ。腰にも少々がたがきている老人には、少々遠慮があるとはいえ、手伝ってくれるシドの存在はありがたかった。
「花壇もほとんど花がなくなってしまったし、雪をかぶっているから他にすることがないんだよ」
シドが切り株にまた薪を立て、斧を振り上げる。小気味よい音を立てて薪は割れた。
「そうですか。あの花壇には、まだ花があるので?」
老人は雪に埋もれた花壇だった場所を見つめて聞いた。
「あと一つ」
シドは再び薪を持ってきて、切り株の上に置く。最初と比べて大分手際がよくなった。
「フクジュソウが咲けば、この花壇の花も終わる」
フクジュソウが終われば、春はもうすぐ。謝肉祭の日が近づいてくる。