囚われ人の小さな花壇
一週間後、彼はハルピュイア王国の第一都市エルケへついた。灰色の門をくぐり抜け、活気ある城下町を通り抜けると、そこには御影石で作られた美しい宮殿がそびえ立っていた。
この宮殿が、彼の牢獄になる場所だ。牢獄としてはいささか豪華すぎたが、シドにとってはどちらも同じことだった。
最初の儀式は、国王への挨拶だった。赤い西国の絨毯が映える謁見の間に通されたシドは、挨拶をする前にゆっくりまわりを見渡した。
国王と王妃が並んで座り、その横には数名の王族が控えている。シドよりも少し年上の少年が、一番国王に近い椅子に寄りかかっていた。
シドは優雅に跪いた。
「ハルピュイア国王陛下、並びに王妃殿下、お初にお目にかかります」
ティルキア王国第一王子、シド・ティルキアと申します、と最敬礼のお辞儀をしながら言うと、周りの者から感嘆のため息がもれた。子どもにしては挨拶の仕方も言葉も流麗だったからだ。
「うむ、長旅ご苦労」
ハルピュイアの国王はその四角い顔に驚きの笑みを浮かべながら返答し、王妃はもっと露骨に扇で口を覆って笑った。
「あら、かわいい子ね。大きなおめめだこと」
「お褒めたまわり光栄です」
シドがまた最敬礼のお辞儀をすると、そこここからくすくすと笑い声が聞こえた。なんて礼儀正しいお子様かしら、と王族の誰かがいい、従者を、と誰かが呼んだ。
従者が現れ、王族に耳打ちをされる。
勿体ぶった様子で従者がシドの前に進み、懐から革袋を取り出し、中を開けて見せた。
砂糖を固めた菓子が入っていた。シドは吹き出すのを堪えて礼を言い、ありがたく受け取った。
「見なさいグルジオ、あの子はいい子のようだ。お前の遊び相手になるぞ」
王は隣の少年に言う。少年は馬鹿にしたようにふん、と鼻を鳴らした。
「あんな子供、僕は大嫌いだ。負けたからって尻尾をふるなんて」
ハルピュイア城での生活は存外快適だったが、同時に単調だった。城内なら自由に行き来してもよいことになったシドは、時間を持てあまして巨大な城のあちこちをそぞろ歩いた。
彼のお気に入りの場所は、城の北の一画、台所の側にある小さな荒れ果てた花壇だった。彼は王の許しを得ると、早速花壇を直す作業に取りかかった。王族達は、百姓仕事をしたいなどという王子を珍しがったが、シドは真剣に雑草を取り去り、土を耕しはじめた。使用人を使ってもよい、といわれたが、彼は一人きりで楽しみながら花壇を作っていた。
「お願いです。お花の種や球根が欲しいのです」
ある日の午後、王妃に話し相手として呼ばれたシドはねだった。
「いいわ、造園の技師を呼びましょう」
庭の見える部屋で、居心地のよいソファに寄りかかっていた王妃は、栗毛の高く結った髪を振って約束した。しかしシドはかぶりを振った。
「いいえ、僕が呼びたいのは、この街のレニーという者です」
彼女は訝るように形のいい眉をひそめた。
「どうしてその方を?」
「僕の欲しい花について、彼が一番よく知っているからです」
王妃は曖昧に頷いた。話はそこで終わった。
しかし、彼女の胸の中で釈然としない気持ちが渦巻いていた。
城から出たこともない少年がエルケの住人を知っているのはおかしな話だ。王妃は密偵を街に放ってレニーという人物を探させた。
あっけなくレニーは見つかった。
町外れで薬屋を営む異教徒の老人である。薬屋の傍ら、美しい花を咲かせる名人であり、その庭は思わず人を惹きつけるような香りに満ちた花園なのだという。わざわざ他国からレニーの庭を尋ねてくる人も多いらしい。
密偵の話を聞き、王妃は驚いた。
シドは自身の国にいたときからレニーを知っていたに違いない。
よほど花好きでなければ、レニーの名を聞いても忘れてしまうだろう。
聡明な子だと思っていたが、これほど植物に興味を持っているとは思わなかった。
早速、彼女はレニーに登城するよう伝えた。
それを聞いたシドはにっこりと笑って、感謝の言葉を述べた。
城にぼろぼろのマントを羽織った老人が数回出入りしたところで、シドの花壇には小さな緑の芽が出そろった。
やがて、王妃にお客がいないときには、シドは必ず話し相手として呼ばれるようになった。囚われの王子を彼女は人形のようにかわいがり、砂糖菓子を惜しみなく与えた。
王妃は孤独だった。名門貴族とはいえ外から嫁いだ王妃はどことなく遠巻きにされていたのである。だからこそティルキア王子の所在なさも理解しているつもりだった。しかしそれでなくても彼女はシドをそばに呼んだだろう。彼は無邪気になんでも話し、よく懐いた。いつも王妃の好きなバラの花を差し出して微笑むので、王妃はリンゴのような幼子の頬にキスをして受け取る。
「王妃様はお優しいのですね。僕の願いをなんでも叶えてくれる。
まるでお話の中の女神様のようです」
「あらあら」
シドの言葉に、バラを髪にさした王妃は朗らかに笑った。
「もう一つ、お願いがあるのです」
真剣な眼差しで、シドが王妃の膝にすがった。
「僕はときどき、とても寂しくなるのです。
僕の母は僕を見捨てました。もう帰る家はないのです。
けれど、王妃様は僕をとても可愛がってくれます。
本当に寂しいときは……王妃様、母様とよんでもよろしいですか?」
「もちろんよ、私のかわいい子」
王妃は慈愛に満ちた微笑を浮かべてシドの黒髪を撫でた。
無残に蹴倒された新芽。蹄鉄の跡。誰かがシドの花壇を荒らしていった。
誰かはわかっている。四歳年上のハルピュイア王子、グルジオだ。先日誕生祭が盛大に執り行われたが、数多の貢ぎ物の中に立派なレムナード馬があった。
初めて自分の馬を得た彼は有頂天になり、城内を所構わず乗り回していた。
グルジオはシドを目の敵にしている節があり、いつでも突っかかる隙を狙っている。
だが、シドにとってはそんなことなど些細なことだった。
今目の前で起こっていることのほうが、はるかに重要だ。
十歳くらいの女の子が、踏み荒らされ、根がむき出しになった花を植え直している。
奴隷の衣装を来た、美しい下働きの少女だった。肌は透き通るように白く、その瞳は宝石のような碧に輝いている。
少女はシドが立ち尽くしているのに気がつくと、弓形の眉を下げて、安心させるような笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、シド様。花は見た目よりも強いのです」
フィービが目の前にいる。
「ありがとう、フィービ」
あら、と涼やかな声とともにフィービは小首を傾げる。ハチミツ色の髪がふわりと揺れた。
「私、名乗りましたでしょうか?」
「前から知ってるよ」
「そうですか。自分では目立たないと思っているのですけれど」とフィービが答えた。
目立たない、というのは嘘だ。フィービは煤けた台所の中で誰よりも走り、よく笑う。皿を洗うときには、透き通った声で故郷の歌を口ずさんでいる。
と、高いさえずりと共に、シドの肩に茶色い塊が舞い落ちてきた。フィービがきゃっと短い悲鳴を上げる。
シドはその塊を愛おしそうに撫でた。羽毛で覆われた茶色い鷹が、彼の肩に乗っていた。
「僕の鷹。パルというんだ。本当は持って来ては駄目といわれたんだけれど。
よく懐いているから、この国まで勝手についてきたんだよ」
彼は袖に忍ばせた干し肉を取り出し、放り投げる。
鷹は羽ばたいて肉を追い、空中で取って二口ほどで平らげた。
最初は恐れていたフィービも安心したらしく、よく見るとかわいらしい鳥ですね、と表情を緩めた。
見計らって彼はきりだした。
「あのねフィービ。君に相談があるんだ」
「なんでしょう?」
「鷹にこっそり餌をやりたいんだ。パルはこの木のうろに住んでいる。
君は台所番だろう? 日が落ちてから毎日、ここに肉の切れ端を持ってきてやって欲しいんだ。
食事のたびに肉を持ち去るのは、僕には難しいから」
「もちろん、かまいませんとも。シド様がお望みなら喜んで」
『可哀想な隣国の王子』に、ハルピュイア城の者は少なからず同情を寄せていた。特にフィービは別大陸の生まれだ。自身と重ね合わせてこちらを見ているのだろう。
シドはそれでもかまわなかった。こちらを見てくれてさえいればよかった。
「それでは、約束の握手を」
二人の子どもは、真面目くさった握手をした。
シドは微笑みながら思った。
これでいい。
これで毎日、フィービに会える。