敗戦と静かな始まり
ティルキア城の外れには、小さな庭園がある。こじんまりしてはいるが、きれいに手入れされていた。城の正面にある庭園のような、いかにも仰々しい線対称の花壇とは違い、所々に野草が入り交じった花壇には、ポピーやチューリップなど春の花々が咲き乱れている。
花壇の脇の小さな東屋に、シドはいた。御影石のベンチに腰掛け、手に小さな花束を携えて、母の——女王の帰りを待っていた。東屋の柱には緑のつたが絡みつき、花々が甘い匂いを漂わせている。眠くなりそうな午後、シドの黒い髪もうつらうつらと揺れていた。
遠くラッパの音が響き、彼はびくっと頭をもたげた。
白昼夢のような午後に、ぴしりと亀裂が入ったような割れた音色だった。
母の帰還のラッパに違いない。
シドは東屋から飛び出し、小さい足でできるだけ速く走った。花壇の脇を抜け、十二使徒の柱が並ぶ回廊を通り抜けて、内城壁に沿って正面の門へと向かう。
次の角を曲がると、正門が見えた。たくさんの人々が、隊列を組んで正門から入ってきている途中だった。騎士たちが乗る馬の行列が先に、美しい馬車がその後に続いている。旗飾りはだらりと垂れ、誰もが静かに目を伏せて、粛々と行進していた。シドは目を皿のようにして、目当ての馬車を探す。と、錨とブドウの紋章が付いた、ひときわ豪華な紅の馬車が目にとまった。ティルキアの紋章付き馬車だ。
「母上!」
シドは走りながら大声で呼びかけた。
と、その馬車が停まり、青い豪奢なドレスを着た黒髪の女性が窓から顔を出した。
「シド!」
叫ぶなり、黒髪の女は馬車の扉を壊れんばかりに開け、スカートをたくし上げて馬車から飛び降りると、彼に向かって駆け寄ってきた。馬に乗った騎士達はざわついたが、あえてなのか、動こうとはしなかった。親子は互いに走り寄り、ちょうど中間の地点でしっかりと抱き合った。
「お帰りなさい、母上」
「ただいま、私のかわいい子」
女王は遠慮なくぎゅうぎゅうと抱きしめ、シドは息が苦しくなってむせた。それに気付いたのか、慌てて力を緩められ、そのまま脇に手を入れて持ち上げられた。
「まあ、なんて重くなったの!」
「もう六歳ですから」
そう言うと、母は泣きそうな顔でにっこりと微笑んだ。
「まだ六歳よ」
城内での夕食には、国の高官や戦に出ていた忠臣達が呼ばれ、久しぶりに活気が戻った。大きな客間が使われ、全ての燭台は火を灯されて燦然と輝いた。白く長いテープルに、豪華な料理が並べられる。シドは母の隣りに座り、大人しく黙々と食べていた。母は絶えず笑みを浮かべ、こちらの一挙手一投足に驚き喜んだ。
「一年離れているうちになんて成長したのかしら。
もうナイフを使えるようになるなんて」
照れくさくなってシドは顔を赤らめながら肉を切っていた。しかし母や高官達のたわいもない雑談が、とても上滑りなものであることを薄々感づいていた。今度の戦で、ティルキア王国は手痛い打撃を被ったのだ。それが陽気なはずの食卓に影を落としていた。
一見和やかな夕食が終わり、夜のとばりが下りた頃、シドは母にお休みの挨拶をしに行こうと謁見の間に向かった。さえわたる夜の空気の中、城は静まりかえっていた。彼は岩壁がむき出しの廊下を、裸足でぺたぺたと歩いて行った。月光が石造りの狭い窓から入り、淡い影を作り出している。と、会議室の扉から、松明の明るい光が漏れていた。彼はどっしりした木の扉の隙間から、そっと覗いた。
大臣が荒々しい口調で、女王と話している。母は赤い玉座にぐったりと腰を下ろし、顔を覆っていた。
「領地の半分だけではなく、王子もよこせと? それでは、人質も同義ではございませんか!」
「そうよ」
「それでは今後ハルピュイア王国と戦うことすらできなくなる!」
「……そうね」
「ああ、先王が生きていらっしゃったなら、こんな仕打ちなど……」
「お止めなさい、バシュ。夫はもういないわ。そして私達は戦で負けたのよ」
そのとき、大臣がこちらに気付いた。驚愕したような顔をした後、王子様にはご機嫌麗しゅう、とちぐはぐな挨拶をして、困ったような笑みを浮かべた。シドは話を聞かなかったふりをして、母の元に駈け寄り、お休みの挨拶をしに来ました、と無邪気そうに言った。
そのとき、初めて母の顔に涙が光っているのに気付いた。
「母上?」
「シド。よくお聞きなさい」
女王は慌てて涙を拭った。膝立ちになり、両手でシドの肩をしっかりと掴む。そして、彼の青い瞳をまっすぐ見つめた。
「あなたは、一人で北のハルピュイア王国へ行かねばなりません。ティルキア王国の立派な王子となるために、社会や思想を学びに行くのです。この国のために、行ってくれますね?」
「母上」
シドは、涙で曇った母の瞳をじっと見据え、そしてにっこりと笑ってみせた。
「心配は無用です。謝肉祭が終わるころには帰ってまいります」
その言葉を聞いたとたん、女王の目からまた涙が零れだした。
もはやティルキアに帰ってこられないことを、女王は知っていたからだ。
出立の準備は突貫で行われた。ハルピュイア王国が一刻でも早い契約履行をとせかしたからである。女王はもはや一滴の涙も見せなかった。最後の出立の時ですら、ぎゅっとシドを抱きしめた後は、毅然とした態度で送り出した。シドは城門に立つ母の姿が見えなくなるまで手を振った。母は手を振り返さなかった。
荷物を積んだ馬車と数人の召使いと共にティルキアの国境の峠を登り切ると、ハルピュイアの使者が一個大隊を引きつれてやってきて、シドの荷物を全て検査した。荷物の一番上に積まれた金色の鳥かごを見た使者の目が光った。
「あれは何ですかな?」
召使いが庇うように言った。
「王子様の飼っている鷹です」
「いけませんな。そのようなものは許可していない」
ティルキアの召使いが激怒する前に、シドは馬車から降りるとその間に割り込んだ。
「パルは僕によく懐いているんだ。 どうして飼ってはいけないの?」
「ティルキアの王子様、くれぐれも覚えておいてほしいのですが」
使者は勿体ぶって灰色の山羊鬚を撫でた。
「貴方は私どもに質問したり、命令したりする立場にはないのですよ」
鷹は使者の手によって放された。
パルはピューイ、と高く鳴くと羽根を広げて彼方へ飛び去った。
鷹一羽すら、敗戦国の思いのままにはならないのだ。
召使い達は涙を呑んで一個大隊に引き継がれた王子の馬車を見守った。馬車はのろのろと峠を下り、ハルピュイア王国へと入っていった。