アフターのアフターのプロローグ
深い深い渓谷のただ中に、人も獣の気配さえない、切り立った崖がある。
その一部に岩棚が張りだしていて、そこには、ごく普通の一戸建てがあった。
建て売りによくある感じの二階建て。
しかしそれがあるのは、異世界であり、日本であったとしても、どうやって材料運んだの?!と言いたくなる、崖の真ん中あたり。
出入りの方法さえ分からない、そこに家は建っている。
今、一戸建ての玄関ポーチには、足置き台とセットになった、布貼りの安楽椅子があり、そこには一人の人物が眠っていた。
開いた本を顔に乗せて、ぴくりとも動かずに。
次の瞬間、玄関から三段おりた先、飛び石の上空に赤い光が灯り、ゆっくりと人間サイズの魔法陣へと形を変える。
空間に焼きつけられた魔法陣は、灯った時と同じように突然消え…そこに美しい少女が立っていた。
年は16、7歳くらい、金と銀の混ざった髪は長く、耳の側で二つに結んで腰まで伸びている。
縦長に裂けた瞳孔は金と銀のオッドアイで、人形のように整った少女の顔立ちに、華を添えている。
「ごしゅ……ニヤリ」
少女は椅子で眠る人物を認めると、言葉に出して擬音をつぶやき、足音と、気配を消して、ポーチへ忍びよる。
クワッ!と口を開き、鈎爪をきらめかせて飛びあがった。
「もらったーーー!」
「…ないな」
やる気のない一言を聞き、少女は顔を引きつらせるが、体は空中だ。
『緊縛』
何もないところから縄がシュルルと飛び出して、少女を絡めとる。
「あァーアっ、ご主人様ァああ」
喜ぶような声をあげた少女は、ぎりぎりと締めあげられながら頰を染めている。
「やっぱり…ないな」
ぼそりとつぶやいて、眠っていたはずの人物は本を顔からどけて、背徳的な格好の少女を醒めた目で見た。
「なんで、全員ドMなんだ」
その言葉に応えるように、縄はミシミシと少女を絞めていく。
「ご、ご主人、様、さずがに、死にま、す」
先ほどまで恍惚としていた少女が、みるみる内に青くなる。
「……」
ご主人様と呼ばれたのは、平凡で凡庸な顔立ちの15〜7歳くらいの少年だった。
黒髪、黒瞳、白いシャツ、カーキのパンツにはだし。
どこから見ても、特筆することのない外見なのだが、一つごまかせない違和感がある。
光を反射していない。
髪がいたんでいるとか、目が死んだ魚のように濁っているわけではない。
ただ、少年の髪も瞳も一切の光を反射せず、一人だけ暗闇に立っているように見える。
ベタ塗りで、一人だけツヤを入れ忘れたみたいに。
気づいてしまえば、異様な姿。
「オレは眠らないんだ、いい加減に覚えろ」
椅子から降りてぺたぺたと裸足で少女に近づき、あきれ顔で言う少年。
「あの、寝顔を堪能しy、げブァッ」
デコピンされた額から煙を出して、縄から解放された少女は転げ回る。
「眷族やめるか?」
苛立ちを含んだ声に、少女はしゅばっと音がしそうな反応速度で立ち上がり、ぴしりと背筋を伸ばすと、超然とした表情を浮かべた。
「いいえ、我は八大竜王筆頭、ルウォルフェムス。
誠心誠意仕えさせていただきたく思いますれば、我が失態の汚名返上を望みます!」
少年は心の中で、全員ドMの竜の忠誠が重い、とげんなりしつつ告げた。
「許すから、飛びかかってくるな」
「くぅ、主命、賜りました!」
少女は血の涙を流しかねない顔をした。
「で、何の用だ?」
安楽椅子に再び座る少年に、少女は厚さが5センチほどもある、分厚い本をさしだした。
どこから出した?などとは聞かず、少年は右手で背表紙を押さえると、左手でバラバラと本をめくった。
そして閉じる。
「ありがとな、ルムス」
もう読む必要はないと言いたげに、顔に乗せていた本と一緒に抱えて、家へ入ろうとする。
ふと振り返ると、子犬のような瞳をした美少女がいる。
「メシ喰うか?」
「はいっっ」
うるうるをきらっきらに変えて、ルムスは弾むような足取りで、少年の後についていった。
玄関を入ってすぐに、アイランドキッチンが据え付けられている。
カウンターに揃えられた椅子に座り、ルムスはにまにましながら待っていた。
ルムスの目の前では、少年がフライパン片手に料理をしている。
いつもやってます、という手際の良さで。
「豚の生姜焼き定食だ、今回の調査は大変だったろ?
おかわりあるからな」
「いただきますぅ」
少年に教わった作法に従い、手をあわせて呪文を唱える。
「ん〜〜」
甘辛でピリっと刺激があって、じゅわーっと肉肉している。
「美味しすぎて死んでしまいます!」
何故か仕事モードのルムスに、少年はフッと口元を緩めた。
ご主人様が笑った〜!と一人で悶えるルムスを放置して、少年は本を片付けに席を立つ。
キッチンの奥の部屋は、床と天井以外、全てが本で埋め尽くされていた。
紙が黄ばんで、今にも装丁がバラバラになりそうな古い本から、新しい本まですべてが分類されて、所狭しと並べられている。
ルムスから受け取った本を、「エストウラ」と書かれた分類の最後尾に差し込むと、少年はぼそりとつぶやいた。
「一回、行くか」
ものすごい、面倒くさい、といいたそうな表情で。