望郷
物心ついた頃、少年は既に名も知れぬ傭兵団の輜重にいた。
母は、名目上は禁じられているにも関わらず輜重に紛れ込んで稼ぐ娼婦の一人だった。少年は、自分が五つか六つの時には既にいなくなっていた母のことを殆ど覚えていなかった。地味な女だった、と彼女を抱いたことがある傭兵が言ったのは記憶にこびりついている。男を捕まえて出て行ったか、どこかで野垂れ死んだか、どちらにしろ、二度と会うことはないとわかっていたので、それ以上は誰にも聞かなかった。
少年は戦場の骸から剥いだ貴重品を輜重の商人達に売り、代わりに僅かな金銭や食料を得て糊口を凌ぎながら育った。商人達は買い上げた品を遥か高価で売捌いた。その単純な摂理を少年はすぐ理解した。搾取されたくなければ強くなればいい。
適正年齢と見られる背丈になるとすぐ募兵に応じた。生活の割に成長は早く、実際の歳より二年は上に見られたことは幸いだった。
聯隊長は強盗恐喝の道楽が過ぎて領土を没収された貴族で、戦のやり方をよく知っていた。少年は三十ある小隊の一つに配属され、小隊長に命じられる雑用と酒と喧嘩で日々を過ごした。半年後に初陣を勝ち戦で飾り、女を抱いた。その娼婦は媚態の影に打算と侮蔑、そして諦観を隠していた。その目差しは微かな母の面影だったが、幾度か通う内に抵抗は消えた。輜重の娼婦は皆、同じような目をしていると気づいたために。
四年で五つの戦を経験し、少年は一端の兵士になった。多くの若者が戦闘に耐えられず脱落していく中で、彼は殺人に強い適正を持っており、槍の柄を伝う肉の感触に嘔吐することも、血の赤さに目を瞑ることもなかった。それは人でなしの証明であると同時に優秀な戦士の条件だった。
六度目の戦は国中を燃え上がらせた。古の神の血を引く偉大な王に歯向かったのは、流星のように現れ瞬く間に多くの領土を喰らった覇者だった。彼は直に新しい王になるだろうと噂され、既にそう呼ばれ始めていた。傭兵達はどちらが勝つかと話題にしたが、戦がなくなり食い逸れない限り、どちらでもよいと考えていた。
聯隊は新しい王に味方した。少年の六度目の戦も勝利の内に終わろうとしていた。新しい王の軍勢は古い王の軍勢を蹴散らし、諸侯を滅ぼした。篭城の郎党を城壁から吊り、都市は掠奪の末に火を放ち、新しい王はさながら野火のように、広大な帝国を平らげようとしていた。
冬も間近に迫る頃、古い王は曠野の城砦に最後の陣を張った。帝国中から集まったその軍勢は新しい王の軍勢と殆ど変わらぬ数だったが、士気は低く、補給は途絶えかけていた。
決戦が新しい王の勝利に終わることは誰の目にも明らかだった。
「ヘルマン」
小隊長に呼びかけられ、少年は手甲をみがく手をとめた。決戦を前にして小隊長の具足を摩くのは、四年で信頼を得た彼の仕事だった。ヘルマンは立ち上がり、作業は直に終わる旨を伝えた。小隊長は後でいいと答え、着いて来いと身振りで示した。
ヘルマンはみがきかけの具足に布をかけて小隊長に随った。冬が近いというのに、天幕の外の日差しは強い。そこここに翻る団旗は一帯が聯隊の野営地であることを示している。古い王の最後の城砦を遠く見下ろす陣は、布かれてから数日、動かない。表面的には静かなまま、着実に戦術を組み上げていく。
「小隊長、どこへ」ヘルマンは訊ねた。「餓狼隊だ」小隊長は答えた。
聯隊長が、次の戦闘での作戦のために、他の小規模な傭兵隊を雇い入れたことはヘルマンも聞いていた。ヘルマンが所属する小隊と、他の幾つかの隊と共に行動することになっている。「溢れ者の糞野郎が集って、隊の体裁を整えた集団だ」と小隊長は言った。だがヘルマンは気に留めなかった。全く糞野郎でない傭兵にはお目にかかったことがない。
天幕の群の外れで待っていたのは長身の男だった。外套の下に剣を佩き、手甲の左手を柄頭に置いている。男は自分が餓狼隊の隊長だと名乗った。端正な顔立ちは冷たい無感動を湛え、双眸は瑠璃ほどにも鮮やかだった。ヘルマンは一瞬、彼の容姿と前評判の差に目を見張った。
「段取りは聞いているか」小隊長が問うた。
男は無関心な声で答えた。「聯隊は右翼に配属される。餓狼隊ときみたちは本隊を離れ、側面から奇襲をかける」城砦の廻りは見晴らしのよい曠野だが、古い王は兵を進め、東の森を盾に布陣すると考えられていた。奇襲が成功すれば、森を抜け、敵軍の無防備な脇腹へ牙を立てられる。失敗すれば生きて戻れないだろうが。
小隊長は餓狼隊に先鋒を譲ると言った。男は苦笑して請負った。「分かった、貧乏籤は貰っておこう、それだけの貨は受け取ったから。きみたちは生還して英雄になればいい」
小隊長は男の言葉に顔をしかめたが反論はしなかった。先鋒を喜ぶのは誇りのために死ねる馬鹿だけで、傭兵風情に必要なのは誇りではなく貨と命だ。小隊長と男は改めて前日までの話を詰め、別れた。
小隊長は必要な準備の幾つかをヘルマンに任せた。それらを済ませ具足をみがき終えたのは夕刻だった。日毎に貧相さを増す食事を腹へ詰め込むと早々に女遊びに出かけた。
粗末な天幕の中、年嵩の娼婦は少年の筋肉質な胸に指を這わせ、媚を含んだ笑みで愛を囁いた。ヘルマンは石膏粉で粧られた彼女の顔を知っていた。母が世話していた少女で、幼い頃、何度も遊んでもらった記憶がある。それでも抱くには支障なかった。
事が済んだ後、嘗て少女だった女は笑った。「立派な兵隊さんになったねえ、あの坊やが。時の流れは残酷ね」女は口付けで紅の落ちた唇を歪めた。肌に刻まれた細かな皺がその残酷さの証明だった。「幾つになった」へルマンは訊ねた。女は薄く笑って少年の頭を掻き抱いた。汗と雌の匂いに少年は目を閉じた。「幾つになった」彼は小さく繰り返した。この戦陣幕に溢れる娼婦と傭兵の何人が、自分の正確な歳など数えているだろうと思いながら。
「あんたの母さんには世話になったわ」女は呟いた。「右も左も知らない小娘の私に、少なくとも生きていく方法を教えてくれたのだから」
ヘルマンは、滅びた村で唯一人生き残った年上の少女と初めて出会った日を思い出した。傭兵達の目を盗み、輜重の馬車へ忍び込んで泣いていた彼女の声に気づき、母に教えたのは他ならぬヘルマンだった。まだ彼が母の膝の高さしか背丈のなかった年頃の話だ。その時から姉と慕った女は随分と老いた。
「けど、どちらが幸せか」女は喉の奥で笑った。ヘルマンは彼女の顔を仰ぎ見ようとしたが、女は彼を抑えて放さなかった。細腕は首筋に絡まり、女の体温を伝えた。「私の村を焼いたのは国王陛下の兵隊よ。南の山脈を越えて襲ってきた敵と戦うために、兵隊に食べさせる食料が必要だったんだって」女は言った。「もうすぐ、新しい王様があの男を倒してくれるんだね。沢山の村を焼きながら、遂に追い詰めたんだから」
「……イレーネ」
「またおいでね、私の可愛い兵隊さん。次の戦を生き残ったら」女は哄笑した。天幕の外までも響き渡るその声は慟哭じみていたが、やがて幽かな歌声に変わった。それは少女がよく歌っていた、今はもうない村の歌だった。
“青き空、美し大地よ。昼に墾し、夜に眠る、我ら地に根ざすものの幸福よ。女神の恩寵は絶えることなく、教会の鐘は恵みを奏でる。美し空、碧き大地よ。昼に踊り、夜に歌う、我ら地に根ざすものの幸福よ――”
ヘルマンは女の腕で眠り、暁方、敷布の下に貨を滑り込ませて天幕を離れた。
午前には、決戦は翌日だと布令が出た。戦陣幕は慌しく活動を始め、ヘルマンも忙殺された。夕刻、ふと息をついた時、女はよく歌を覚えていたものだと思った。
戦場では瞬間が過去を塗り潰す。後を見ていては死んでしまうからだ。ヘルマンは傭兵ではない自分をもう殆ど思い出せない。幼い頃、夜毎に聞いた筈の子守唄さえ。
「どうした、ヘルマン」声をかけてきたのは年配の古参兵だった。入隊直後には随分と扱かれたものだが、尊敬すべき先達であり、よき戦友だ。「しけた面してんじゃねえか」
「別に何でもない」へルマンは応じた。古参兵は肩を竦めた。「ならいいがね。気をつけろよ、戦場でしょぼくれてると死神に目をつけられるぞ。特に俺達は」「危険な任務だから」へルマンは敢えて意地悪く笑って相手の言葉を奪った。「承知してるさ。血が騒いで仕方ない。早く敵をぶっ殺してやりたくてな」
「上等だ」古参兵は大笑した。「小隊長がお呼びだぞ。餓狼隊と最後の打合せだ」
「またか。俺あいつ嫌いだ」ヘルマンは昨日の男を思い出して答えた。人のものとは思えぬ程に静謐な、鮮やか過ぎる青の眸。同じ最底辺の癖に。
指定の場所に向かうと、小隊長だけでなく、聯隊長と参謀長がいた。小隊長は、二人に、へルマンを優秀な兵士だと紹介した。聯隊長は期待していると言った。ヘルマンは神妙に頷いた。聯隊長自らが現場に現れる程に重要な任務だ。失敗は許されない。
餓狼隊は、今度は二人だった。昨日の隊長の横にいるのは、人相の悪い大柄な男だった。ヘルマンは彼を見て安心した。物騒な名前の部隊が優男の集団だったら納得いかないので。
餓狼隊の隊長は連れを紹介しなかった。男は罅割れた戦場声で、隊の二番手だと名乗った。
参謀長が手筈の確認を始めた。餓狼隊に先鋒を任せるという段になって、二番手の男が騒ぎ始めた。「聞いてねえぞ! 俺達だけで敵の本隊にぶち当たれってのか」
彼の隊長は彼を一瞥した。「きみがいなくても支障ない。恐いなら逃げていいよ」
「このっ…!」二番手は憎悪の視線を彼の隊長に注いだが、睨まれた方は気にも留めず、「見苦しいところを見せたね」と聯隊の面々に詫びた。ヘルマンと小隊長は不信で顔をしかめたが、聯隊長は平然と「構わん」と受けた。
会話は続き、確認は終わった。餓狼隊の二人が去った後、聯隊長はヘルマンに目を留め、「不満か」と問うた。ヘルマンは「何故あいつらなんだ」と問い返した。
「餓狼隊は要らない」聯隊長は答えた。「必要なのはあの男だ」
「あの男って」どちらのことを差しているかは、問うまでもなく明白だった。
聯隊長は低い声で言った。「剣を抜けば一度に二十人を斬り斃し、時には単独で敵陣を蹂躙する、勇者の亡霊」
「まさか」へルマンは引き攣った笑みで答えた。それは戦場人の迷信だ。数十年、変わらぬ姿で戦場を渡る、比する者なき最強の戦士。一振りの刃で無数の屍を積上げる苛烈な戦い様は、まるで御伽噺の英雄のようだと。そんなものが実在する筈がない。
聯隊長は「明日はよく働け。終戦後にまた会おう」と踵を返した。ヘルマンは不安を拭えぬまま彼らを見送った。夕刻、無性に昨夜の女を抱きたくなり輜重へ向かったが、女は他の男の相手をしており、ヘルマンは仕方なく天幕へ戻った。
夜は瞬く間に過ぎた。深夜の内に戦列は整い、夜明けと共に進軍喇叭が吹き鳴らされた。ヘルマン達は本隊を離れ、狩人の案内に従って、森道を辿った。
針葉樹の森は乾いた風に騒がしく、道は複雑だった。朝の冷気は肌を刺す程に鋭かった。
木々の向こうから戦の怒号が聞こえ始めた頃には昼を回っていた。先行していた偵察が戻り、敵の数と様子を伝えた。異常はなかった。
指揮官が集まり、作戦の実行を決めた。皆の中で一人だけ、餓狼隊の隊長は気乗りしないようだった。空気が不穏だと言う彼を、小隊長と餓狼隊の二番手が臆病者と謗り、頷かせた。「わかった、付き合うよ」
奇襲隊は開けた窪地で小休止を取った後、粛々と戦列を整えた。聯隊は無言で兜の面頬を落とし、餓狼隊は忍び笑いや悪態と共に武器を確かめた。誰かが祈る声が幽かに聞こえた。ヘルマンは小隊長を横目にした。小隊長は頷いた。一拍の後、突撃の合図が放たれた。
傭兵達の怒号と雄叫び、武具の音が空気を揺るがした。奇襲隊は森を駆け、敵陣へ飛び込んだ。
急襲を受けた敵軍は混乱に陥った。先行した餓狼隊が応戦準備の間も与えず彼らを薙倒し、聯隊の部隊は彼らに続いて敵を制圧した。敵軍の混乱は瞬く間に広がった。逃げ惑う者、応戦する者、何れにせよ統率を欠き、急襲を許した彼らは絶好の獲物だった。作戦通り、奇襲隊は古い王の軍勢の横腹に食い付いた。
ヘルマンも仲間達も存分に殺した。戦闘の高揚が視界を狭め、体は朱を求めて勝手に剣を振るった。刃はすぐに脂に毀れた。屍から奪った鎚矛で、敵の頭を兜ごと叩き潰す。原始的な本能が理性を塗り潰していく。喉の奥から怒号が迸った。
横の味方が「お」と声を上げ、身を屈めた。彼が拾い上げたのは精巧な細工の銀の短剣だった。柄頭の紅玉、黒革の鞘。一目で価値のある品と知れた。拾い主は短剣を戦靴に押し込もうとした。
その胸に矢が突き立った。
短い呼吸音と共に、彼と他の十数人が一斉に倒れた。敵も味方も区別なく、射抜かれた者が地に伏す音がけたたましく響き、ヘルマンを正気に返らせた。一拍遅れ、幾重もの悲鳴が冬の空を貫いた。
正面で、敵兵が弓を構えて二重の列を組んでいた。張り詰められた弦。鋭く輝く鏃。
彼らの背後に列んだ騎兵が槍を構えている。突撃を待つ馬が嘶きを上げる。
「糞が、味方ごとかよ」吐き捨てる声に視線を巡らせれば、矢を受けて膝をついた小隊長が剣に縋っていた。彼は口元を僅かに吊り上げたが、声は震えていた。「待ち構えてやがったな。何も知らない雑兵共を盾にして」
「小隊長」へルマンは掠れた声を吐いた。同時に第二射の号令が轟き、風切音と共に小隊長は倒れた。誰かが無様な叫び声を上げた。
瞬間、奇襲隊は瓦解した。真先に敗走に転じたのは餓狼隊だった。聯隊も数瞬遅れて士気が崩れた。背後の森へ走る多くの者は背中に矢を受け倒れた。掃射を追って騎兵が駆け、恐怖に立ち竦む者を突き殺した。ヘルマンは鎚矛を手に、迫る槍の先端を呆然と眺めていた。
直に己の胸を貫く筈の槍が突然、横へ転じた。馬が転倒し、騎手が振り落とされて地に転がった。骸の鎧に蹄を滑らせたのだと理解した途端、猛烈な恐怖に襲われ体が震えた。酷い目眩に、堪らず鎚矛を取り落とした。膝が崩れる。嫌だ。死にたくない! ああ、と喉の奥から声が漏れた。心臓を掠めた死神の手の冷たさに、ヘルマンは絶叫した。
上から頭を押さえつけられ、ヘルマンは地に伏した。「落ち着け」聞こえたのは何年も戦を共にした古参兵の声だった。「お前らしくない。落ち着けよ」
また一人が戦斧に兜ごと頭を割られて倒れた。地に転がり天を仰いだ顔は、餓狼隊の二番手だった。虐殺に目を奪われるヘルマンを強引に俯かせて古参兵は言った。「生き残りたければ冷静になれ。いつものようにだ。できるな」
前方で激しい金属音が響いた。そして、濡れた重い音が。どよめきと叫び声が。
「すげぇな、おい」古参兵が乾いた声で笑ったが、ヘルマンには何が起きたのかわからなかった。見開いた目には血に濡れた地面しか映らない。あ、と呻いたのは無意識のことだった。古参兵はヘルマンの頭から手を放した。「退くぞ。餓狼の隊長殿が突っ込んだ。敵がびびってる間に森へ走れ」
ヘルマンは半ば引きずられて撤退した。未だ戦う仲間の間を這い、骸を盾に矢を防いで茂みへ逃げ帰ると、ヘルマンは盛大に嘔吐した。古参兵はその背中を摩りながら「射て、射て」とがなった。藪に留まり弓を構える味方は少なかった。
「畜生!」誰かが吐き捨てた。奇襲隊の敗残兵は疎らな応射を続けながら撤退した。
無様に敗走した奇襲隊は夕刻、本隊と合流した。決着と目した戦いの趨勢は定まらず、新しい王と古い王、双方の軍勢は曠野を挟んで睨み合いを続けていた。
奇襲隊の敗走の経緯を聞きに、聯隊長、参謀長らが負傷兵の天幕へ訪れた。彼らは事情を聞くと苦い顔をした。投げ出された荷物の影で項垂れていたヘルマンは、参謀長が聯隊長に囁く言葉を幽かに聞いた。「奇襲が敵に知れていたのかも知れません、閣下」
ヘルマンは目を瞑って歯軋りした。暗闇の中、迫り来る槍の穂先が見えた。血と泥に塗れたまま、彼は、頭を抱えて一晩を過ごした。天幕には負傷した者の呻き声が絶えず、それは時折、とどめを欲する言葉と祈りに変わった。
暁方までに、更に五人が帰り着いた。天幕の中では七人が死んだ。日が昇って初めて、ヘルマンは周囲に気を配る余裕を取り戻した。新しい王の軍勢の被害は大きく、並ぶ天幕の殆どが空だった。これ程多くが死んだ戦は久々だと、指の欠けた傭兵が、煙草を手に嘆くのを聞いた。次の戦いを行えるまで数日が必要だろう。
早朝、聯隊長は新しい王の元へ呼び出された。新しい王は戦の被害の原因を奇襲の失敗に求めた。王は、聯隊長が奇襲隊を編成するために兵を割かなければ右翼を支え切れただろうと言った。即座に聯隊長は処断を受け、聯隊は解体された。新しい王の使いは次こそが決戦と触れ回り、軍団の再編成まで待機を命じたが、聯隊長を慕っていた兵は陣を去った。
ヘルマンは去らなかった。勝たせてくれる大将なら誰でもいい。新しい王は臨時の裁判すら開かず聯隊長を処分したことで多くの兵を失望させたが、まだ無敗だ。
「餓狼隊は全滅だそうだ」負傷兵の天幕で、古参兵が言った。彼が残った理由をヘルマンは知らないが、興味はなかった。
「隊長殿だけが深夜に帰陣したらしいが」古参兵は口元を引き攣らせて笑った。「すげぇよな。ただの剣で、重騎兵を馬ごと真二つにしやがった。阿呆面した周りの敵が我に返った時にはもう敵の只中に飛び込んで、五人以上を斬り殺してやがって」
「亡霊」へルマンは投げ遣りに答えた。「馬鹿馬鹿しい。あんたも恐怖で幻を見たんだ。いい歳してちびりやがって、逃げ帰る間中、臭くて堪らなかったじゃねえか」
「勇気には際限があるのさ。底の見えない井戸のようなもんだ。生きる間中は汲み出し続けにゃあならんが、中身どれだけが残ってるのかは本人にもわからん」古参兵は皮肉げに言った。「戦が恐くねえ奴なんかいねえよ。燃え尽きる前に恐怖を殺して、偶には火傷しながら生きるのさ。小便は消火に最適だ、覚えとけよ」
無駄話は適当に続き、途絶えた。古参兵はもう一眠りするかねと欠伸した。ヘルマンは喉の渇きを癒すために天幕を出た。給水所で泥臭い水を呷り、ふと、生き残ったらまたおいでと、あの女の言葉を思い出した。
彼女は変わらず娼婦の天幕にいて、気怠げな笑みで少年を迎えた。「おかえり、私の兵隊さん。別人みたいね、つい一昨日まで、新人の士官さんみたいな素直な目だったのに」
「心外だ」ヘルマンは顔をしかめ女が伸ばした手を取った。強い力で引き寄せると、女の白い体から薄絹が落ちた。女は抱き寄せられながら、腕が脱けてしまうわと文句を言った。ヘルマンは黙殺し、「どんな目をしてる」と問うた。
女は軽やかに答えた。「兵隊、人殺し、死神に憑かれた目。今度の戦は辛いのね、戦闘前夜のお客も同じ目だったわ」彼女は頭を動かし、ヘルマンに首筋を晒した。「総て明日で終わりにしてやるって言いながら、とても乱暴にした。見て、この傷は彼に引っ掻かれたの」
「酷いな」ヘルマンは適当に応えたが、妙な胸騒ぎを覚え、問うた。「どんな奴だ」
その硬い声を女は勘違いした。「怒ってくれるのね。あの人は……」彼女は媚びた口調でその男の正体を告げた。それは昨日、敵の矢に射抜かれて死んだ小隊長だった。
裏切りに絶句するヘルマンに、女は甘えた声で言った。慰めてよ、私の兵隊さん、私の坊や。女はするりとヘルマンの腕から抜けた。ヘルマンは薄闇に浮かび上がる裸体を眺め、唾を飲んだ。急激に身の内から湧き上がった激しい感情をぶつけたら、女は脆い陶器のように壊れてしまうのではないかと思いながら。
女は壊れなかった。代わりに、収まらぬ熱い息の間に囁いた。「昔、結婚の約束をしたわ」
ヘルマンは首を横に振り、もう他の男の話をするなと言った。女は悲しげに笑った。「女を手に入れたければ、甘い言葉で惑わさないと駄目よ。そして夢物語を信じさせなくちゃ」
「……俺が」少年は応じて声を絞り出した。他の娼婦と幾度も交わした口約束。「いつか、成り上がって将校になったら、迎えに来てやる。苦労はさせない、一緒に暮らそう」
女は喉を仰け反らせて笑った。ヘルマンは、愛していると言った。女は瞑目したが、やがてうっとりと微笑んだ。「それでいいのよ。大人の男は嘘が巧くなくちゃね」
女は横たわったまま水差しに手を伸ばし、木杯に葡萄酒を注いで捧げた。少年は受け取り、呷った。疲れた体に酒は巡り、少年は眠りに落ちた。深い暗闇への淵で女の声を聞いた。どちらが幸せか、と。返事をするには疲れ過ぎていた。緊張が、ぷつりと切れた。
夢は無秩序な過去を彷った。戦の高揚、戦友の死、負傷兵の天幕、夕暮れの勝鬨、槍の穂先、母の失踪。嘗て、荷馬車の陰で泣いていた少女がいた。枯井戸程にも暗い絶望を湛えた眸の。
姉と慕った彼女は老いた。熱情の井戸は枯れたまま。
深い微睡の末に目が覚めた。天幕の空気は冷え切って暗く、周囲は静まり返っており、夜明け前と思えた。少年は手で探ったが、女の温もりはなかった。姉さん、と言いかけて口を噤み、名を呼ぶ。返事はなく、少年の声だけが静寂へ落ちた。悪夢の残滓が胸に針を立て、焦燥と化して肺を灼く。指先に固いものが触れた。掴めば、小さな木箱だった。女の横たわっていた敷布の上に取り残されていたその蓋を、ヘルマンは乱暴に開いた。
軽やかに零れ落ちたのは旋律だった。素朴な音階を奏でながら、箱に詰まった絡繰が回る。
“青き空、美し大地よ。昼に墾し、夜に眠る、我ら地に根ざす者の幸福よ――”
ああ、と少年は息を呑んだ。そして絡繰の隙間に、まるで宝石のように収められた指輪に指先で触れた。色付きの針金を束ねただけの指輪は年月に錆びていた。
結婚の約束をしたわ。
「イレー、ネ」少年は慌てて服を着て天幕を飛び出した。強く、木箱を握っていた。
寝静まった輜重に人気はなく、精々、強欲な酒保商人が商売をしているだけだった。ヘルマンは「おい」と店の客に声をかけた。客は、商品である子供用の外套を手にしたまま振り向いた。知った顔だった。ヘルマンは叩きつけるように訊ねた。「女を見なかったか。三十くらいの、栗毛の」
餓狼隊の隊長は酒保商人を横目にした。恰幅のいい女商人は、知っていると答えた。「さっき、ここに来たよ。陣地から出るつもりだと。危ないってとめたんだがね、聞かなかった」
「どこへ」ヘルマンは訊ねたが、女商人は首を横に振った。「知るもんか」
ヘルマンは踵を返した。餓狼隊の隊長が「探すなら急いだ方がいい」と言った。ヘルマンは黙殺したが、静かな声は冷気を貫いて背を打った。「夜が明けたら伝達があるけれど、深夜、兵隊の脱走を防ぐ警戒線が張られた。許可なく陣を離れる者は射ち殺される」
「強引で、迷惑な話だね。士気が下がって反乱でも起こったら、兄さん、うちを守っておくれよ」酒保商人のぼやきを振り切り、ヘルマンは駆け出した。色とりどりの天幕と荷馬車の間を抜け、酔い潰れた兵士を飛び越えて、只管に。
天幕を支える紐に足を取られ転倒した。手の中から木箱が零れた。転がって蓋が開き、絡繰が女の歌をなぞった。女神の恩寵は絶えることなく、教会の鐘は恵みを奏でる。青き空、美し大地よ。ああ、茜の空はあまりに美しく、地は屍と血に塗れて罪深い。だけど。なあ、頼むよ、女神様。人殺しの祈りが届くなら。
――姉ちゃん、イレーネ姉ちゃん。
大人になったら、お嫁さんになってくれる?
手をついて立ち上がり、土埃も払わずまた走る。捻った足首が熱を持って疼いた。
女の故郷の歌が遠ざかる。無邪気な約束を忘れた男と、忘れなかった女。果たしてどちらが愚かなのか。それとも、幼子の言葉に縋らなければ生きられないこの地上こそを呪うべきか、この手で血に染めておきながら。だが未来はなくとも安らぎはあった。泥濘に沈む輝石のように、確かに。
恋ではなく、愛もない。名を知らぬ熱情が身の内を焦がし、慟哭の衝動が胸を裂いた。
やがて天幕も荷馬車も疎らになり、目の前には草原が広がった。警戒線は見当たらない。あるとすれば街道の手前だろう。そう検討をつけたのは戦場人の勘だった。今、見つけられれば間に合う。
ヘルマンは女の姿を探して視線を巡らせた。そして喉が裂ける程に名を叫んだ。
草原を金に染め、夜が明ける。
[ 終 ]