(1)また会えたなら
私は嫌なことがあると
逃げるように古本屋へ向かう。
なぜ古本屋なのか。
古い本には時間が蓄積されている。
前の主人と過ごした温かい時間、あるいは寂しく書庫で過ごした冷たい時間。
そんな色々な時間が混じり合ったインクは優しい香りがし、硬くなった私の気持ちをゆっくりと溶かしてくれる。
だから私は古本の香りが好きだ。
その日も私は古本屋に来ていた。
目的の本はない。
ただ気分がすぐれず、気づくといつもの場所へと足が向いていた。
いつも訪れるのは大学の近くにある古びた小さな古本屋だ。
老夫婦が経営しており、たまにアルバイトと思われる若い男性が一人いるくらいで、お世辞にも繁盛しているとは言い難い。
それでも経営できているのは、大学の日本文学科の学生が利用しているからだろう。
照明は薄暗く、本棚が所狭しと並べられており通路は狭い。
しかしあまり客が来ないからなのか、店主の趣味なのか、蔵書の量と質は豊かである。
陰気な雰囲気が漂っているが、不思議と気持ちが落ち着くのだ。
店に入ると新聞を読みながらレジに座っていた老店主が顔を上げ、私の顔をちらりと見た。
そしてまたすぐに新聞に目を落とす。
相変わらず愛想が悪いな。
しかし私は「本を盗らなければ自由にしていい」という、無言のメッセージだと勝手に受け取っている。
私は本棚の間をぶらぶらと歩いた。
深く息を吸い込む。
古いインクの香りが
鼻孔から胸へと流れる。
心がほぐれていくのが感じられる。
この感覚がたまらなく好きだ。
ただ本の匂いを嗅ぐために店に来ていたら、本格的に変な人かもしれない。
しかし私はこの古本屋の経営を支える種属の学生であり、レポートや演習授業がある度にお世話になっている。
なので自分には「私は変な人ではない」と言い聞かせていた。
この"行為"への免罪符ではないが、なぜかその時小説を買う気になった。
よく来ているので、大体の本棚の場所は把握している。
たしか小説の棚は右の奥の方。
狭い通路を抜けて小説の本棚へ向かった。
本棚の前には先客がいた。
後姿しか見えないが、黒く長い髪に明かりが柔らかく反射している。
本を選ぶために伸ばされた手は透き通るように白く、指先の動きには気品が感じられた。
左の手にはすでに二冊の文庫本が抱えられている。
私がぼんやりと観察していると、女性はいきなりこちらを振り返った。
「あ」
驚いた私は思わず声を出してしまった。
「ご、ごめんなさい!」
女性は慌てた様子で右手に取った文庫本を元の位置に戻す。
「本を選ぶのに夢中で、待ってる人がいるなんて気づきませんでした!」
本屋の中だからか、小さな声だが必死に謝ってくる。
「いや、急いでませんから。ゆっくり選んでください」
「いえ、もう大丈夫です!お待たせしてすみません。失礼します!」
彼女は再び私に背を向けると、二冊の文庫本を抱え急いでその場を去ってしまった。
あんなに慌てなくてもよかったのに。
彼女は真剣に本を選んでいた。
それに反し私は気まぐれで本を選ぶつもりだった。
急がせてしまって悪いことをしたな。
ちょっぴり罪悪感。
彼女が元の場所に戻した文庫本を、私も手に取ってみる。
あまり古くないどころか、ここにある本にしては新しい方だ。
裏表紙のあらすじを見てみると、どうやら恋愛小説のようだ。
私はあまり恋愛小説を読まない。
恋愛小説特有の甘さがどうも苦手だからだ。
しかしこれも何かの縁。
この恋愛小説を読んでみようかな。
幸いなことに隣りには同じ本がもう一冊置かれていた。
もし彼女が戻ってきてこの本を買おうとしても、もう一冊あれば困ることはないだろう。
ページを最初から最後までパラパラと早めくりして傷んでいないことを確認し、その小説をレジへと持って言った。
会計を済ませ店の外に出る。
春にしてはまだ肌寒い空気が、紅潮した頬に気持ち良く感じられた。
それにしても
とても綺麗な人だったなぁ。
あまりじっくりとは見ていないが、彼女の端正な顔立ちが脳裏に焼き付いている。
服装は派手でもなく地味でもなく、おとなしくて清楚な印象を受けた。
そして
黒く澄んだ瞳に一瞬で吸い込まれそうになった。
年齢は私とあまり変わらないだろう。
同じ大学に通っているかもしれない。
だとすると同じ日本文学科の学生か、それともよっぽど本好きな他学科の学生か。
そこまで考えを巡らせて、ふと我に返った。
いやいや、そんな偶然あるわけがない。
だいたい大学生かどうかもわからないじゃないか。
あの短時間に私は彼女の何を理解したというのだ。
しかしわかったこともある。
彼女は私の憧れの女性像そのものだということ。
本が似合う気品溢れる女性。
"おしとやか"や"優美"といった言葉が似合う女性。
私がなりたい女性、そして絶対になれない女性そのものだ。
もしかしたら見た目だけかもしれない。実はガサツなのかもしれない。
しかし数十秒の間に私が見たのは、憧れのそれだった。
私が持っていない物を持つ女性。
もし古本屋でまた会えたなら、今度は話しかけてみよう。
人見知りな自分を打破するだけの価値はあるだろう。
私には無い物を感じてみたい。
なんだかとてもいい気分だ。
店に入ったときとは大違いな自分を単純な人間だとは思うけれど。
やはり古本屋の力はすごい。
私は足取りも軽く家路についた。