一四、新型航空機登場
1937年7月7日は、盧溝橋事件の発生と日中戦争の始まりの日であった。
だが、源三郎・静巴の情報提供と西安事件阻止計画により、西安で蒋介石救出を行って日中戦争の回避に成功した。尚、この際に蒋介石は日本と「日中反共同盟」を締結し、満洲帝國国交と山東省経済特区指定も承認した。日本は陸軍一個師団と海軍一個航空戦隊を派遣して、国民政府軍と共に中国共産党と戦うこととなった。
7月8日・中島飛行機航空機製作所
「中島社長、おはようございます」
「おはよう源三郎君…」
源三郎・静巴は中島飛行機航空機製作所を訪ねていた。中島 知久平社長から〝新型量産機完成セリ〟と簡単な手紙で送られたからだ。
「おはようございます。どうですか?艦攻(艦上攻撃機)と爆撃機は?」
「静巴君、大丈夫だ。予定通り、この機体から陸海軍の共通機となった。だが、苦労させるね~…源三郎君と一緒に陸軍を説得させるのに苦労したよ…」
中島は苦笑して、まだ陸軍と海軍の溝埋めに躍起になっていた頃を思い出す。
「まあ、我が社と共同で2200馬力の誉が量産目処が立ったから良かったがな…」
「あれは三菱さんの金星より苦労しましたよ?金星同等の生産性・整備性・信頼性確保に苦戦しましたから…」
「源三郎君には感謝してるよ…静巴君も機体に関しては凄く感謝している…最初は出来るのかと思ったけどね…」
「それはどうも~」
三人は雑談をここで切り上げて工場の中へと進む。
「さて、本題の一つ…九七式艦上攻撃機だ」
目の前に有るのは、全長11m・全幅14m・全高3.8m・自重3500kgの攻撃機、九七式艦上攻撃機・天山。
史実では1943年に実戦配備であったが、この機体は源三郎と静巴の尽力から流れ出た一つの攻撃機である。最初から防弾装備充実の2200馬力を叩き出す誉を積んでおり、最高速度は500km/h・350km/hを越える。
「何かこう…先に出してしまった感が否めませんね…」
「今更遅いよ…何せ、大量生産出来るとは言え開戦までに更新出来る位だからね…」
中島が苦笑した。何故なら物量作戦を得意とするアメリカ相手とあっては、日本は二歩三歩先の質とある程度以上の数を以って、数で圧倒するアメリカと戦わなければならない。
「そうですね…あと、爆撃機の方は?」
「大丈夫、陸海軍も満足だったよ…ちょっとエンジンの整備には少々梃子摺るが…」
「まあ、新しいエンジンですからね…構造的に…」
そして、三人は次の工場棟に向かって一際大きい機体を目にする。
「九七式爆撃機…連山…」
四発機の機体は、今までの爆撃機とは一線を画してより近代的な爆撃機である。
スペックは次のとおりである。
九七式爆撃機一一型・連山
全長23m×全幅32m×全高7.2m・自重18000kg・全重37000kg
最高605km/h・巡航450km/h・エンジン出力3000PS×四
航続距離8000km(最荷重時)
武装:20ミリ機銃六挺・12.7ミリ機銃銃四挺
250kg爆弾三二発又800kg爆弾十発又航空魚雷八発(最大搭載量8000kg)
尚、排気過給器が製作不能の為ターボプロップエンジンを搭載している。読者の中で気付いている方も居るだろうが、二年三ヶ月前に開発が開始された「田麩発動機開発プロジェクト」で、連山一一型に搭載されているのは試作量産型三号(出力3000PS・量産性能計画値の65%)を積んでいる。出力や整備性は計画値に達している為、今度は量産性能向上に対する策である、工作機械の製造・稼動を急ピッチに行っている。開発終了は一年三ヵ月後の1938年10月を予定しているという。
「これもやり過ぎた感が有り過ぎて…」
「全くな…でも、これを月幾つで生産出来るかと言われれば…15機から20機が限度だな…他の機種も作らなければならないからな…」
その後、中島飛行機は攻撃機・爆撃機を担当して三菱が戦闘機を担当することとなった。尚、艦上哨戒機を愛知時計電機航空機部門が担当し、水上機関係を川西航空機が担当していた。だが、日本の空を守る迎撃機の選定にはまだ着手していなかった。
しかし、現状ではまだ先ということで新興航空企業に開発指示を出すことになった。
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